第69話 抜け落ちた記憶
私が起きたことに気づいたロロは、両手にあったタオルをその場に落として、真っ先に駆け寄った。そのまま彼女の胸に抱きしめられ──私は身じろぎしながら谷間から顔を出す。
「ロロ、私すごく寝てた……?」
「覚えておられないのですか? 昨日、お茶会で赤ワインを自分で被ってしまって、それで酔って寝てしまったのでしょう」
「え? は?」
寝起きだからか、やけに頭が回らない。
私は昨日のことを懸命に思い出そうとするが、確かに赤ワインを自分でかけた。そしてエリス皇女と後日会う約束をしたことぐらいだ。その先はどうにも記憶がない。
「ワインを口にはしていませんでしたが、おそらく匂いに酔ってしまったのでしょうね。お嬢様はお酒に弱いのは新しい発見でしたわ」
ロロの言う通り、私はお酒が弱いらしい。前回はお酒を飲めるような環境でもなかったし、特に興味もなかった。それはまあいいとして、匂いで酔うとかお酒弱すぎる。
さらに悲しいことに記憶が全くないというのは、いかがなものだろうか。
「大変だったのですからね。レオンハルトがお嬢様を抱きかかえて、戻ってきたときは何事かと思いました」
「え?」
「しかもあの方は、どうやら酔った人間を見たことが無かったのでしょうね。顔を真っ赤にして泥酔しているお嬢様が、毒に侵されたのでは? と顔を青くしていたのですから」
「あのレオンハルトが?」
ロロは可笑しそうに、くすくすと笑った。
「ええ、あの嘘くさい笑みが外れて、大層慌てておりましたよ」
「そう……」
昨日のことを思い出そうとにも、何も覚えていない。ただ酔って眠ってしまっただけだろうか。けれどずっと続いていた悪夢は見なかった。
レオンハルトに殺される夢も、殺そうとする夢も──。代わりに彼から逃げ続ける夢を見た気がした。それは茶番劇のような「私を捕まえてごらんなさい」ぐらいのノリで、彼もその状況を楽しんでいるような内容だ。
これは予知夢ではなく、単なる私の願望だろう。
(でも逃げるのはありよね。殺し殺されるよりはずっと建設的だわ)
レオンハルトと二人きりにはならず、ロロとナナシに相談をして生誕祭の後に彼の元を離れるという案は悪くないかもしれない。
とにもかくにも、昨日何があったのか本人に聞いてからにしよう。
「レオンハルトは今どこに居るの?」
「ああ。それが、ですね……」
なんでもレオンハルトも色々と思う所があったようで、その夜にナナシと手合わせを願い出たそうだ。深夜遅くまでホテル屋上で素手の喧嘩──手合わせをして、二人とも屋上でそのまま倒れたように眠ってしまったとか。
「まったく。お嬢様の護衛として、もっと自覚をしていただかないと困りますわ」
「二人ともじゃあまだ寝ているの?」
「まさか。ナナシは護衛なのですから、明朝に叩き起こしましたわ」
「ええ!? もう少し寝かせてあげてもいいんじゃ?」
「いいのですよ」
ロロはそういったが、私は雇い主として二人が心配という建前を駆使して会いに行くことにした。顔を洗って、身支度を整えて食事を取っていたので、行動開始したのは午後二時過ぎになってしまったが。
もっともナナシは私の護衛なので、部屋からフロアに向かえばすんなり会える。
「よう、姫さん。今日はぐっすり寝られたんだって?」
「!?」
いつものように陽気に声をかけてくれるナナシだったが、その顔の痣はもちろん、どうみても寝不足なうえにズタボロじゃないか。「魔物討伐から帰ってきた」と言われて、信じてしまいそうなほどの満身創痍だ。
私は挨拶もなく、ナナシに手を翳した。
「治癒」
淡い黄緑色の光が一瞬でナナシの傷と疲労を癒す。みるみるうちに痣や傷を治癒した。うん、前よりも練度が高くなっている。
「おお! さすが姫さんの治癒魔法は効果抜群だな」
「もう。手合わせというレベルじゃないじゃない!」
「すまない。つい、途中から本気になってしまってな」
「ついって!?」
笑い事ではない。一騎当千の武士と同等の力を持つ魔人族の喧嘩だ。どちらかが死んでもおかしくはない。
(それにしても……酔った時に私、レオンハルトに何を言ってしまったのだろう)
少しでも覚えていればよかったのだけれど、私は悪夢のことで悩んでいたこと以外何も思い出せない。唸っていると──。
ぽん、と大きな手が私の頭を撫でる。
「……ナナシ?」
「なに。姫さんが心配することもない」
「そうなの?」
「ああ」
撫でるのに慣れているのか、その手の温かさにホッとする。よくよく考えれば生きていれば、私と同じくらいの子どもが居たとか言っていたのだ、頭を撫でるのにも慣れているのだろう。
その子が少しだけ羨ましい。
ナナシのような人が父親だったらよかったのに。ローワンと雰囲気が全く違うのに、不思議とそう思ってしまう。
「あの馬鹿は姫さんを傷つけたから、拙者に手合わせを願い出ただけのことだ」
「私を……傷つけた?」
私は自分の体に視線を向けるが、怪我をしたような痕はない。
「まあ、あの馬鹿は見かけ以上に不器用なんだ」
(不器用? あのレオンハルトが? なんでもそつなくこなしていたけれど……)
小首を傾げる私に、ナナシは複雑そうな顔で微笑んだ。
「まあ、まだ屋上だろうから、気になるなら付いていってやる。拙者は姫さんの護衛者だからな」
「……うん。ありがとう」
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