第十七話 怪物
シェリアの身体を抱き寄せた瞬間、足場は完全に消えた。背中から風が叩きつけ、二人の身体が谷の闇へ引きずり込まれていく。腕の中のシェリアはぐったりとしていて、返事はない。俺は彼女を抱え直し、落下する先を見た。足元に広がっているのは、底の見えない暗闇だった。
「っ……!」
恐怖が喉を塞ぐより先に、俺は崖の壁面へ魔力を伸ばした。青白い魔力が岩肌へ届く。だが、掴んだはずのそれは落下の勢いに耐えきれず、岩の表面で砕け散った。今の俺の魔力では、強度が足りない。
なら、止めるのではなく、落ちる速さを殺すしかない。俺はシェリアを抱え込んだまま、背中から魔力を薄く広げた。翼のように展開した魔力が風を受け、身体が大きく揺れる。胸を潰すような圧がかかり、腕の中のシェリアが滑り落ちそうになる。歯を食いしばり、抱える腕に力を込める。落下の速度はわずかに落ちた。上を見上げると、地上の光がみるみる遠ざかっていた。父さんの声も、白豹の咆哮も、もう風にかき消されてほとんど届かない。
俺は暗闇に向けて、岩の礫をいくつも放った。礫が黒へ消えていく。一拍。二拍。まだ音は返ってこない。背筋に冷たいものが走る。
――どれだけ深いんだ。
その時、横から突風が吹きつけた。身体が流され、崖の壁面が一気に迫る。俺は腰の剣を抜き、すれ違う岩肌へ突き立てた。刃が岩を噛み、ぎぎぎ、と嫌な音を立てて削れていく。腕に衝撃が走り、肩が外れそうになった。だが、落下の勢いは確かに削がれている。
次の瞬間、柄が手の中で跳ねた。剣が岩に弾かれ、指から抜ける。
「くそっ……!」
刃は闇の中へ落ちていった。その直後、下から乾いた破砕音が響いた。さっき放った岩の礫が、底に落ちた音。近い。
俺は右手を壁面へ叩きつけた。爪が岩に引っかかり、皮膚が裂ける。焼けるような痛みが腕を駆け上がったが、構っていられない。右手の周囲に魔力の爪をいくつも生み出し、岩肌へ食い込ませる。
砕けるたびに魔力の爪を生み出し壁面に食い込ませるが、壁の岩は脆く崩れ落ちていく。視界の下に、谷底の岩盤が見えた。もう、すぐそこだった。
「止まれ……!」
右腕に力を込める。肩が軋み、肘が悲鳴を上げる。魔力の爪が岩を削りながら、次々に砕けていく。最後の一本が深く食い込んだ瞬間、身体が引きちぎられるような衝撃が走った。
「はっ……はあっ……」
荒い息だけが耳に残る。俺は壁にしがみついたまま、震える指で腰のポーチから魔紙――魔術刻印が刻まれた紙切れを取り出す。
「――灯れ」
掠れた声で唱えると、魔紙が眩い光を放った。闇が押し退けられ、足元が照らされる。底までは、もうわずかだった。俺は壁に小さな足場を作りながら、ゆっくりと降りていく。やがて、足が湿った地面に触れた。
谷底は冷えていた。じめじめとした土の匂いが鼻を刺し、岩の間を細い川が流れている。魔紙の光に照らされた壁には、黒い苔が張りついていた。
俺は平らな場所を探し、シェリアをそっと寝かせた。
「シェリア」
返事はない。額から少し血が流れている。腕や脚にも擦り傷がいくつもある。大きな外傷は見当たらない。だが、胸が動いていないことに気づいた瞬間、背筋が凍った。
「シェリア……?」
まずい、息をしていない。
俺はシェリアの顎を持ち上げ、魔力を口の中へ滑り込ませる。
奥で舌が落ち、喉を塞いでいる。さらに、口内に溜まった血が息の通り道を塞いでいた。
――まずい。呼吸が止まって、どれだけの時間が経っているんだ?
俺は魔力の先を薄い膜のように広げ、血をぬぐうように外へ掻き出した。舌の奥をそっと持ち上げると、ほんのわずかに、空気の通り道が開いた。
「息を吸ってくれ、シェリア……」
声が掠れる。
呼吸が戻らない。俺はシェリアの顎を支え、息が漏れないように口元を合わせ、シェリアの口へ息を吹き込んだ。
胸が、わずかに膨らむ。
離れると、空気が細く漏れる音がした。だが、シェリア自身の呼吸は戻らない。指先が震える。
「頼む、息をしろ……!」
もう一度、息を吹き込む。
次の瞬間、シェリアの胸が小さく跳ねた。
「っ、げほ……っ!」
彼女は苦しそうに咳き込み、喉の奥に溜まっていた血混じりの息を吐き出した。胸が上下する。浅く、乱れた呼吸だったが、確かに息をしている。
「シェリア!」
まぶたが震え、薄く開く。焦点の合わない瞳が、魔紙の光にぼんやりと照らされる。
「……リ、オン……?」
掠れた声だった。
「喋らなくていい、しばらく休め」
自分の声が震えていた。シェリアは何かを言おうとしたが、また小さく咳き込み、苦しそうに眉を寄せる。
俺は谷の上を見上げた。地上の光は、細い裂け目のように遠い。壁面に足場を作れば、登れないことはないかもしれない。ここは湿度が高い。氷を張ることもできるし、岩を生み出して足場にすることもできる。
だが、その考えはすぐにしぼんだ。
深すぎる。
下から見上げる谷は、落ちている時に見たよりもさらに遠く感じた。上まで届く前に、魔力が尽きれば、今度こそ助からないだろう。今は休息をとって、魔力の強度を取り戻さなければ。
俺は外套を脱ぎ、畳んでシェリアの頭の下に敷いた。肌寒さを感じ、焚き木にできるものはないかと周辺を探す。その時、右手から血が滴っているのに気づく。裂けた皮膚と、剥がれた爪。俺はポーチから縄を出し、包帯代わりに巻き付ける。
右手の痛みを忘れようと魔紙の光を頼りに、枝や落ち葉を拾い集める。湿ったものが多かったが、岩陰には乾いた枝も残っていた。その途中、自分の剣を見つける。 岩にぶつかったのか、刃は欠けているが、折れてはいない。俺は拾い上げ、鞘へ戻した。
シェリアの下へ戻ると、悲痛な叫びが聞こえた。
「……リオン、……リオン! どこ……? いや……置いてかないで……!リオン、助けて……!一人にしないで!」
俺は集めた枝が腕から零れ落ちるのも気にせず、シェリアの下へ駆け戻る。魔紙の光が弱まりはじめ、谷底の闇がじわじわと輪郭を取り戻している。その薄明かりの中で、シェリアは上体を起こし。周囲に手を伸ばしていた。
「ここだ、シェリア!どうした!?」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
こちらを向いた顔は、涙で濡れていた。唇を噛み、体を震わせ、涙が頬を伝って落ちていく。
「い、いなく、ならないで、目を開けたら、く、暗くて……リオンがいなくて……」
言葉の途中で、シェリアは小さく息を詰まらせた。
「置いて行かれたのかと思って、すごくっ、怖かった……」
俺はほっと息をつく。
「すまん、周辺をを探索してただけだ。これは置いていくから、少し待っててくれ」
俺はシェリアのそばに膝をつき、枕元に魔紙を置く。
「リオン、そこにいるの?」
「ん? ああ」
「……何も、見えない」
魔紙の光を受けて、薄く揺れている。けれど、その視線は俺を捉えていなかった。俺の顔ではなく、少しずれた闇の一点を見つめている。
「真っ暗だわ」
その言葉に、背筋が凍った。
魔紙は、彼女のすぐそばで光っている。弱まりかけているとはいえ、まだ周囲を照らしている。なのに、シェリアの目は何も追わない。
まばたきだけが、頼りなく繰り返されている。
見えていない。
そう理解した瞬間、右手の痛みも、谷底の寒さも、全部遠のいた。
――治癒魔術は失った部位を再生できるが、不具となった者の手足を切り落としても、動かせるようにはならない。
シェリアの目に外傷はない、これは治せるのか?
「リオン……?」
不安そうな声が俺を呼ぶ。俺は息を吸うが、うまく入らなかった。これからのシェリアの人生を想像し、彼女が失明している事実を呑み込めずにいる。それでも、声だけは平静を装う。
「……ああ、すまん。ここは光も届かないくらい深い谷の底なんだ。魔紙の明かりも、さっき消えてな」
「そう……なの?」
俺はシェリアに身を寄せる。
「ああ、心配するな。すぐに助けが来る」
彼女の手を握ると冷えた指先が、すがるように俺の手を掴む。
「もう離れないから。しばらく休もう。」
「……うん」
「寒くないか?」
「ちょっと寒いかも」
俺たちは身を寄せ合って、互いの背に腕を回す。互いの体温だけが、暗闇の中でかろうじて現実につなぎ止めてくれるもののように感じた。
火を起こすべきか、一瞬だけ考える。火と煙があれば救助が来る可能性は高まるだろう。
――いや、ネアなら火が無くても、必ず俺たちに気づく。
あれだけ大きな地震と強い魔力を持った真獣と戦闘があったんだ、ネアなら必ず異変に気付いて救助に駆け付ける。
それに、シェリアの腕は俺にきつく抱き着いて離さない。少しでも身じろぎすれば、その腕に力がこもる。今ここで彼女を置いて立ち上がれば、またさっきのように声が枯れるまで俺の名を呼ぶだろう。
シェリアの悲痛な声を思い出しただけで、立ち上がる気力が失せていく。
俺はもう一度、彼女を抱く腕に力を込め、火を起こすべきだという考えを思考の隅に追いやった。
***
どれだけ経ったのだろう。谷間から差し込んでいた微かな光すら消え、すでに日が沈んでいることだけが分かった。耳元にかかるシェリアの吐息だけが、今のこの状況が現実なのだと教えてくれる。冷えた空気の中で、俺は彼女を抱きしめたまま、動けずにいた。
ごかっ、と何かが動く音がする。
最初は、岩が崩れただけかと思った。だが、すぐに別の音が続いた。ずざざ、と地面を擦るような音。ごろごろと小石が転がり、どこか遠くで岩が崩れる。谷底の暗闇の奥から、何かが近づいてきている。
大きい。
反射的に魔力を伸ばしかけて、俺は息を呑んでそれを引っ込めた。白豹が魔力を知覚していたことを思い出したからだ。もし、今近づいてくるものも真獣なら。俺が探ろうとした瞬間、こちらの位置を知られるかもしれない。
「シェリア」
声を潜めて呼ぶ。
「シェリア、起きてるか?」
「ん……? どうしたの、リオン……」
腕の中で、シェリアが小さく身じろぎした。
「何かが来てる。かなり大きい。たぶん、生き物だ。まだ距離はある。少し上に登ってやり過ごすぞ。捕まっててくれ」
「真っ暗だよ……? 火は、つけないの?」
「大丈夫だ。魔力で探りながら、少しずつ登る」
俺は彼女を片腕で抱え直し、もう片方の手を壁へ伸ばした。魔力を薄く広げる。今度は周囲へ放つのではなく、岩肌に触れた部分だけをなぞるように、慎重に。壁の凹凸を確かめ、指先で触れた場所に氷の足場を作る。冷気が岩に張りつき、足を乗せられるだけの薄い棚になる。
一歩ずつ、上へ。
ある程度の高さまで登ったところで、俺は壁面の柔らかそうな箇所に魔力を集中させた。岩を削り、土を押し退け、二人がどうにか入れるだけの空間を作る。小さな洞穴に身体を滑り込ませ、シェリアを抱えたまま奥に座った。
これなら、見つかりにくい。後は、削り出した石と土をどうするかだ。
ここから落とすのが一番楽だが、もし、さっきの何かが近くにいれば、こちらの位置を知らせることになる。かといって、このまま魔力で支え続けるわけにもいかない。
考えているうちに、ふと気づいた。
音が止んでいる。
這いずる音も、岩の崩れる音も、何も聞こえない。谷底の暗闇は、最初から何もいなかったかのように静まり返っていた。
喉が鳴る。
もし、さっきのものが真獣なら。暗闇の中で遠く離れていても、俺が魔力を使っていることに気づくかもしれない。真獣の探知範囲がどの程度かは分からないが、ネアなら確実に気付く。
背中に冷たい汗が滲んだ。見えるはずもない暗闇の奥に、巨大な何かがじっとこちらを見上げている姿が浮かぶ。ありもしない視線が、洞穴の入り口から差し込んでくる気がした。
その時、さらに嫌なことに気づいた。
氷の足場が、残っている。
俺たちが登ってきた道筋が、そのまま壁面に刻まれている。もし相手に知能があれば、いや、真獣ならば、それだけで十分理解できるはずだ。谷の中に、明らかな異物――俺たちがいることに。
「リオン……大丈夫?」
ぽつりと、シェリアが口を開いた。
俺は答えられなかった。この暗闇の向こうに俺らを狙う何かがいるのか。火をつけて、姿を確かめるべきか。真獣の前で、確かめるために火をつけるのは、自殺行為なのではないか。思考が同じ場所をぐるぐると回る。
「リオン?」
シェリアの声が耳元に落ちる。いつもなら安心するはずの声が、今はわずかに煩わしく感じた。そんな自分に嫌気が差す。けれど、彼女が不安そうに俺に抱きつき、胸元に額を寄せているのを感じた瞬間、迷っている時間はないと悟った。
俺は洞穴の入り口へ、ほんの小さな火を灯した。
ぼっ、と赤い光が闇を裂く。
次の瞬間、視界は巨大な瞳で塞がれた。
「――っ!」
考えるより先に身体が動いた。俺はシェリアを抱えたまま洞穴を蹴り、空中へ飛び出す。同時に、残った魔力をありったけかき集めた。胸の奥が焼ける。頭の芯が軋む。それでも構わず、目の前の巨大な影へ向けて火球を生み出す。
今までの人生で放ったどの魔法よりも大きく、熱く、荒い。
火球は眩い光を撒き散らしながら、巨大な生物へ吸い込まれた。轟音と熱が谷を満たし、爆風が身体を押し上げる。俺はその勢いに乗り、炎に照らされた壁面へ氷の足場を次々と生み出した。
上へ。
上へ。
ただ、上へ。
振り返った一瞬、炎の中にそいつの姿が見えた。
谷間を埋め尽くすほどの巨体。岩肌のような鱗。地面を這うたびに石を砕く長大な胴。信じられないほどに巨大な蛇だった。
心臓が暴れている。呼吸がうまくできない。腕の中のシェリアは、何が起きているのか分からないまま、俺にしがみついていた。
「リオン、何が……!」
「喋るな。掴まってろ!」
氷の足場を蹴り、魔力の刃を壁面に突き立てながら、俺はさらに上へ進む。シェリアが軽くてよかった。さっきの爆風でかなり距離を稼げた。これだけ離れれば、すぐには――
そう思った瞬間、背後から凄まじい魔力の奔流を感じた。
振り返る。
大蛇が、身体を持ち上げていた。焼けただれた片目をこちらへ向け、巨大な口を開いている。喉の奥に、青白い光が集まっていく。空気が震え、岩肌が細かく鳴る。
――ネア以上、いや人間と比較することが間違っている。
一匹の生物が生み出しているとは思えない魔力が目の前で光の束へと形を変える。
俺は次に何が来るのかを理解し、残った魔力をすべて壁へ叩きつけた。大蛇へ向かって、巨大な氷の刃を生やす。同時に、壁から手を離して、下へ落ちる。
次の瞬間、頭上を青白い光の奔流が走った。肌が焼けるような熱。耳を潰す轟音。放たれた青白い光は、俺たちのいた場所を呑み込み、岩を溶かしながら上へ突き抜けていく。
氷の刃は、大蛇の喉元へ食い込み、青白い光は大きく逸れ、谷の壁を抉っていく。
氷の刃で、射線を逸らさなければ、灰になっていた。
だが、俺にはもう、落下を止めるだけの魔力が残っていなかった。
身体が谷底へ叩きつけられる。衝撃が背中から頭へ抜け、視界が潰れた。
そこで、意識が一度途切れる。
次に目を開けた時、耳元でシェリアが俺の名を呼んでいた。
「リオン……! リオン、起きて……!」
目の前に広がる光景を見て、俺は思わず笑った。
大蛇の放った一撃は、谷の壁面をドロドロに溶かし、地上まで続く巨大な穴を穿っていた。
こんなものに、人間が勝てるはずがない。
大蛇が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。顔の右半分に負わせた焼き傷は気付けば、ほとんど消えていた。
喉元に、再び魔力が集まり始めた。
青白い光が、暗い谷底を照らす。
不思議と恐怖も怒りも沸かない。いっそすがすがしさすらある。まさに魔力の極致を見ている気分だ。同じ大陸にこんなモノがいて、今まで国が形を成していたのが奇跡に思えてくる。建国の王が当時どれだけの力をもって、真獣たちを駆逐したのか想像すらできない。
眩い光の中、胸の中で叫ぶシェリアを抱きしめる。
そういえば、もうすぐシェリアとネアの誕生日だ。今年は何を贈ろうか。
そんな場違いなことが、頭に浮かんだ。
その瞬間、すさまじい速度で見慣れた魔力の刃が大蛇の首を半ばまで切断する。
大蛇の巨体が、くの字に曲がる。首元から血が噴き出し、谷壁へ叩きつけられた。地面が跳ね、岩が砕け散る。
「すいません、遅くなりました。怪我は……大丈夫そうですね」
気づけば、俺の隣にネアが立っていた。
「ああ……」
返事になっていたかは分からない。放心したまま彼女を見る。黒い衣の裾が、風もないのにわずかに揺れている。次の瞬間、俺とシェリアの身体を温かい魔力が包み込んだ。治癒魔術によって、肉が盛り上がり、出血が止まる。
「硬いですね。まさか切断しきれないとは。最初の翼の王が真獣たちとの戦いで命を落としたというのも、うなずけます」
ネアは感心したように言った。
その口調があまりに普段通りで、目の前の大蛇が一瞬、恐ろしいものではなく、彼女の観察対象のように思えた。
大蛇がゆっくりと体を持ち上げる。ネアを睨みつけ、明確に危険な敵として見据えていた。喉元に再び魔力が集まる。同時に、巨大な尾がこちらへ振り下ろされた。
ネアは腰の短剣をゆっくりと抜いた。
彼女があの短剣を鞘から抜くのを見るのは初めてだ。
黒い刀身に、無数の魔術刻印が走っている。剣としては頼りなく、目の前の巨体に対しては、針ほどにも見えない。
そして、迫る尾へ短剣を振るった。
次の瞬間、谷底を埋めるほどの尾が、半ばからちぎれ飛んだ。肉が裂け、血が雨のように降る。だが、落ちた尾の断面が、ぶくぶくと泡立つように蠢いた。新しい肉が盛り上がり、鱗が再生していく。
よく見れば、先ほどネアが傷つけた首元の傷も、すでに塞がり始めていた。
「わあ、すごいですね。見ましたか?リオン様、すさまじい生命力です。高位の治癒魔術師でもあり得ないほどの再生速度です。あの溢れんばかりの魔力のおかげでしょうか。おっと」
再び振るわれた尾を、ネアは短剣で軽く弾いた。
弾かれた尾は谷壁に叩きつけられ、岩を砕く。
大蛇が喉元へ魔力を集める。青白い光が膨れ上がり、今にも放たれようとしている。ネアはそれを見て、短剣を大蛇へ投げた。
大蛇はその小さな刃に秘められた殺傷力を学習したのだろう。巨体をねじり、紙一重で避ける。黒い短剣は背後の岩壁を粉々に砕き、闇の奥へ飛んでいった。
大蛇が再び魔力を集中しようとした時、俺はネアの手元に赤い光が浮かんでいることに気づいた。
今日、一番の恐怖が背筋を走る。
ただの魔力の塊を恐ろしいほど小さく圧縮している。密度を高め、限界まで押し込め、今にも破裂しそうな極小の光。あの中にどれほどの破壊力が詰まっているのか、この場で俺だけが理解していた。
大蛇の口から、青白い魔力の奔流が放たれる。
同時に、ネアが手の上の赤い光をまっすぐ撃ち出した。
視界が白く染まり、音が消える。
次に目を開けた時、目の前には星空が広がっていた。
大蛇はいなかった。
谷壁も、半分ほど消えていた。ネアの放った赤い光は、大蛇ごと谷壁を抉り取り、夜空へ続く巨大な空洞を作っていた。
砕けた岩の欠片が、遅れてぱらぱらと落ちてくる。
「重律剣」
ネアが短剣の名を呼ぶと、すさまじい速度で黒い短剣が飛んできて鞘の中へと納まる。
ネアは何事もなかったかのように振り返った。
「さあ、帰りましょう。リオン様」




