第十一話 忠誠
馬車の扉が開き、黒いベールの女性がゆっくりと姿を現した。
全身を覆う黒い外套。その下に体の線を隠さない黒い修道服に身を包んだその女は、母よりいくらか若く見えた。どこか幼さを残した顔立ちには、静謐さと、艶めいた色香が同居している。慎ましいはずの黒衣はかえって肩から胸元、細い腰へと続く女の輪郭を静かに際立たせ、目を逸らしがたい美しさを形にしていた。皆の視線を集めるのは、ベール越しにも分かる神秘的な美しさと、抑えた装いの奥から滲む色香だったが。リオンが驚愕していたのは彼女の外見にではなかった。
――違う。
これまで見てきた誰とも違う。魔術師だからだろうか?彼女の纏う魔力は、これまで見てきた誰のものとも違っていた。濁りがなく、淀みもなく、まるで澄み切った水が絶えず循環しているかのように滑らかで、美しい。思わず見入っていると、ふと彼女と目が合った。
一瞬の静止。
次の瞬間、彼女は迷いなくこちらへ歩み寄ってきた。
「……え?」
戸惑う間もなく、彼女は軽く身をかがめ――そのままリオンを抱きしめた。ふわり、と。今まで嗅いだことのない、甘い不思議な香りが鼻をかすめる。
周囲の空気が固まる。
誰もが動けない中、彼女はリオンの耳元で静かに囁いた。
「既に魔力が見えているんですね、素晴らしい才能です。」
心臓が跳ねた。ただ見ていただけで、気づかれた。驚きに固まったまま顔を上げると、ベールの隙間から覗く紫の瞳と視線が重なる。その瞳はどこまでも深く、吸い込まれそうだった。彼女は微かに笑い、リオンの頬にそっと口付ける。そして何事もなかったかのように離れた。
「――っ」
頬が一気に熱を持つ。
さっきまでの緊張と驚きが一瞬で別の感情に塗り替わり、リオンは慌てて姿勢を正した。
「は、初めまして……」
どうにか挨拶を絞り出す。
彼女は優雅に一礼した。
「王都より参りました、|至徒ネアと申します」
至徒――?
リオンは内心で首をかしげる。
治癒師ではないのか。
その疑問に答えるように、背後からローエンが口を開いた。
「至徒は、至銀院という治癒師の育成機関の中でも特に優れた治癒師だ。王家の護衛も兼ねる存在でな、王宮でも一目置かれる存在だ」
なるほど、と納得しかける。
……護衛?
その言葉に違和感が残ったまま、ネアは再びリオンへと視線を戻した。彼女はその場に膝をつき、リオンの足にそっと触れる。
「痛むでしょう。……すぐに治してあげますね」
柔らかな声だった。そのまま彼女は立ち上がり、ローエンの先導に一行は後に続いた。
歩きながらふと彼女の腰に目がいく。
――銀色に鈍く輝く短剣。
細身のそれが、自然な動作の中で揺れていた。治癒師でありながら武器を持つ。王家の護衛という説明は本当なのだろう。だが同時に思う。抱きしめられたときの感触が、ふと蘇る。
触れた身体は驚くほど柔らかく、しなやかで、戦士のそれとはまるで違っていた。鍛え上げられた硬さや張りは感じられず、ただ女性らしい温もりだけが残っている。
あの優しい声と相まって、とても戦う人間には思えなかった。
そんなことを考えながら歩いていると、
「ぐほっ」
脇腹に鈍い衝撃が走った。
「どこ見て歩いてんの?」
振り向くと、シェリアが睨みつけていた。今まで聞いたことがないほど低い声だった。
「そんなに至徒様のキスが忘れられない?」
「ち、違うって。腰の短剣を見てただけだよ」
「……ふーん」
納得していない顔だった。むしろ疑いは深まったようにすら見える。
――なんでそんなに怒ってるんだ?
戸惑うリオンをよそに、そのやり取りを聞いていたネアがくすりと笑い、振り返った。
「この短刀が気になるのですか?」
彼女は腰の短剣を鞘ごと外し、リオンへ差し出す。
「持ってみますか?この大陸でも数えるほどしかない霊鉄で打たれた武具です。とても貴重なものなのですよ」
「……ありがとうございます」
受け取った瞬間だった。
ぞわり、と。
掌から魔力が吸い取られるような感覚が走る。
思わず顔を上げると、ネアはその反応を予想していたかのように微笑んでいた。
「私にも貸して!」
横からシェリアが手を伸ばす。
リオンはシェリアの機嫌をこれ以上損ねないように、素直に渡した。
「……すごい、軽い」
驚いたように目を丸くする。
ネアは楽しげに説明する。
「柄を握った者には軽く、刀身に触れた者には重く感じる魔術が付与されています」
魔術でそんなことができるのか。俺もそういう剣が欲しいな。
***
やがて一行は医務室へと到着する。
すぐに湯が用意され、包帯が解かれた。
露わになった右足は、紫色に腫れ上がっている。
ネアはそれを一目見て言った。
「……これはひどいですね」
その一言で、胸の奥が冷える。
「き、切り落として生やすんですか?」
思わず問いかける。
ネアは首を横に振った。
「それが最も確実ですが……足一本を再生するには一年ほどかかります」
「い、一年……」
「ええ。再生には膨大な魔力が必要ですから、魔力の回復を待ちながら何度も治療する必要があります」
淡々とした説明だった。
だが続けて彼女は微笑む。
「心配しないでください、私なら足は切り落とさずに今日中に治せます」
そして部屋を見回し、静かに告げた。
「これより殺菌を行います。皆様は一度外へ」
やがて準備が整い、リオンだけが室内へ呼ばれる。ベッドに横たわると、小瓶を手渡された。
「麻酔です。飲んでください」
言われるままに飲み込むと、意識が少しずつぼやけていく。
「膝を切開し、損傷部位を直接修復します」
ネアの声が、やけに近く感じた。
「痛みますので、これを」
布を口に押し当てられる。
次の瞬間。
彼女の指先に、魔力が集束するのが見えた。
それは細く鋭く――刃の形へと変わる。
そして、
ゆっくりと右足へと突き立てられた。
「――ッ!!」
激痛が走る。麻酔が効いているはずなのに、意識が一気に引き戻される。骨を、筋肉を、切り開かれる感覚。吐き気すら覚える不快感。その時だった。額に、温かな手が触れる。
「大丈夫ですよ」
優しく撫でられる。その感触に縋るように、リオンはネアの手を強く握った。処置は三十分ほどで終わった。切開されたはずの傷は、跡形もなく消えている。
ネアはリオンの汗を拭きながら微笑んだ。
「もう治っています。しばらくすれば、元通り動かせますよ」
朦朧とする意識の中で、彼女の声が響く。
「今日はお休みください。……これからよろしくお願いしますね」
そう言って、優しく笑う。
「――我が王」
――我が王?
その言葉の意味を考える間もなく、意識は沈んだ。
***
目を覚ますと、昼だった。体を起こし、杖を探す。
だが――
足に違和感がない。恐る恐る地面に足をつける。痛みはなかった。そのまま立ち上がり、足を動かす。
――普通に歩ける。
ドアを開けると、ライサが安堵の表情を浮かべた。
「お腹が空いているでしょう。昼食を――」
「大丈夫。食堂でみんなと食べるよ」
そう言って歩き出す。
途中でふと思い出した。
――ネアに礼を言っていない。
食堂に入ると、ネアは長卓の一角に座っていた。
「ネアさん、まだいたんですね。昨日はありがとうございました」
向かいの席に座る。
だがネアはなぜか席を立ち、こちら側へ回り込むと、そのまま隣に腰を下ろした。
やけに距離が近い。
「いえ。やるべきことをしただけです」
柔らかく微笑む。
「それと、敬語は不要ですよ」
そういうものなのか、と少し戸惑う。
「……そういえば、出立はいつなんですか?」
何気なく聞いた。
「五年後くらいでしょうか」
「……は?」
思考が止まる。
「五日、じゃなくて?」
「ええ。リオン様が王都の学院へ入学される頃に、ご一緒しようかと」
完全に聞き間違いではなかった。
「いや、王太子付きの至徒なのにそんなことが……」
「許されませんね」
あっさり言い切る。
「なので、時間のかかる再生治療をしていると報告しました。一年もすれば至銀院から王太子の元へ代理が派遣されますので、私は正式に解雇されるでしょう。その後はこちらで雇っていただきます」
言っていることが滅茶苦茶だ。
絶句するリオンに、ネアはにこりと笑う。
「給金は不要です。リオン様専属のメイドとしてお使いください」
――何を言っているんだこの人は。
思わずため息が漏れる。こんなことをすれば、間違いなく王太子からの心象が悪くなる。いや、それ以前に。
――昨日の反応からして、間違いなく、シェリアに殺される。
いや、それだけでは済まない。王太子の護衛を引き抜いた挙句、それを自分のメイドにする七歳児。その結果、婚約者に刺し殺される。前代未聞だろうな。アルヴィス家の歴史に、「七歳にして痴情のもつれで殺された後継者」などという、愉快な記録を残すことになるだろう。
「無理に決まってるだろ」
「大丈夫です。ローエン様とアリシア様には許可を頂いております」
「……は?」
――父さんが?そんな馬鹿な。
「リオン様の|秘密をお話ししたら、すぐに」
ああ。そういうことか。俺が魔法を使える事に気づいたのか。彼女のいる間に魔法は一度も使っていないが、俺より遥かに洗練された魔力を持つ彼女から見ればバレバレだったのだろう。
「それに、私は既にリオン様に誓いを立てて、リオン様は私の剣を受け取っておりますから。死ぬまでお仕えするおつもりです」
ネアはまるでそのような事実があったかのように、リオンの身に覚えがない話をする。
――いや、そういえば
「まさか、あの時短剣を見せて貰った事を言ってるのか?」
「はい!」
――嘘だろう。こんな詐欺師みたいな理屈で、忠誠を誓ったことにされるのか?
思わず天井を仰ぎ見るリオン。
「そんなに嫌ですか?」
ネアはわずかに首を傾げると、身を寄せて、自然な動作でリオンの手を取った。細く白い指が、逃がさないとでも言うように指先へ絡む。そのままゆっくりと持ち上げられ、手のひらが彼女の唇のすぐ前まで運ばれる。
彼女の吐息が、かすかに手のひらを撫でた。
「昨日、頬に口づけした時は、嬉しそうなお顔をしていらっしゃいましたのに」
紫の瞳が、愉しげに細められる。そう囁くと、ネアはリオンの指先へそっと舌を這わせた。熱が走る。ぞくり、と背筋が粟立つのに、手を振り払うこともできない。
「……何をしてるんだ?ネア」
ようやく低く名を呼ぶと、彼女はくすりと笑った。
「私は特別な至徒なので、王太子殿下のお気に入りなんですよ?」
挑発するように見上げてくるその顔が、ひどく美しい。神に仕える者のように清らかな装いをしていながら、やっていることはまるで逆だ。
「きっと、リオン様にも気に入っていただけると思ったのですが」
今度は指先に、柔らかく唇が触れる。
それだけのはずなのに、妙に離れがたく感じる。
「……からかわないでくれ」
やっとのことで手を引くと、ネアは少しだけ残念そうに目を伏せた。
「まだ早かったでしょうか?魔力の強い第二王子や第三王子は学院に通う前から、夜な夜な部屋にメイドを連れ込んでいたと聞いたのですが……」
ネアはハンカチを取り出し俺の指を拭きながら言う。
「お望みなら、また何時でもお申し付けください」
その声音には、まるで本気とも冗談ともつかない艶があった。
「なんで、そんなに……」
彼女の言葉に困惑し、なぜそこまで自分に尽くそうとするのか問おうとした瞬間、バタンと食堂の戸が開き、とたとたとシェリアが入ってくる。
「リオン!包帯も取れてるし、歩けるようになったのね!」
「ああ。まだ少し力は入りにくいけど、もう歩けるよ」
そう答えてから、リオンはちらりと隣を見る。
ネアは何事もなかったかのような顔で、静かにパンや肉を切り分け、当たり前のようにリオンの皿へ載せていた。ついさっきまでのあの出来事が嘘のようだった。なのに、指先に残る熱だけが消えない。胸の奥が妙に落ち着かず、鼓動が早い。何にこれほど心を乱されているのか、自分でもはっきりとは分からなかったが、シェリアが来てくれて良かった。
リオンはその気持ちを誤魔化すように、黙って食事を始めた。




