7.少しだけ縮まった距離
休み明けの朝、私は厨房で朝食の載った盆を受け取った。
昨日は一日休みをもらい、給金の一部を実家へ届けていた。レオン様の食事が少し気になって、今回は見送ろうかとも考えたけど、父の手に給金が渡ればどこかの誰かを助けるために消えてしまう可能性がある。
結局、予定通り実家へ帰り、家計を預かる母へ直接渡してきた。
「そういえば、昨日の若様はどうでした?」
厨房に行く途中、近くにいた使用人に聞いてみると少し困ったような顔をされてしまう。
「朝と昼はほとんど召し上がらなかったそうよ。夕食は全部食べたみたいだけど」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。侍女長が夕食を持っていった後は召し上がったそうだけど……」
それを聞いて私は眉を寄せつつも、厨房の近くに来たので、お礼を言って別れる。
休む前にちゃんと食べるよう何度も言ったはず。おまけに、食べなければ野菜を多めにするとまで言っておいたのにあまり効果はなかったみたい……
盆を受け取り、レオン様の部屋へ向かう。
食欲がないのなら無理に食べさせるつもりはないけれど、昨日だけ食べなかったというのなら理由くらいは知っておきたい。
場合によっては、昼食の野菜を増やしてもらわなければ。
部屋の前へ着き、いつものように扉を軽く叩いた。
「若様。朝食をお持ちしました」
すぐには返事がない。まだ眠っているのだろうかと思い、もう一度声をかけようとしたところで、扉の向こうから小さな声が返ってきた。
「……入れば」
一瞬、自分が聞き間違えたのかと思った。
これまでは「入らないで」としか言われてなかったのに、今日は向こうから入っていいと言われたのだ。驚くなと言う方が難しい。
「入ってもよろしいんですか?」
「そう言ったの。入るなら好きにすれば」
「はーい。では、失礼します」
なぜか少し怒られながら扉を開ける。レオン様はすでに窓際の椅子に座っていた。一度だけこちらへ視線を向けたけれど、すぐに窓の方へと視線を戻してしまう。
昨日食事をあまり取っていなかったと聞いていたので、まず顔色を確認する。
目立って具合が悪そうには見えないことに少しホッとしつつ、机まで進み、朝食の盆を置いた。
「若様。昨日、朝と昼をほとんど食べなかったそうですね」
「……食べた」
「少しだけと聞いていますが?」
「食べたことには変わらない」
「それは屁理屈です」
即座に返すと、レオン様が不満そうにこちらを見るけれど、以前のように怒鳴って追い出そうとはしなかった。
その変化が少し不思議で、私は首を傾げながらも話を続ける。
「私、休む前にちゃんと食べてくださいって言いましたよね?」
「……忘れてた」
「……まぁ、それなら野菜を増やす件はまた今度にしましょう」
私が専属になる前の数日は一口もつけない日もあったと聞いている。それに夕食は食べてくれたのだから、レオン様にとってもかなり前進しているはず。
今回の脅……説得が効果があったのかわからないので、使えるものは使っておこうと思っての事だったけれど、今度という言葉にレオン様は何か言いたげな顔をしているが、何かを話すことはなかった。
私はそんなレオン様の様子が気になったものの、これ以上何か詮索するようなことは止めることにした。
「では、今日はその分もしっかり食べてくださいね」
「分かってる」
若様はそう言いながら、朝食へ手を伸ばす。昨日ほとんど食べていなかった反動なのか、それとも単純に空腹なのか、思っていたより食べる手は早かった。
私はその様子を少し眺めてから、邪魔にならないうちに部屋を出ることにする。
「では、食器はあとで取りに——」
「……待って」
そう言って部屋を出ようとして足を止める。振り返ると、レオン様はお皿を見つめたままだった。
「どうかしましたか?」
「……別に」
「では戻りますね」
「待って!」
今度は少し大きな声で呼び止められる。振り返るとレオン様は恥ずかしそうに俯いていた。その可愛らしい姿に少し揶揄いたい気持ちをグッと抑え、いつものように振る舞う。
けれど、何をしてほしいというのがないとなると——
「ここにいた方がいいんですか?」
「……好きにすれば」
「ふふっ……じゃあ、そうしますね」
ぶっきらぼうに随分と遠回りな言い方をする。私は部屋の隅に置かれていた椅子を借り、レオン様から少し距離を取ったところへ腰を下ろす。
近づきすぎれば落ち着かないだろうし、同じ部屋にいるだけならこれくらいでいいと思った。
レオン様は時々こちらを気にするように視線を向けてきたものの、それ以上何かを言うことはなかった。
私も無理に会話をしようとはせず、食事を終えるまで静かに待つことにする。
しばらくすると、レオン様がぽつりと口を開いた。
「ずっと若様って呼ぶの?」
「どういう意味でしょうか?」
突然の質問に思わず聞き返す。働き出して数日、ほかの使用人たちも若様と呼んでいたし、レオン様と呼ぶのは侍女長だけだった。
だから、私も何の疑問も持たず同じように呼んでいたのだけれど——
「若様と呼ばれるのは嫌なのですか?」
「……別に」
「では、お名前でお呼びしましょうか?」
「名前?」
「はい。侍女長のように、レオン様と」
初めて本人へ向けてその名前を呼んだ。直接口にしてみると、これまで「若様」と呼んでいた時より少しだけ距離が近くなったような不思議な感じがした。
「……好きにすれば」
「では、そうしますね……レオン様」
「……何だよ」
「いえいえ、ただ呼んでみただけです」
「なんなの、いったい……」
照れて真っ赤になった顔を逸らしたまま、残りの朝食を食べているところを見ると、レオン様も名前で呼ばれることに慣れていないように見える。
「では、改めまして。レオン様、ちゃんと全部食べてくださいね」
「分かったから、何回も呼ばないで!」
「せっかく許可をいただいたので、慣れておこうかと」
「慣れるためなら、僕がいない場所で練習して!」
そう言われ、思わず笑ってしまう。数日前までまともに会話すら続かなかったことを考えれば、こんなふうに言い返してもらえるだけでも大きな変化だと思う。
レオン様が朝食を食べ終えたのを確認し、空気を入れ替えようと窓へ近づく。
「少し窓を開けますね」
「好きにすれば」
「では、遠慮なく」
窓へ手を伸ばそうとして、ふと動きを止める。光が差し込んだことで、窓枠の上に薄く積もった埃がよく見えた。
指先で軽くなぞってみると、思っていた以上にはっきりと汚れがついた。
「……あら?」
改めて部屋を見回してみる。窓枠だけではなく、棚の隅や家具の下にも薄く埃が溜まっていた。
侍女長から最近は最低限の掃除しかできていないと聞いていたけれど、これは最低限にも満たしていないのでは……
レオン様は一日のほとんどをこの部屋で過ごしている。それなら、なおさらこの状態を放っておくわけにはいかない。
「レオン様」
「今度は何?」
「この部屋、きちんと掃除しましょう」
「嫌だっ!」
間髪入れずに返ってきた。予想はしていたけれど、ここまで早いとは思わなかった。
「でも埃がかなり溜まっていますよ。このままでは体にもよくありません」
「僕は気にしない」
「私が気にします」
「お前の部屋じゃないだろ」
「ですが、私が担当しているお部屋です」
そう言い返すと、レオン様は面倒そうに顔をしかめる。掃除をするには誰かがこの部屋へ入らなければならない。それを嫌がっていることくらいは私にも分かっている。
私がするにしても、レオン様がいる状態で掃除をする訳にもいかない。だからといって、このまま何もしないなんて許せるはずがない。
「……分かりました」
「何が?」
「掃除の方法は私が考えます」
「……やらなくていい」
「それは却下です」
「何でお前が決めるんだ!」
「レオン様に快適に過ごしてもらうのが専属侍女の仕事なので!」
そう便利な言葉を胸を張って答えると、レオン様は何か言いたそうに口を開いた。けれど、反論が思いつかなかったのか、不満そうに黙り込んでしまう。
私はもう一度、埃の溜まった部屋を見回した。
掃除をするなら、レオン様が嫌がらない方法を考えなければならないが、どうせやるなら部屋全体を綺麗にしたい。
さて、どうしましょうか。




