第十六話 狩り
まだ日が昇ったばかりの森は、夜の湿り気を残していた。
木々の隙間から差し込む朝日は淡く、足元の落ち葉には露がついている。
俺は弓を背負い、父さんとシェリアと護衛を連れて、森の奥へ進んでいた。
先頭を歩くのは森番のポールだ。
ポールは時々足を止め、足元や木の幹を確認しながら、迷いなく歩いていく。
隣を歩くシェリアが、小さくあくびをした。
「眠そうだな」
「……そりゃ眠いわよ、まだ暗かったのに起こされたし」
シェリアは目をこすりながら答えた。
寝起きのままなのか、髪がぼさぼさに乱れている。
特に後ろの方が跳ねていて、本人はまったく気にしていないようだった。
「髪、跳ねてるぞ」
「ん……」
俺は手を伸ばし、跳ねた髪を撫でつける。
指先で何度か整えてやると、少しはましになった。
「これでいいだろ」
「ありがと」
シェリアはそう言うと、眠そうに俺の肩へ顎をのせてきた。
「狩りって剣は使わないんでしょ?」
「基本は弓だな。近づいてとどめを刺す時は槍やナイフも使う」
「ふーん」
シェリアはあまり興味がなさそうに返事をした。
「強い真獣でも出てこないかなー」
前を歩いていたポールが苦笑する。
「この森にそこまで強い獣は住んでいませんよ。たまに熊が出るくらいです」
「それは分からんぞ、ポール」
前を歩く父さんが俺たちの方を振り返る。
「昔、この森には牛を丸呑みにできるような大蛇が住んでいたと、祖父から聞いたことがある」
「蛇ですか? 木の上にたまにいますけど、馬を丸吞みする大きさなら、もっと目撃されてもいいんじゃないですかね?」
「俺も話で聞いただけだ。子供を怖がらせるための作り話かもしれんがな」
「蛇かー」
シェリアは少し微妙そうな顔をする。
「弱そうだなあ」
蛇との戦いを想像して、お気に召さなかったようだ。
「長生きして、肉に魔力を蓄えてきた真獣なら美味いかもしれないぞ」
蛇の真獣か、天敵のいないこの森なら、何十年経った今でも生きている可能性はあるな。
しばらく歩くと、ポールが足を止めてしゃがみ込む。父さんが声を抑えて尋ねる。
「何か見つけたか?」
「ええ。鹿ですね。多分、ここを通っています」
ポールは足元を指さした。
落ち葉の隙間に、糞が残っている。
近くの草も少し折れていた。
「新しいのか?」
「そうですね。夜明け前か、つい先ほどか。まだ遠くには行っていないでしょう」
ポールは立ち上がり、音を立てないように歩き出した。
俺たちもその後に続く。
しばらく鹿の痕跡を追って進むと、ポールがまた立ち止まった。
今度は俺たちに静かにするよう、手で合図する。
ポールが指さした先に、木々の間から少し開けた場所が見えた。
俺は魔力を薄く広げる。
枝葉の間を抜けるように、前方へ伸ばしていくと、立派な牡鹿がいた。
大きな角を持ち、朝露に濡れた草を食んでいる。
俺の魔力が鹿に触れた瞬間、牡鹿が顔を上げた。
耳を動かし、周囲を警戒する。
以前、ネアが言っていた通り、獣は人間より魔力に敏感らしい。俺はすぐに魔力を引っ込めた。
牡鹿はしばらく周囲を見回していたが、こちらには気づいていないようだった。
やがて警戒を解き、再び草を食べようと顔を下ろす。
父さんが俺に小さく言った。
「リオン。あの鹿を狙ってみろ」
俺は頷き、背中の弓を外し、矢を一本抜いてそっとつがえる。茂みから顔をのぞかせ、様子を伺うと、牡鹿はまだこちらに気づいていないようだった。
牡鹿が再び草をついばもうと顔を下ろした瞬間、俺は矢を放つ。
矢は牡鹿の胸元に刺さり赤黒い血が白い毛を染める。
牡鹿は苦痛に悲鳴を上げ、そのまま森の奥へ走り出した。
「追うぞ!」
すかさず、ポールが猟犬を放つ。猟犬は血の匂いを追い、鹿が逃げた方向へ駆け出した。
後を追うと、落ち葉の上に血の跡が点々と続いていた。しばらく追跡を続けると、猟犬の吠える声が聞こえてくる。その先で、大きな木にもたれかかるように鹿が倒れていた。
大きな体を横たえ、胸元から血を流している。近づくと、まだわずかに胸が上下していた。
俺は慎重に近づき、腰のナイフを抜く。
「ここです。坊ちゃま」
「ああ、分かってる」
ポールが指さした首元の太い血管に刃を入れる。
鹿の体が一度震え、それから動かなくなった。
「お見事です」
「いや、最初の一射で仕留めきれず、無駄に苦しめた。こいつには悪い事をした」
「この大きさの矢で即死させるのは、無理ですよ。さあ血を抜きましょう」
それから俺たちは、鹿を木に吊るして血抜きの準備を始めた。ポールの指示に従い、俺は鹿の脚を押さえる。シェリアは少し離れたところに立って、濃い獣の血の匂いに顔を歪ませている。護衛の二人にも手伝てもらい、鹿を解体していると、ふと茂みの向こうで音がした。
枝がわずかに擦れるような音だった。
父さんが剣の柄に手を置き、護衛も剣を抜いて警戒する。俺も魔力を広げ、正体を探る。
血の匂いに釣られた肉食獣だろうか。
薄く広げた魔力の中に、何かが侵入した。
人だ。
「カフッ」
空気が漏れるような音がした。
ポールの喉に矢が刺さっていた。
ポールは喉元を押さえ、その場に崩れ落ちる。
「ポール!」
俺はとっさにシェリアへ目配せした。
そしてポールの襟をつかみ、鹿を吊るしていた木の陰へ一緒に隠れる。
直後、矢が続けざまに降り注いだ。
ローエンと護衛の兵たちが剣と外套で矢を弾く。
その中で、シェリアだけが前に出ていた。
飛んでくる矢を、ひらひらと身をかわして避ける。
さらに一本を空中で掴み取ると、身をひねる勢いのまま投げ返した。
矢は弓で放たれた時ほど真っすぐではなかったが、茂みの奥で弓を引こうとしていた男の肩に深く突き立つ。背後で護衛の兵が一人、腹に矢を受けて膝をつく。
「シェリア様、お下がりください!」
シェリアは護衛の呼び止める声を無視し、茂みに向かって走り出す。シェリアの接近に気づいた男たちは、美しい金髪を束ねた目の前の少女を見て、驚いたような顔をした。
「金髪のガキ? とんでもない上玉だ。生きたまま捕らえるぞ」
「アルヴィス領の貴族だろう。ちと小さすぎるが、どこぞの変態貴族なら高値で買い取るだろ」
「馬鹿、お前ら、こんな機会滅多にねえ。お前らがやらねえなら、売るまでは俺が楽しむぞ?」
男たちは下卑た視線をシェリアへ向ける。
だが、シェリアはその言葉を気に留めることもなく、腰の二本の直剣を引き抜いた。
最初に手を伸ばしてきた男の腕を輪切りにし、返す刃で喉を貫く。
男が声を上げる前に血が噴き、膝から崩れ落ちた。
続いて掴みかかろうとした男を、シェリアは横薙ぎに斬る。
腹を裂かれた男は、ぼたぼたと溢れる臓腑を押さえながら倒れた。
状況を呑み込めず、放心している男達の間をシェリアは踊るように潜り抜けた。
剣が閃くたびに、喉が裂け、腕が飛び、革鎧ごと肉が断たれる。
気づけば、彼女の周囲には死体が積み上がっていた。
混乱の中、錆びた甲冑に身を包み、大きなメイスを構えた大男が前に出る。
「囲め、この餓鬼は強い。かなり高位の貴族だ。死体でも高く売れる。殺すつもりでかかれ」
大男の声で、傭兵たちがじりじりと距離を詰める。
大男はメイスを上段に振り上げ、そのまま力任せに振り下ろした。
シェリアがひらりと身をかわすと、メイスが地面にめり込み、土と落ち葉が跳ね上がった。
その隙にシェリアは踏み込み、甲冑の隙間へ剣を差し込む。
しかし、刃は鎖帷子に阻まれ、深く通らなかった。
大男が身をよじる。
嫌な音を立てて、シェリアの直剣が折れた。
「あ」
シェリアは少し驚いたような顔をして、すぐに距離を取る。
彼女を中心に、男たちは包囲を狭めていった。
次の瞬間、背後から斬りかかった男の喉を、シェリアは左手の直剣で裂く。同時に、折れた直剣を槍持ちの男の眼球へ突き刺す。男が悲鳴を上げて崩れるより早く、シェリアはその手から槍を奪った。体をしならせ、背後に迫っていた甲冑の大男へ向かって、奪った槍を投げ放つ。
槍はすさまじい破壊音を響かせながら、大男の甲冑を貫いた。兜の隙間から、血を吹き出した男は、体に突き刺さった槍を引き抜き、叫び声を上げながらメイスを振るう。
シェリアは足元の死体から蛮刀を拾い上げ、振り回されるメイスを避け、大男の頭上へ跳ぶ。
大男が大きく体勢を崩した一瞬。
シェリアはその頭上から、右手に握った蛮刀を力任せに振り下ろした。
ぐしゃり、と頭蓋が潰れる音が響き、大男はその場に崩れ落ちた。
「ば、化け物……!」
誰かが怯えた声を上げた。
その声をきっかけに、男達は逃げ散っていく。
***
俺はポールの首元を押さえていた。
矢は喉に深く刺さっている。
ポールは口から血の泡をぶくぶくと吹き、苦しげに体を震わせていた。
ネアを連れて来なかった事を後悔しながら、ポールの血と傷口の周りを凍結させた。
その時、茂みの向こうから近づいてくる気配を感じ、剣を抜く。
茂みから飛び出した男達の剣を受け止め、足元から冷気を生み出し動きを止める。恐怖に顔を歪ませた男達の首を跳ね、背を向けて逃げる男の膝を蹴り砕く。初めて人を殺したが、獣を殺すのと何ら変わりなかった。
まだ、奥から気配を感じる。
俺はできるだけ薄く長く引き伸ばした魔力の刃を鞭のようにしならせる。魔力の刃は手前の木々を切り裂き、その奥にいた男たちの体も断った。
魔力を通して、木と肉体が切断される感触が伝わる。
茂みの奥から悲鳴が上がった。
探知範囲の外にいた敵の一人が、背を向けて逃げ出す。
俺は逃げる背中に氷の礫を飛ばした。
氷の礫は男の胴体に当たり、男の体がちぎれ跳ぶ。
俺はさらに魔力の探知を広げたが、もう敵の姿はない。
シェリアの方を見ると、戦いは終わっていた。地面には何人もの賊が倒れている。
シェリアは血のついた剣を振り、刃についた血を死体の服で拭っていた。
俺はポールの傷を凍らせたまま、父さんの元へ向かう。
父さんは少し離れた場所で、生き残った賊の一人を足元に転がしていた。
どうやら尋問していたようだ。
俺が近づくのに気づくと、父さんは足元の賊の首を踏み砕いた。
鈍い音がして、賊は動かなくなる。
「生かしておかなくて良いのか?」
俺が尋ねると、父さんは剣を納めながら答えた。
「ああ、事情は聴けたからな、ヴォルグ領から来た傭兵団だ」
「ヴォルグ領から?」
「ああ。雇い主を失い、道中で村を襲いながらここまで来たらしい。俺らの恰好を見て、襲い掛かってきたんだろう」
父さんはそう言って、ポールの方を見る。
「ポールはどうだ?」
「傷は凍らせたけど……長くは持たない」
「そうか。シェリア!」
父さんが呼ぶと、シェリアがこちらへとてとてとかけてきた。
「無事か、剣はどうした?」
「こっちのは、折られちゃった。次はもっと上手くやるわ」
ローエンはシェリアの身体に傷がないのを確認して息を吐きだす。
「お前はもう俺たちの家族でもあるんだ、あまり心配させるな」
ローエンはシェリアの顔に着いた血を拭きとる。
「ポールを運ぶ。狩りは中止だ、帰るぞ」
俺たちはポールを寝かせた木の下へ行くと、ポールはかろうじて息をしていた。
護衛がポールを担ごうとすると、俺は手で制止し、代わりに魔力でポールの身体を包んで寝かせたまま持ち上げる。護衛は驚いた顔をしているが、彼にはこれが魔術かどうかなど分からないのだから構わないだろう。
俺たちはポールを支えながら、来た道を急いだ。
***
どれだけ歩いただろうか。
ポールの体を魔力で支え続けるのは、思っていたよりずっと重労働だった。
額に汗が浮かんだ。
息も少しずつ荒くなってくる。
父さんは前を歩き、道を選びながら森を進んでいた。
シェリアは時々こちらを振り返り、俺の様子を見ていた。
「リオン、少し休んだ方がいい」
シェリアが小さく言う。
俺は首を振った。
「駄目だ。ポールの容態がかなり悪い。急いでネアに見せないと助からない」
ポールの呼吸は浅い。
喉元を凍らせて出血は抑えているが、それだけだ。
治せているわけじゃない。
「……分かった」
シェリアは短く答え、また前を向いた。
その時、父さんが急に立ち止まった。
俺たちも足を止める。
「父さん?」
「何か感じないか?」
父さんは周囲を見回していた。
俺も魔力を広げようとしたが、ポールの状態を維持するので余裕がない。
シェリアが眉を寄せる。
「本当だ。なんか……揺れてる?」
足元の落ち葉がわずかに震えていた。
木の枝が不自然に揺れる。
次の瞬間、森の奥から鳥たちが一斉に飛び立った。
「全員伏せろ!」
父さんが叫んだ直後、地面が大きく揺れた。足元が波打つように動く。
木々がぎしぎしと音を立て、大きくしなる。護衛の兵たちが体勢を崩し、誰かが短く声を上げた。
俺はポールの体を押さえ込むように魔力を集中させる。太い枝が折れて落ち、近くの木の幹が低く軋む。
やがて、揺れは少しずつ弱まっていった。
枝葉のざわめきだけが残る。
父さんがゆっくりと立ち上がった。
「……収まったか。この地域で地震とは珍しいな」
俺はポールの首元を確認した。
凍らせた傷口は何とか保っている。
だが、ポールの顔色はさらに悪くなっていた。
「急ごう」
俺が言うと、父さんが頷いた。
再び足を進めようとした、その時だった。
シェリアが鋭く声を上げる。
「何か来てる!」
その声と同時に、森の奥から轟音が響いた。
木が折れ、地面を蹴る重い足音。
次の瞬間、巨大な白い影が目の前を横切った。
風圧で落ち葉が舞い上がる。
それは、俺たちを踏み潰せそうなほど巨大な豹だった。白い毛並み。血に濡れた赤い口元。俺やネアが魔力を纏うように、身体の周囲に風を纏っている。
白豹は咥えている、護衛の男を食いちぎった。
男の悲鳴は途中で途切れ、その体は白豹の口の中へ呑み込まれていく。
「真獣……」
俺はポールを支えたまま、できるだけ魔力を広げる。
初めて見る敵対的な真獣に警戒心を強める。
白豹はゆっくりとこちらを見る。
まだ、腹を空かせているのか、血に濡れた口元から低い唸り声が漏れている。俺たちを見逃してくれる、気はなさそうだ。
父さんとシェリアが剣を抜く。
「リオン、ポールは置いていく、いつでも逃げれるように下に下ろせ」
俺は父さんの言葉に従って、ポールを背後に下ろし、剣を抜く。
白豹は低く身を沈め、こちらを見据えている。
俺たちは白豹の様子をうかがいながら、少しずつ距離を取った。
白豹がポールに興味を持ち、その体に牙を向けた瞬間。
「今だ、走れ!」
父さんの叫びと同時に、俺たちは駆け出した。
だが、白豹は一瞬で距離を詰めてきた。
重い足音が背後から迫る。
俺たちは三方向に散る。
白豹は一瞬迷ったように見えたが、次の瞬間にはシェリアが追われていることに気づき俺は進路を変える。
「シェリア!」
魔力を伸ばし、薄い刃にして白豹の横腹へ突き立てようとする。
だが、白豹は身をひねり、魔力の刃を避けた。
「見えてるのか……!」
白豹は低く唸り、シェリアへ爪を振るう。
シェリアは身を沈めてそれをかわし、白豹の前足へ刃を突き立てた。
白い毛並みに血が滲む。
だが白豹は止まらなかった。
痛みなどないように牙をむき、シェリアへ噛みつこうとする。
シェリアは剣を引き抜き、横へ跳んだ。
その背後から、父さんが踏み込む。
「こっちだ!」
父さんの剣が白豹の後ろ脚を斬った。
白豹が低く唸る。
一瞬だけ注意が父さんへ向いた。
だが、それもすぐだった。
白豹は身を翻し、再びシェリアへ爪を振るう。爪は空を切ったにも関わらず、地面に深い、爪痕を残す。
シェリアがそれを剣で受け止めた直後、剣が根元から切断される。直後白い尾が鞭のようにしなった。
目にも留まらぬ速さで、白豹の尾がシェリアの体を横から打つ。
激しい衝突音が響き、シェリアの体が宙に弾き飛ばされた。
彼女の吹き飛ぶ先を見て、俺は足元に魔力を集め、地面に深い破壊跡を残して、飛び出す。
魔力を伸ばし、空中でシェリアの体を抱き止める。
だが、勢いを殺しきれない。
「リオン!」
父さんの声が聞こえた。
次の瞬間、俺とシェリアの体は、崖の外へ投げ出されていた。下には、底の見えない暗闇が広がっている。
俺はシェリアを抱えたまま、その闇の中へ落ちていった。




