1.プロローグ
「それが終わったら、次はこっちをお願い!」
「はーい。すぐに行きまーす」
呼びかけられ、私は抱えていた洗濯物を棚へと収める。皺にならないよう一枚ずつ整えてから扉を閉じ、今度は廊下の向こうで待っている先輩侍女のもとへ向かった。
伯爵令嬢である私がなぜこんなことをしているのか。その答えはとても簡単だ。
お金がないからである。
我が家は一応伯爵家だ。領地もあれば屋敷もあり、使用人だってわずかながら残ってくれている。
内容に目を瞑れば明日の食事に困るほどではないし、領民から税を搾り取らなければ生きていけないほど困窮はしていない。
それは私たち、特に父が領民に迷惑をかけるくらいなら、自分たちが貧しくなればいいという考えで生活しているからである。
私の父はとても人がいい。
困っていると聞けばお金を貸し、助けてほしいと言われれば手を差し伸べる。一度で懲りればいいものを、騙された相手にさえ事情があったのだろうと言って許してしまい、何度か騙されている。
その結果、我が伯爵家の財政は年々、見事なほど右肩下がりになった。領民たちの生活は変わっていないことはとても立派なことだと思う。
けれど、その分だけ屋敷の使用人は減り、食卓に並ぶ料理も質素になり、私が新しいドレスを買ってもらったのが何年前だったかはもう思い出すこともできない。
父のことは嫌いではなく、むしろ人としては尊敬している。
ただ娘として一つだけ言わせてもらえるのなら――人を助ける前に、たまには自分の家も助けてほしい。
「どうしたの?」
「なんでもないです!」
先輩侍女の声で我に返り、私は磨き終えた花瓶を窓辺へ戻し、少し離れたところから位置を確認した。傾いていないことを確かめると、次に頼まれていたテーブルの拭き掃除へ移る。
そんなギリギリの伯爵家の生活だけれど、私が働きに出る決心をしたのは別の理由がある。
それは、私には弟がいることだ。
私より六つ年下の弟は、あと数年もすれば王都の学園へ入学する歳になる。貴族の子弟であれば通うのが当然とされている学園だけれど、当然ながら授業料も教材費も安くはない。
今の伯爵家にそれを余裕をもって支払えるほどのお金はなかった。
私のドレスなら何年でも同じもので構わない。社交界に出る機会だって減らせばいい。けれど、家が貧しいという理由だけで、弟の将来まで狭めるのは嫌だった。
幸い、伯爵令嬢として最低限の礼儀作法は叩き込まれている。掃除や洗濯については最初こそ苦戦したものの、人間、必要に迫られれば大抵のことは覚えられるものだ。
そして何より、この侯爵家は給金がいい。
王国でも名の知れた英雄の家系で、現侯爵様自身も王国騎士団の副団長を務めている。
屋敷は広く、仕事は決して楽ではないけれど、その分だけ待遇もしっかりしていた。
弟の学費を貯めるには、これ以上ない職場である。
「今日の分はこれで終わりね」
予定していた仕事を一通り終え、私は小さく息を吐いた。
窓の外を見ると、空はすでに夕焼け色に染まり始めている。あとは片づけを済ませれば、今日の仕事も終わりを迎える。
そう思ったところで、廊下の向こうからやってきた一人の侍女が私の前で足を止めた。
「エレナ、侍女長が呼んでいたわよ」
「侍女長が?」
思わず自分の仕事を振り返る。花瓶や食器を割るというような失敗は何もしていないはずだ。
「何かあった?」
「私は何も? ただ、仕事が終わったら侍女長室へ来るようにだって」
「わかった。ありがとう!」
持ち場に戻る彼女を見送り、私は首を傾げた。わざわざ侍女長の部室へと呼び出されるなんて、働き始めてから初めてのことだった。
まさか解雇だろうか?
それは困る。ここより給金のいい働き口を探すとなれば、それだけで時間がかかってしまう。
それに、弟の学費を貯める計画にも大幅な狂いが生じるてしまう。
「……何もしてないよね」
誰にともなく呟きながら、念のため今日一日の行動をもう一度思い返す。けれど、思い浮かぶことはなにもなかった。
ならば考えていても仕方がない。
私は服の皺を整え、少しだけ緊張しながら侍女長の部室へと向かった。
この呼び出しが、私の仕事を――そしてその後の人生まで大きく変えることになるとは、この時の私はまだ知らなかった。




