第十話 治癒師
王都へ向かったローエンが城を発ってから、三週間以上過ぎていた。
「父さんいつ帰ってくるの?」
昼食の席で、リオンはふと思い立ったように尋ねた。アリシアはナイフとフォークを置き、少し考えるように視線を上げる。
「そうね……」
「アルヴィス領は王領と隣接しているとはいえ広いわ。この城から王都までは、荷馬車と一緒に移動すれば片道で10日ほどかかるわ」
「そんなに?」
「ええ。でも王都での滞在は三日ほどのはずだから……」
アリシアは微かに微笑んだ。
「予定通りなら、もうそろそろ戻ってきていてもおかしくない頃ね」
「ふーん、王家の治癒師も父さんと一緒に来るのかな?」
「多分一緒に来るんじゃないかしら?ローエン達と一緒なら護衛もしてもらえるでしょうし」
しばらくして、アリシアがふと立ち上がる。
「そろそろフレディとの授業の時間よ」
「あ、うん」
リオンは椅子から降り、脇に立てかけてあった松葉杖を手に取った。それを突いて立ち上がると、アリシアがすぐに歩み寄ってくる。
「無理しないで、部屋まで支えるわ」
「大丈夫だよ、母さん。まだ痛むけどもう腫れは引いてるから」
一人で部屋を出ようとするリオンを見て、アリシアは放っておけない様子で後ろについてくる。結局、そのままフレディの待つ部屋まで付き添うことになった。
***
足を怪我してから外で遊ぶこともできない今、午後の時間もほとんど勉強に費やされていた。フレディの授業は厳しいが、退屈ではない。
だが──
「……はあ」
ひと区切りついたところで、リオンはわざとらしくため息をついた。
「どうしました?」
「流石にそろそろ、体を動かしたいし勉強も飽きてきたんだよ」
フレディは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「それは、ご自身が怪我をなさったのが悪いですな」
「う……」
言い返せない。
「それに、剣や弓を学びたいのであれば、私の専門ではありません。そういったことは、ローエン様が教えてくださるでしょう」
以前のローエンの発言を思い出して、指南役はどんな人だろうかと考える。カイルの言うような厳しい人が来たら訓練が嫌いになりそうだ。
「……勉強と訓練か、父さんも昔同じことをしてたの?」
「ええ。リオン様ほど早くから始めていたわけではありませんが、ローエン様もアルヴィス家の後継者でしたから。私はローエン様の教育も任されておりましたが、リオン様は物覚えが良いのでローエン様ほど苦労はしなそうですな」
「そうかな?」
「正直に言うと読み書きも算術も、この年齢にしては出来すぎですな。古語と南方言語を覚えれば、大術院で学ぶ事も許されるでしょう」
フレディは満足げに頷いた。
「とはいえ、リオン様は跡継ぎですからな。学者になるなど、御父さんが許されますまい」
「別に学者になりたいわけじゃないからいいよ。勉強は必要だからしてるだけで好きなわけじゃないし」
リオンは苦笑した。
「アルヴィス領から出るつもりもないしね」
「ふむ……」
フレディは少しだけ顎に手を当てた。
「それでも、12歳になれば王都の王立学府に入ることになるでしょうな」
「え?」
リオンは思わず顔を上げる。
「おや、まだお聞きになっておりませんでしたか」
フレディは少し意外そうに目を細める。
「王立学府は、先王の時代に設立された学び舎です。大術院の学者の中から、教育者を志す者を高い報酬で招き、王族や貴族の子弟の教育の場としたものですな。ドレイス公とローエン様も王立学府でご友人になられました」
「へえ……」
父さんとカイルが通っていたのか。
「この国の貴族の多くの者は王立学府出身ですので、人脈を広げるために通われる事を私は強くお勧めします。それに、騎士課を修めれば、王族から直接騎士に任じられます。大変名誉な事ですので、多くの才ある若者が立身出世を夢見て王都に試験を受けに行くのです。なので、貴族の子弟にとっては自分に仕える優秀な騎士や文官を探す場でもあるのですよ」
「試験は誰でも受けれるの?」
「ええ。現王の時代になってからは、試験を通過すれば身分を問わず入学が許されるようになりました」
「王様は意外と寛容なんだな。王都はもっと身分制度が厳しいと思ってたよ。」
「もっとも──十五年前の戦以降、北の貴族の学生数は減りましたが」
「十五年前の戦って、王弟の反乱のこと?」
「ええ、その通りです」
フレディは穏やかな笑みを浮かべたまま答える。
「15年前、王家は分裂し、現王派と王弟派に分かれて戦が起こりました。当初は現王派が優勢でしたが……」
「西の騎馬民族の英雄アルタンが現れて戦が長期化したんだっけ」
リオンが先に口にする。
「……ほう」
フレディは感心したように目を細めた。
「よく覚えておられますな」
「この前読んだ本に載ってたんだ」
「その通りです。かつての八家の一つ──ヴァレク家の末裔を名乗るアルタンは、旧来の頭領を討ち取り、ヴァレク帝国を興しました」
フレディの声は穏やかだが、その内容は重い。
「彼は非常に戦に長けており、西側の領主──ドレイス家とノク家を相手に猛威を振るいました。その影響で王弟派との戦は長期化し……」
「まだ終わってないんだよね」
「ええ。完全な終結には至っておりません。王弟派の半数以上は東の大陸の神聖アステリオン王国に逃げ延びました」
フレディはそこで一度言葉を切り、にこりと笑った。
「それにしても、教えたことをよく覚えておられますな」
リオンは松葉杖に体重を預けながら、ゆっくりと立ち上がる。
「まあね、授業が終わったなら庭に行ってもいい?」
「もちろんです」
フレディはすぐに手を差し出した。リオンはそれを借りて体勢を整える。
***
庭に出たリオンは、用意された椅子に腰を下ろし、本を開いた。
すぐ近くでは、アリシアとドレイス夫人が並び、シェリアに刺繍を教えている。
「針はまっすぐ持って、そう、ゆっくり……」
「うん……こう?」
「ええ、上手よ」
柔らかな声が風に乗って届く。庭は穏やかで、昼の光も優しい。戦の話も、王都のことも、ここでは遠い出来事のように思えた。
ページをめくる。
最近は書庫の本だけでは物足りず、城下町ネストの本屋から本を取り寄せている。あの店は、他の国からも本を取り寄せているようで、王家に知られればただでは済まないような背信的な話や、異国の奇妙な物語も多い。今読んでいたのは、西の英雄アルタンを題材にした物語だった。幾つもの部族を従え、最後には帝国を興した男。誇張は多いが、読み物としては悪くない。
最後の一頁を読み終え、リオンは本を閉じた。
ぱたり、と乾いた音がする。次の一冊に手を伸ばす。白い表紙の、まだ新しい本だ。内容は、青年が邪龍を討つ物語だった。激しい戦いの末、青年は龍を倒すが、自らも致命傷を負い倒れる。そこへ王女が現れ、治癒魔術で彼を蘇らせる。やがて二人は結ばれ、青年は“不死の王”として長きにわたり国を治める――そんな話だった。
リオンは眉をひそめる。
死者の蘇生に、身分違いの結婚。不老不死の王。突っ込みどころの多い話だ。今より魔力が強かったとされる昔の王族でも、死者を蘇らせることなどできなかったはずだ。もし本当にそんなことが可能なら、翼を持つ古代の王族たちが、今もなおこの国を支配しているはずだ。
だが、ふと父の言葉を思い出す。王家の治癒師なら切断した足を再生することすらできると言っていた。そこまでのことが可能なら、瀕死の状態からの回復くらいは、できてもおかしくないのかもしれない。
リオンは視線を落とし、自分の足を見つめた。ゆっくりと、意識を集中させる。体内を均等に巡る魔力を足へと集める。折れた骨が元に戻り、何事もなかったかのように動く――そんなイメージを思い描く。しばらくそのまま試みたが、変化はない。
足をわずかに動かした瞬間、
「……ッ」
鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめた。やはり、うまくいかない。普段なら、魔力を外に放ち、思い描いた通りに動かすだけで、火を灯すことも、水を生み出すことも、物を浮かせることもできる。
だが――
人の身体を治すとなると、何をどうすればいいのか分からなかった。人体に対する知識が足りないのか、それとも、そもそもやり方が違うのか。考えても、答えは出ない。
そのときだった。
遠くから、低く響く音が聞こえてきた。鐘の音。続いて、重い門が開く音。庭の外、城門の方が騒がしい。
「父さんたちが帰ってきたのかな?」
思わず呟く。
アリシアも針を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「多分そうね。治癒師の方も来ているでしょうし、皆で出迎えましょう」
リオンは本を脇に置き、松葉杖を手に取った。
***
広場に出ると、すでに人が集まっていた。門は開かれており、外から入ってきた一団がちょうど隊列を緩めているところだった。
先頭に立つ兵、そのすぐ後ろに――ローエンの姿がある。
「父さん」
自然と声が出る。
ローエンはすぐにこちらに気づき、軽く手を上げて応えた。
「リオンか。……思ったより歩けているな」
近づくなり、視線が足元へ落ちる。
「まだ少し痛むけど、右足を動かさなければね」
「そうか。なら問題ないだろうが……無理はするな」
そう言いながらも、もう一度だけ足の様子を確かめるように見た。
「王都から腕のいい治癒師も来ている。後で診せておけ」
「うん」
短いやり取りを終え、ローエンはふっと後ろへ視線を向ける。それにつられて、リオンも振り返った。一台の馬車が、ゆっくりと広場の中央へ進み出てくる。他の荷馬車とは違い、装飾が施された重厚な造りで、ただ動いているだけなのに、周囲の視線を自然と引き寄せていた。やがて馬車が静かに止まる。側面には、王家の太陽と翼を模した紋章が刻まれている。おそらく、治癒師が乗っているのだろう。御者が先に降り、扉の前に回る。そして、ゆっくりと扉が開いた。
中から現れたのは――
黒いベールで顔を覆った、一人の女だった。




