第十五話 三年
乾いた衝突音が、何度も木々の間を跳ね返った。
驚いた鳥たちが、一斉に枝を飛び立つ。
土を蹴る音。荒い呼吸。踏み込みと同時に弾ける魔力の揺らぎ。
訓練用とはいえ、刃引きされた剣同士がぶつかるたび、白い火花のような魔力の残滓が散った。
ネアとリオンは、互いに一歩も引かず剣を交えていた。
ネアが来てから三年。
リオンは十歳になっていた。
リオンが素早く踏み込み、剣を振り下ろす。
その一撃を、ネアは最小限の動きで受け流した。
直後、返す刃が胴を薙ぐ。
咄嗟に剣を引き戻して受け止めるが、甲高い音とともに手が痺れ、靴底が土を削った。
弾かれた勢いを殺しきれないまま半歩下がり、リオンは振り返りざまに斜め下から斬り上げる。
だが、それもネアは刃の先で軽く逸らした。
空いた左手が、鋭い掌底となってリオンの顔面へ迫る。
とっさに身を沈め、低い姿勢のまま足を払う。
ネアは飛ぶようにそれを避け、着地と同時にリオンの剣を持つ手首を掴んだ。
「っ……!」
リオンは即座に魔力を巡らせ、ネアの手を弾くように振りほどいた。
距離が空いた瞬間、魔力を地面へ流し込む。
土が持ち上がり、波のようにうねってネアへ押し寄せた。
ネアは眼前に迫る土の波を避けるように、近くの樹上へ跳ぶ。
その瞬間を、リオンは逃さなかった。
剣に多めの魔力を纏わせる。
生み出した風で刃を加速させ、横薙ぎに振り抜いた。
魔力の刃が空を裂く。
ネアが足場にしたはずの木の幹が、まとめて粉砕された。
だが、そこにネアの姿はない。
「こっちですよ」
「くっ……!」
背後。
迫る剣を、リオンは剣の腹でぎりぎり受け流した。
切っ先が頬を掠め、冷たい汗が背筋を伝う。
三年鍛えてもなお、俺は剣と体術だけのネアにすら勝てたことがない。
けれど――今日こそは。
今日こそは、魔力を使わせてやる。
「考え事をしている余裕はありませんよ」
「っ!」
ネアの掌打を、リオンは右肘で受け止めた。
骨の奥まで響く痛みに顔をしかめながらも、即座に膝蹴りを放つ。
それを、ネアの手が受け止めた。
リオンはその腕を掴み、逃がさないよう押さえ込む。
同時に、膝から氷の刃を生やした。
氷がネアの手のひらを貫く。
ネアの目が、わずかに見開かれた。
その隙を逃さず、リオンは剣を振るう。
次の瞬間。
ネアの全身から、魔力が溢れた。
「――っ!」
気づいた時には遅かった。
無数の触手のように伸びた魔力が、リオンの手足に絡みつき、全身を締め上げる。
剣を振り抜く寸前で、身体が完全に止まった。
「げほっ……おい」
リオンは息を詰まらせながら、それでも笑うように言った。
「魔力、使わせたぞ」
上から見下ろすネアは、ほんのわずかに目を細めた。
それから、拘束を解く。
「今のは良かったです。もう、魔力なしでお相手するのは難しいですね」
「……本当かよ」
リオンは疑うように、ネアの左手を見る。
氷の刃で貫いたはずの手のひらは、すでに傷口が塞がっていた。
「ええ。魔力を使わなければ、首を裂かれていました。そこそこの治癒師であっても、致命傷だったでしょう」
ネアは淡々と告げる。
「リオン様の勝ちです」
「はあ……」
勝った。
そう言われたはずなのに、胸の奥に残ったのは達成感よりも、ひどく重い疲労だった。
「どうかしました?」
「魔力なしのネアに勝つのに、三年もかかったんだ」
リオンは土の上に座り込み、息を吐いた。
「ネアは俺の才能に期待してるんだろう? 俺が期待外れだったとは思わないのか?」
ネアは手のひらに残った血を拭いながら、平然と答えた。
「リオン様に、私を超えるほど強くなってほしいとは思っていませんよ」
「……は?」
「私はリオン様を最強の戦士にしたいわけではありません」
ネアは、まっすぐリオンを見る。
「王にしたいんです」
その言葉に、リオンは眉をひそめた。
「まだ諦めてなかったのか」
リオンは露骨に顔をしかめる。
「俺は望んでない。勘弁してくれ。まさか父さんにも、まだそんなこと言ってるんじゃないだろうな? 王太子の機嫌を取るだけでも苦労してるんだ。父さんを困らせるなよ」
「はい、分かりました」
「……絶対分かってないだろ」
分かっていると言いながら、何度目かも分からない問答を繰り返すネアに、リオンは溜息をついた。
出会ってしばらくしてから、ネアは時折こうして、リオンを王にしたいと言うようになった。
はっきり拒絶してからはしばらく大人しくしていたが、どうやらまだ諦めてはいなかったらしい。
何かを期待するようなネアの視線から逃げるように、リオンは話題を変えた。
「そういえば、治癒魔術は教えてくれないのか?」
「治癒魔術ですか?」
「ああ。俺も魔法で再現しようとしてるんだけど、治癒だけは全然手応えがない」
ネアは少し考えるように視線を落としたあと、首を横に振った。
「私にも分かりません」
「分からない?」
「はい。治癒魔術は、至銀院が赤子に施す最初の魔術刻印なんです。高い治癒魔術の適性を持たなければ、そもそも肉体の改造に耐えられません」
ネアはそう言いながら、魔力を伸ばした。
倒れた樹木がふわりと持ち上がり、折れた幹がゆっくりと繋がっていく。
「ですから、至徒や治癒師たちにとって、治癒魔術はほとんど生まれ持ったものなんです。どう教えればいいのか、私には分かりません」
「そういうものなのか」
「少なくとも、私の知る限りでは、過去の王族に強力な治癒魔法を使えたという記録はありません。案外、昔の王族たちも治癒だけは不得手だったのかもしれませんね」
「ふーん……覚えられたら、何かあった時に安心なんだけどな」
「簡単な魔術刻印と詠唱で使える魔術は、一通りお教えしました。リオン様には魔法がありますし、もう魔術にこだわる必要はないのでは?」
ネアは微笑む。
「それに、リオン様には私がいますから。大丈夫ですよ」
そう言いながら、ネアが操る魔力は生き物のようにうねり、荒れた訓練場を撫でていった。
組手で抉れた地面が均される。
めくれた土が戻り、踏み荒らされた跡が消え、飛び散った小石まで脇へ寄せられていく。
何事もなかったかのように、森の空気だけが静かに戻ってきた。
「さあ、帰りましょう。今日は弓の訓練もあるのでしょう?」
「……ああ。近いうち、父さんと狩りに行くからな。最近は弓をサボりがちだったし、少し練習しておかないと」
二人は並んで歩き出す。
三年で、彼女から多くを学んだ。
初めて会った時より、二人の背丈の差は縮まったが、彼女の実力の底は、いまだに見えない。
***
昼食を終え、庭の訓練場へ出ると、すでに弓の音が響いていた。
シェリアが的に向かって矢を放っている。
その少し後ろでは、ヴァルターとロブが並んで立ち、彼女の構えを見ながら助言を送っていた。
ヴァルター・カズアール。
アルヴィス家に古くから仕える臣下であり、すでに隠居の身ではあるが、今はリオンの師の一人として呼ばれている老人だ。
白髪交じりの髪を後ろで束ね、背筋は年齢を感じさせないほどまっすぐ伸びている。
柔らかな物腰ではあるが、その目は今でも鋭い。
「シェリア様。放つ瞬間に肩が上がっておりますぞ。力で引こうとせず、背で支えるのです」
「背でって言われても……」
シェリアは少し不満げに唇を尖らせながらも、もう一度弓を構える。
ロブが横から声をかけた。
「焦るな。狙いすぎると余計に固くなるぞ。まずは同じ動きを繰り返せ」
シェリアの指から矢が離れる。
矢は的の中心から少し外れた場所に突き立った。
「……またずれた」
悔しそうに呟いたシェリアが、次の矢へ手を伸ばそうとした時、こちらに気づいた。
ヴァルターもリオンとネアの姿を認めると、すぐに姿勢を正し、深く一礼する。
「若様。お待ちしておりました」
「ああ。すまん、少し遅れたか」
リオンが軽く返すと、ネアは一歩後ろへ下がった。
訓練の邪魔をしないよう、訓練場の脇に立って静かに見守る。
リオンは用意されていた弓の中から、適当に一本を手に取った。
弦の張りを確かめ、重さを測るように軽く持ち替える。
矢筒から一本抜き、弓につがえる。
呼吸を整えるまでもなく、リオンは的へ向けて弦を引いた。
指を離す。
矢は空気を裂き、寸分の狂いもなく的の中心へ吸い込まれた。
続けて二本目。
三本目。
放たれた矢は、まるで同じ軌道をなぞるように飛び、機械的な正確さで的の中心に集まっていく。
ヴァルターが、思わず感嘆の息を漏らした。
「流石ですな、若様。狩りの前に練習したいとのことでしたが、これなら十分でございましょう」
ロブも腕を組み、感心したように頷く。
「弓に限って言えば、もう熟練の兵士並なんじゃねえか?」
リオンは静かに次の矢をつがえながら答えた。
「まあ、動かない的が相手だからな。練習すれば誰でもできるさ」
矢を放つ。
また、的の中心。
その言葉に、シェリアがぼそりと呟いた。
「私はできないわよ……」
リオンが振り向くと、シェリアはむっとした顔でこちらを見ていた。
ロブは苦笑しながら、シェリアの頭にぽんと手を置く。
「リオンが弓が特別上手いだけで、お前もそう悪くはねえよ」
シェリアは納得いかない様子で弓を下ろす。
「私、弓とか槍より、もっと剣を練習したいんだけど」
その場にいた者たちが、そろって苦笑した。
ヴァルターが困ったように眉を下げる。
「はは、一日中シェリア嬢のお相手をするのは、老骨の身にはなかなか堪えますな。それに、戦場では弓や槍は剣以上に役立つことも多いのですぞ」
「分かってるけど……」
シェリアは不満げに言いながら、ちらりとリオンが腰に携えた訓練用の刃引き剣を見る。
それから、訓練場の脇に立つネアへ視線を向けた。
「でも、リオンはネアにも剣を教えてもらってるでしょ? リオンだけずるいわ」
「ずるいって言われてもな……」
リオンは弓を下ろし、ネアを見る。
ヴァルターもまた、困ったような目でこちらを見ていた。
どうにかしてくれ、という顔だった。
リオンは小さく息を吐く。
「ネア」
「はい」
「明日から、シェリアも朝の訓練に混ぜてやれないか? 魔術はもう、あらかた教えてくれたんだろう?」
ネアは少しだけシェリアを見つめた。
その視線は、興味を測るというより、どこまで耐えられるかを見定めるものに近かった。
シェリアは期待に満ちた目でネアを見返す。
やがて、ネアは静かに頷いた。
「良いのではないでしょうか。ちょうど、リオン様にも新しい訓練相手が欲しかったところですし」
「本当!?」
シェリアの顔がぱっと明るくなる。
その声は、訓練場に響いた弓音よりもずっと弾んでいた。
***
王都アウレリアの中央にそびえる王城の中。
煌びやかな家財に囲まれた一室に、重い沈黙が落ちていた。
窓の外には、整然と刈り込まれた庭園と、その奥に広がる王都の街並みが見える。
だが、部屋の主である第一王子サリウスは、その景色に目もくれなかった。
豪奢な椅子に腰かけたまま、苛立たしげに足を揺すっている。
規則的に床を叩くその音だけが、静まり返った室内に響いていた。
向かいに立つのは、黒いベールで顔を半分隠し、腰に片刃のサーベルを差した女だった。
顔を覆う薄布の奥から、静かな視線だけが覗いている。
サリウスはしばらく黙っていたが、やがて堪えきれなくなったように口を開いた。
「イーファ」
「はい」
「なぜ、ネアは帰ってこない」
またか。
イーファは、顔には出さずとも、うんざりしていた。
この問いを受けるのは、一度や二度ではない。
ネアがアルヴィス領へ向かってから、サリウスは幾度となく同じことを口にしていた。
至銀院が彼女の行動を容認している以上、イーファにどうこうできることではない。
そもそも、ネアがアルヴィス領に向かうことを許可したのはサリウスだ。
それでもイーファは、表面上は穏やかな声で答える。
「至徒ネアルディアの滞在は、至銀院も容認しております。私から申し上げられることはございません」
「容認か」
サリウスは爪先で床を叩いた。
「随分甘いのだな。私はアルヴィス公の息子の治療を指示しただけだ、もう治療はとうに終わっているのだろう。あれは私の護衛だったはずだ」
「現在は私がここにおります」
イーファは淡々と言った。
「同じ天翼の至徒である私では、ご不満ですか?」
サリウスの視線が、イーファの胸から腰へ落ちる。
そこには片刃のサーベルがあった。
細身ではあるが、鞘越しにも異様な圧を感じさせる剣。
イーファの差すような視線に気づき、サリウスはわずかに言いよどむ。
「……お前に不満があるわけではない」
「では、何が問題なのです」
「ネアだぞ?」
サリウスは低く言った。
「あのネアが、私を差し置いてアルヴィス領に留まり続けている。きっと、何かあったに違いない」
イーファは黙って聞いていた。
「あちらで軟禁されている可能性はないのか。帰るに帰れぬ状況に置かれていると考える方が自然ではないのか?」
「ありえません」
即答だった。
「彼女を生きたまま拘束する手段など、私の知る限り存在しません。ましてアルヴィス公が、そのような真似をするとは思えません」
「力で捕らえているとは限らん。弱みを握られている可能性もある」
サリウスは不安そうに指を組む。
「家族、あるいは私の身を盾に取られているのかもしれん」
「……」
イーファは、今度こそ本当にため息をつきそうになった。
至徒の多くにとって、家族など遠いものだ。
顔も知らず、名も覚えていない者すら少なくない。
ネアに伴侶はいない。
家族を盾に取るという発想自体、サリウスの想像に過ぎなかった。
まして、アルヴィス公がそこまでしてネアを留め置く理由もない。
この男の相手をするのが、面倒になったと考えた方がよほど自然だ。
ただし、それをこの男に伝えたところで、納得するとも思えなかった。
「おかげで、アルヴィス公の助力は得られたのです。それで良いではありませんか」
イーファは声を抑えて言った。
「彼の息子を通じてドレイス公も味方に付けられれば、殿下が王位を得られる可能性は大きく高まります」
「分かっている」
サリウスは短く答えた。
だが、その顔に満足の色はない。
イーファは、黒いベールの奥で目を細めた。
妻子も持つ王族が、よりによって、至徒に恋慕の情を向けるなど虫唾が走る。
それでも、イーファは黙っていた。
王太子は劣勢とはいえ、王になる可能性はある。王となれば、天翼の至徒すらその命に逆らうことは不可能だ。イーファは現王が若き頃、己に従わぬ天翼の至徒を、兵士たちの慰み者にしたことを思い出す。王太子に勝ちの目がある以上、まだ彼の不興を買うわけにはいかない。
その時だった。
部屋の外から、大きな魔力の気配が近づいてきた。
イーファがわずかに視線をドアに向ける。
サリウスも気づいたのか、眉をひそめた。
次の瞬間、扉がノックもなく開かれる。
「無礼だぞ――」
咎めようとしたサリウスの声が、途中で止まった。
入ってきた男の顔を見て、さらに不快そうに表情を歪める。
「何の用だ、イカロス」
現れたのは、第三王子イカロスだった。
サリウスよりも若く、整った顔立ちをしている。
だが、その目には人を小馬鹿にしたような光があり、口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「そう邪険にするな、サリウス兄上」
イカロスは部屋へ踏み入りながら、軽く肩をすくめた。
「面白い知らせが届いてな」
「なんだ?お前が面白がるような話など、どうせ、ろくなものではないのだろう?」
「今回は兄上にも関わる話だ」
イカロスは笑みを深める。
「西の帝国との戦が終わった。ドレイス公が敗走したらしい」
その瞬間、サリウスの表情が変わった。
足を揺する動きが止まる。
「……ドレイス公が負けたのか」
「報告ではな」
イカロスは、軽い口調のまま続けた。
「帝国軍が強力な対軍魔術を発動したという話だ。にわかには信じがたいが、あのドレイス公が敗れたのなら、事実なのだろう。今も、少なくとも5万の帝国軍が南下しているようだ」
イーファも、ベールの奥で目を細める。
ドレイス公。
王国西部を支える有力貴族であり、軍事においては国内でも屈指の名将として知られる男だ。
そのドレイス公が敗れた。
それは、ただの敗報では済まない。
「ドレイス公は生きているのか」
サリウスが問う。
「負傷はしているが、命に別状はない。残兵をまとめて城に入ったらしい。さすがにしぶとい」
「ならば、西部はまだ崩れていない」
「追撃戦で軍は散り散りになっている。首の皮一枚でつながっている、という言い方の方が正しいな」
イカロスは楽しげに言った。
「どうする、兄上。アルヴィス公と違い、ドレイス公は兄上に忠誠を誓っているわけではない。とはいえ、頼りにしたかった北方領主の一人が弱るのは痛いだろう」
「……ラザルは?」
「大人しく王都から援軍を出すと思うか?」
第二王子ラザル。
その名が出た瞬間、室内の空気がわずかに重くなる。
王位をめぐり、サリウスと対立する最大の政敵。
軍務卿として王都の兵権に深く関わる男でもあった。
サリウスは肘掛けに指を置き、しばらく考え込んだ。
「西には私が行く」
「兄上自ら?」
「ああ。王家の者が交渉に立てば、帝国側から多少の譲歩は引き出せる。ドレイス公にも恩を売れる。ノク家に対しても、私が西部を見捨てなかったという形を作れる」
イカロスは一瞬黙った後、つまらなそうに息を吐いた。
「悪くはないが、遅いな。今回は静観していた方が都合が良いと思うぞ」
「何?」
「兄上が西へ着く頃には、交渉の席など残っていないかもしれない。帝国がまだ戦を続けるつもりなら、奴らは城に籠もったドレイス公には付き合わず、報告通りこのまま南下し続けるだろう」
サリウスの目が細くなる。
「手負いのドレイス公を無視すると?」
「押さえは置くだろうが、主力を城壁の前で腐らせる必要はない」
イカロスは部屋の中央に置かれた卓へ歩み寄った。
そこには、西部一帯の地図が広げられている。
彼は指先でドレイス領を叩いた。
「ドレイス公は敗れたが、死んだわけではない。残った兵をまとめて城に籠もられれば、落とすには、時間がかかる」
次に、指が国境沿いをなぞる。
「帝国軍の主力は騎兵だ。城壁の前に張りつけば、その強みは消える。大量の騎兵を維持するには、相応の補給が必要だ」
サリウスは黙ったまま、地図を見下ろしている。
「報告では、帝国軍は開戦時でおよそ七万。ドレイス公との会戦で失ったのは、多く見積もって五千から七千。負傷兵と後方警備を差し引いても、まだ五万近い兵が動ける」
イカロスの指が、ドレイス領の南へ滑った。
「そのうち騎兵が一万。城を落とすには足りないが、町や村を焼き、荷駄を奪い、国境付近の城を占拠するには十分すぎる」
「……南か」
サリウスが低く呟いた。
イカロスは笑った。
「そうだ。南にはノク領がある」
ノク領。
ドレイス領と同じく帝国に面した西部の要地。
そして、第二王子ラザルを支える有力貴族の領地でもある。
「ドレイス公が城を死守すれば、帝国軍は街道沿いの物資を自由には使えない。周辺の町は物資を城に運び込むか、奪われる前に焼く。そうなれば、帝国軍は補給先を探すしかない」
イカロスは、地図上のノク領を軽く叩いた。
「守りの薄い町や村を求めて、国境沿いに南へ足を延ばす。騎兵主体の帝国軍なら難しくない。十五年前も、奴らはドレイス家とノク家を同時に相手取っていた。進軍路も、地形も、どこを焼けばどの城が孤立するかも知っている」
サリウスの顔が険しくなった。
「ノク領まで荒らされれば、被害は西部全体に広がる」
「その通りだ」
「王都にも難民が流れ込む。交易路も乱れる。放置すれば、国庫にも響くぞ」
「だからラザル兄上は困る。帝国軍も同じ考えのはずだ、やつらにとって王位を巡って争う現在の王国の状況は都合がいい、優勢なラザル兄上の支配基盤を揺るがした方が内戦が長引くと考えるだろう」
イカロスは、まるで当然のことのように言った。
「ノク家はラザル兄上の後ろ盾だ。領地を焼かれれば、ラザル兄上は動かざるを得ない。軍務卿として民を守る責務があり、自分の勢力基盤を守る必要もある。ラザル兄上が兵を出せば、帝国とぶつかる。出さなければ、民を見捨てた軍務卿になる」
イカロスは愉快そうに口元を歪めた。
「どちらに転んでも、ラザル兄上は傷を負う」
「その間に焼かれる町はどうする」
イカロスは肩をすくめた。
「今の所、病床の王に代わり執務を行っているのは兄上だ、ラザル兄上よりも早く民を案じていることを触れ回ればいい。救援の必要を訴え、ラザル兄上に出兵を求める。だが実際に兵を動かす権限は軍務卿にある。援軍が向かわなかったのは第二王子ラザルのせいだと、民が恨むべき相手は、最初から決まっている」
サリウスは静かに息を吐いた。
「ラザルが即座に兵を出した場合は」
「帝国軍の健闘を祈ろう。仮にもドレイス公を破ったのだ、そう簡単にやられはせんだろう」
「だが、そうなればドレイス公を引きこむのは難しくなるぞ」
「大きく力を削がれたドレイス公を味方にするより、ラザル兄上の軍を削って貰ったほうが有用さ」
サリウスはしばらく黙っていた。
帝国軍の進路。
ドレイス公の残存兵力。
ノク領の被害。
ラザルの対応。
そして、それによって自分が得るもの。
「ラザルへの働きかけは、こちらで整える。表向きは西部救援の要請だ。私が民を案じていることは、貴族たちにも王都にも伝わるようにする」
「いい判断だ、兄上」
サリウスは、しばらく地図を見下ろしていた。
やがて、低い声で言う。
「ドレイス公には、王都への召還命令を出す」
イカロスの目が、愉快そうに細まった。
「この状況で、敗戦の責を問うのか」
「帝国に敗れ、西部を危機に晒した以上、何の咎めもなしでは済まされん。王家がそれを放置すれば、今回帝国軍を押し付けられるような形となった、ノク家も納得しまい。なにより、正統なる後継者である余に従わぬ領主など、この国にいらぬ」
サリウスは冷たく言った。
「少なくともこれまで通り西部に居座らせるつもりはない」
イカロスは、楽しげに笑った。
「いいじゃないか。敗戦の責を問う名目で、ドレイス公を盤上から除くわけだ、だがドレイス領はどうする。兄上の息子の誰かにでも継がせるか?」
「うむ、イグナスをシェリア嬢の夫として、ドレイス領を共同統治させるのが良いだろう。あれにも、そろそろ何かふさわしい役職を与えねばと思っていた所だ」
サリウスは地図から目を離さずに言った。
「王命で召還されたドレイス公を私が助命する形ならば、アルヴィス公からも大きな文句は出まい」
やがてサリウスは、机の端に置かれた呼び鈴を鳴らした。
控えていた侍従が、すぐに部屋へ入ってくる。
「書記官を呼べ。それと、王印と封蝋を用意しろ」
「はっ」
侍従が一礼して退室する。
イカロスも何事もなかったかのように部屋を出た。
扉が閉まり、白い石の廊下に、彼の靴音だけが小さく響いた。
焼かれる村と町。
兵を出さざるを得ないラザル。
助命を乞うドレイス公。
そして、やがて王国全土を巻き込むであろう争い。
それらを思い浮かべながら、イカロスは静かに笑みを浮かべた。
王国は、これから大きく荒れる。
その予感が、彼にはたまらなく愉快だった。




