4.専属侍女として
翌朝、いつもより少し早く仕事を始めた私は、侍女長からレオン様の一日の流れについて説明を受けていた。
「朝食はこちらです。昼食と夕食も基本的には部屋まで運んでもらいます」
「はい」
「掃除についてですが、以前なら時間になるとレオン様ご自身が部屋を出ておられました。使用人と同じ部屋にいることを避けるためだと思われます」
その話を聞いて、昨日聞かされたことを思い出す。
自分が近くにいると誰かを傷つける。そう考えているレオン様なら、掃除をする使用人に出ていけと言うより、自分から離れる方を選ぶのも不思議ではない。
「ですが、最近はそれも難しくなっています」
「部屋の外に出ること自体を?」
「ええ。以前よりも人と顔を合わせることを避けるようになりました」
侍女長の表情が少し曇る。つまり、今の若様は部屋から出たくないというより、外に誰かがいることそのものを怖がっているのかもしれない。
「では、掃除はどうしているのですか?」
「最低限だけです。どうしても必要な時には声をかけていますが、それでも部屋を空けていただけないことがあります」
「なるほど……」
専属侍女になったとはいえ、どうやら最初から普通にお世話ができるわけではなさそうだ。
まずは、部屋に入るところから始めなければならないらしい。
「それと、もう一つあります」
「はい」
「最近、食事をほとんど召し上がっていません」
私は思わず眉を寄せた。
「ほとんど、ですか?」
「ええ。部屋の前には置いているのですが、手をつけないことも増えています」
「中まで持っていかないのですか?」
「レオン様から部屋に入るなと言われています」
事情を知っていれば、無理に入ろうとしない気持ちは分かる。以前、侍女も大怪我をしているのだから、怖がるなという方が無理だろう。
けれど——
「食事を運んでいるだけで、食べてもらうところまではできていないということですよね?」
「……そうなります」
責めるつもりはない。誰だって怪我はしたくないし、本人から入るなと言われている以上、無理に踏み込もうとは思わないだろう。
でも、私は今日からレオン様の専属侍女だ。
食事を扉の前に置いて、それで、『はい、おしまい』というわけにはいかない。少なくとも、きちんと食べてもらえるところまでは自分の仕事だと思う。
「分かりました」
「……何がです?」
「とりあえず、朝食を持っていきます。あっ、それと——」
私の提案に侍女長が何か言いたそうな顔をしたけれど、結局は私の望み通りにしてくれた。
私は用意されていた、温かいスープとパン、それから果物が少し置かれたお盆を持って部屋を出ようとする。
「エレナ」
「はい?」
「無理はしないでください」
「大丈夫です」
「そういう人ほど無理をするのですが」
侍女長のため息を背中で聞きながら、私はレオン様の部屋へと向かう。
屋敷の奥へ進むにつれて、少しずつ人の気配が減っていくのがわかった。使用人たちも必要がなければこの辺りには近づかないようにしているのだろう。
やがて目的の扉の前に着き、私は一度お盆を持ち直し、軽く扉を叩いた。
「若様。朝食をお持ちしました」
返事はない。もう一度声をかけてみたけれど、やはり中から返事が返ってくることはなかった。
ここまでは想定通り。侍女長からは返事がなくても驚かないようにと言われていた。
だから——
「失礼いたします」
そう言って私は扉を開けた。
次の瞬間、私の行動に驚いたのか、少年が目を大きく見開いた姿が目に入るのと同時に何かがこちらへ飛んできた。
「出て行け!」
「わっ」
思わず身を引く。けれど、飛んできたそれは私に当たることなく、少し手前の床へ落ちた。
熊のぬいぐるみだった。
勢いよく投げられたように見えたのに、私のところまでは届いていない。私は床に落ちた熊を一度見てから、今度はしっかりと部屋へと視線を向ける。
柔らかな黒髪に、澄んだ青い瞳。整った顔立ちにはまだ幼さが残っており、噂に聞いていたほど恐ろしい存在には思えなかった。
私がレオン様を観察するように、レオン様も窓際から少し離れた場所に立ちながら、こちらを睨みつけている。
「出て行け!」
もう一度叫んだ声がわずかに震えていた。怒っているというより、怯えているようにも聞こえた。
「部屋に入るなって言っただろ!」
「そう聞いております」
「じゃあ出て行け!」
私はお盆を持ったまま、その場で少しだけ首を傾げる。若様は両腕を自分の体に押しつけるようにしていた。
まるで、手を動かさないようにしているみたいに。
「出て行かないと……」
レオン様はそこで言葉を止め、小さく息を吸った。
「つ、突き飛ばすぞ」
その言葉とは裏腹に、腕をさらに強く押さえ込んでいる。レオン様は私を脅しているんじゃなくて、本当に手を出さないように必死に我慢しているんだというのがわかる。
「若様はお優しいのですね」
「……は?」
ぽかん、とした顔をされ、思わずクスッと笑ってしまう。さっきまで睨まれていたはずなのに、今度は純粋に意味が分からないという顔だ。
「……何を言ってるんだ」
「だって、私に手を出さないようにしてくださっているじゃないですか」
「……」
「それって、優しいってことですよね?」
私はそう言いながら、部屋の中央にある机までゆっくり歩いた。
驚かせないように、一歩ずつ、ゆっくりと。
レオン様は何も言わない。ただ、信じられないものを見るような目で私を見ている。
「僕は……僕は、化け物なんだぞ」
近づいたからこそ聞こえた、小さな声でレオン様はそう言った。
違います。そう言いたかったけれど、初めて会った私にそんなことを言われても、何も変わらない。
それどころか近づくことさえ許してもらえなくなるだろう。
そう思い、聞こえなかったふりをした。
レオン様の傷は相当に深いと改めて理解させられてしまう。
今はただ、料理を食べてもらわないと。そう思った私は、何も言わずに机の上へお盆を置き、一息ついた。
「では、私は部屋から出ます」
「……え?」
「でも、朝食は絶対に食べてくださいね」
レオン様はまだ黙っているが、私は捲し立てるように話を続ける。
「食べないと元気が出ませんから。それに、もし食べなかったら、また来ます」
「……は?」
「何度でも来ます」
「なんでっ!」
「あっ、失礼しました。本日から私が若様の専属侍女になったからです」
そう胸を張って答えると、レオン様の顔が少しだけ引きつった。
「入るなって言った!」
「もちろん、できるだけご希望を叶えられるよう、検討いたします」
「じゃあ来ないで!」
「ですが、食べなかったらまた来ます」
「……」
レオン様は黙ってキョロキョロと周りを見渡す。たぶん、私の本気が伝わったのだろう。けれど、そんなことは無駄である。
私はそこで、服のポケットから鍵を取り出した。
「ちなみに、鍵を閉めても無駄ですよ」
「……それ、何?」
「この部屋の鍵です。侍女長から預かりました」
「なんで持ってるの!」
「専属侍女ですから」
専属侍女……とても便利な言葉だと思う。レオン様も何か言い返そうとして、結局言葉が出てこなかったらしい。
私は思わず少し笑ってしまう。
「ふふっ、では、ちゃんと食べてくださいね」
そう言って今度こそ部屋を出る。扉を閉める直前にちらりと中を見ると、レオン様はまだ呆然とこちらを見ていた。
怒らせたかもしれないが、まあ、その時はその時だ。
私は扉の前で壁に背を預ける。食べるまでずっと見張るつもりはないけれど、今日は少しくらい待ってみてもいいだろう。これで食べてくれなければ、その時はまた別の方法を考えればいい。
そう思いながらしばらく待っていると、扉の向こうから小さな音がした。
カチャ、と扉がほんの少しだけ開く。
「……?」
壁から背を離すと、その隙間から何かがゆっくりと押し出されてきた。
さっきまで私が持っていたお盆だ。その上には、空になった皿がきれいに並んでいる。
私が何か声をかけるより先に、扉は勢いよく閉じられた。
「……ふふ」
ちゃんと食べてくれた。
それだけのことなのに不思議と嬉しく思える。私は空になった皿を見ながら、お盆を持ち上げる。
まずは一歩。
さて、お昼もきちんと食べてもらうために、次はどうやってお話ししましょうか。




