2.侍女長と
侍女長の部室の扉の前で、一度ふぅっと息を吐く。
「……よし」
何もしていないのだから、堂々としていればいい。そう自分に言い聞かせて扉を三度叩くと、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
侍女長はいつも通り背筋を伸ばし、隙のない身なりをしている。その表情から呼び出しの理由を読み取ろうとしたけれど、残念ながら私にそんな特技はない。
「エレナ、仕事は終わりましたか?」
「はい。本日任されていた分はすべて終えております」
「そうですか。そこへ座ってください」
「……はい」
立ったまま話して終わるかと思えば、わざわざ座るように言われ、どうしても不審に思ってしまう。
解雇ではないと思いたい。何もしていないのだから解雇されるはずがないのだけれど、世の中には理不尽というものが存在する。
例えば、こちらにその気はなくても、貴族様に盾突いた。などと言って追い出される……なんてこともあると聞く。
私はなるべく平静を装いながら、侍女長の正面へ腰を下ろした。
「エレナ。あなたに一つ、お願いしたい仕事があります」
「仕事……ですか?」
解雇ではなかったことにほっとし、肩から少し力が抜けるのを感じる。
「はい。ただし、普段の仕事とは少し違います」
侍女長はそこで一度言葉を切り、なぜか非常に言いづらそうにしている。安心したばかりだというのに、その様子を見ていると再び嫌な予感がしてきた。
「……若様のことは知っていますね?」
「はい」
もちろん知っている。この屋敷で働いていて、侯爵家の一人息子について何も知らない者はいないだろう。
もっとも、私が知っているのは使用人同士で話されている程度のことだけだ。
侯爵家の一人息子、レオン様。
生まれつきとても力が強い。少し力を入れただけで物を壊してしまうほどなのだという。
そして、今はほとんど自室から出てこない。私も掃除をしている最中に2度ほどお見掛けしただけである。
「そのレオン様の専属侍女をあなたにお願いしたいのです」
「えっ、私が……ですか?」
「ええ」
思わず聞き返したけれど、侍女長の顔に冗談を言っている様子はなかった。私はここで働き始めてまだ半年程度だ。仕事には慣れてきたとはいえ、もっと長く勤めている侍女はいくらでもいる。
それに、今の私の仕事と専属侍女の仕事は全く異なる。それなのに——
「どうして私なのでしょう?」
当然の疑問を口にすると、侍女長はほんの少しだけ視線を逸らした。
「……人がいないのです」
「人がいない?」
「正確には、やりたがる者がいません」
「ああ……なるほど」
その言葉に納得する。レオン様について詳しい事情を知らない私でも、以前世話をしていた侍女が大怪我をしたという話くらいは聞いている。
そんな噂が広まっている中、何度も担当した侍女が辞めているとなると、わざわざ自分から専属になりたいと言う者が出てこないのも無理はなかった。
「もちろん、無理にとは言いません。断っても、今まで通りここで働いてもらいます」
「そうなのですね」
選択肢はないと言われると思っていたが、どうやら私の意見を聞いてくれるようなので少し安心する。
レオン様の専属になること自体が嫌なわけではない。直接会ったこともない相手を嫌いようがないし、噂だけを聞いて怖がるのも違うと思っている。
けれど、専属ともなれば当然仕事は増えるだろう。今までと同じ給金で仕事だけが増えるのであれば、引き受ける理由はない。
私は弟の学費を稼ぐために働いているのであって、慈善活動をしに来ているわけではないのだから。
「あの、侍女長」
「なんでしょう」
「お給金について、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
侍女長の眉がわずかに動いた。
どうやら私が何を聞こうとしているのか、口にする前から分かっていたらしい。
「専属になっていただけるのであれば、給金は今の2.5倍になります」
「もちろん、やります、やらせてください!」
考えるより先に答えていた。そんな私に呆れるように侍女長は何も言わずに目を閉じ、そのまま小さく息を吐く。即答した私とは対照的に、なぜかひどく疲れたような顔をしていた。
「エレナ」
「はい」
「あなたの事情は理解しています。弟君の学費を貯めるために働いていることも」
「はい」
「ですが、せめてもう少し悩んでもいいのではありませんか?」
「ちゃんと悩みましたよ?」
数秒ぐらいは。だって2.5倍ですよ。渋って別の人に話を持っていかれでもしたら困るじゃないですか。
そんな私の思考を読んだように、侍女長が再度深いため息をついた。けれど、仕方がないじゃないですか。誰もやりたがらない仕事なのだから給金が高くなるのは当然だし、高い給金を提示されたのなら私が断る理由もない。
これで弟の学費を予定よりずっと早く貯められる。教材費や制服代まで心配しなくて済むかもしれないし、上手くいけば実家に送れる分も増やせるだろう。
そう考えれば、私にとっては願ってもない話だった。
「本当に……あなたという人は」
「頑張って働きます!」
「……そこだけは心配していません」
侍女長は額を押さえながらも、ほんの少しだけ笑っていた。その期待に応えられるよう、しっかりと働かなければ。
「では、明日からレオン様の専属についていただきます」
「はい!」
「ただし、その前に知っておいてもらわなければならないことがあります」
それまで少し呆れた様子だった侍女長の表情が変わる。声からも先ほどまでの柔らかさが消えたことに気づき、私も自然と背筋を伸ばす。
「レオン様がなぜ部屋から出なくなったのか。その経緯についてです」
私は黙って侍女長の言葉を待った。
どうやら2.5倍のお給金をいただく仕事は、私が思っているよりずっと簡単なものではないらしい。




