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牙城崩壊  作者: 生電社
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一 新たな来訪者

2015年1月。藤原という男が、菱型製作所に中途入社した。


菱型製作所は、創業七十七年を迎える老舗の製造会社である。資本金四千万円、従業員二百五十名。本社工場のほかに川崎出張所を構え、大手自動車メーカーの一次下請けとして、自動車部品の製造を手掛けていた。


プレス加工、板金、溶接・組み立て、塗装までを一貫して行える設備を持ち、長年にわたって取引先の信頼を積み重ねてきた。決して大企業ではないが、地域に根を張り、長く勤める社員も多い。現場の技術と経験によって成り立っている、典型的な中堅製造業だった。


菱型製作所の経営を支えてきたのは、創業者である高山勝也だった。高山は七十七年前に事業を興し、時代の変化や幾度もの経済危機を乗り越えながら、現在のグループを築き上げた人物である。会社の重要な判断は、最終的には高山の意向によって決まる。社長や役員であっても、創業者の考えを無視して物事を進めることはできなかった。


藤原は、かつて高山グループの別会社に在籍していた。しかし、社風になじめず、六年で会社を去っている。その後、大手製造会社へ転職したものの、入社から八年が過ぎた三十七歳のとき、中国への赴任を命じられた。彼はその辞令を受け入れず、退職を選んだ。


大手企業での勤務経験はあったものの、中国赴任を断ったことで、藤原は次の職場を自分で探さなければならなくなった。三十七歳という年齢を考えれば、これまでの経験を生かせる転職先を見つけることは不可能ではない。しかし、希望する給与や待遇を維持しながら、納得できる職場を探すことは簡単ではなかった。


そこで藤原が頼ったのが、かつての勤務先の創業者であり、グループの総帥であった高山勝也だった。


藤原と高山の間には、以前から面識があった。藤原はグループ会社を退職した後も、高山との縁を切らさないようにしていた。大手製造会社に移ってからも、毎年欠かさずお中元を届け、新年には挨拶に訪れていた。仕事上の直接的な関係がなくなっても、創業者とのつながりだけは保ち続けていたのである。


そして、行き場を失った藤原は、ついに高山のもとへ足を運んだ。


藤原は、これまでの経緯を説明した。大手製造会社で働いてきたこと、中国赴任を命じられたこと、しかし家庭や自身の考えもあって、その辞令を受け入れられなかったこと。そして、退職した今も製造業の世界で働き続けたいという思いを語った。


話を進めるうちに、藤原の声は次第に弱くなっていった。これからの生活への不安、次の仕事が見つからない焦り、そして自分を受け入れてくれる場所がないという思いが、一気にこみ上げてきたのかもしれない。


やがて藤原の目には涙が浮かんだ。


「高山さん、どうかお願いします。もう一度、グループで働かせていただけないでしょうか」


藤原は深く頭を下げた。


「どこの会社でも構いません。グループの中で、もう一度仕事をさせてください。自分には製造業しかありません。今までの経験も生かして、必ずお役に立ちます。どうか、働く場所を与えてください」


それは、単に転職先を紹介してほしいという相談ではなかった。藤原は創業者にすがりつくように、自分をグループの一員として受け入れてほしいと懇願したのである。


高山は、目の前で頭を下げる藤原の話を聞いていた。


かつてグループに在籍していたこと。退職後も毎年挨拶を欠かさなかったこと。そして、涙を流してまで働き口を求めていること。そうした事情を考えれば、無下に断ることはできなかったのだろう。


「分かった。何とかしてやろう」


高山はそう答えた。


その一言で、藤原の再就職先探しは大きく動き出した。創業者の意向が伝われば、グループ内で受け入れ先を探すことは難しくない。結果として、菱型製作所に藤原を迎え入れる話がまとまった。


こうして藤原は、菱型製作所に中途入社することになった。


当初の肩書きは一般従業員。しかし、年俸は七百五十万円。社内では部長級に相当する待遇が、表には出ない形で用意されていた。当時の給与体系では、五十五歳の部長でさえ年収は七百二十万円ほどだった。年齢も経験も上回る管理職より高い給与を、三十七歳の中途入社社員が受け取ることになったのである。


その待遇は、藤原の実力だけで決まったものではない。創業者に直接懇願し、その後ろ盾を得たことが大きく影響していた。


長年、現場で汗を流し、少しずつ役職を上げてきた社員たちにとって、面白い話ではなかった。もちろん、外部から優秀な人材を採用するために、特別な待遇を用意すること自体は珍しいことではない。しかし、藤原がどのような実績を持ち、会社に何をもたらすのかについて、社員たちには十分な説明がなかった。


しかも、藤原は製造現場の経験が豊富な人間ではなかった。


菱型製作所の事業は、単に製品を売買する仕事ではない。プレス機の能力、金型の状態、板金加工の精度、溶接条件、塗装品質、組み立て工程の作業性。それぞれの工程が複雑に関係し、ひとつの判断が後工程に影響する。長年の経験を持つ社員であっても、すべてを理解するには時間がかかる。


藤原には、その現場を理解するための経験が不足していた。


しかし、本人はそのことを大きな問題とは考えていなかった。むしろ、大手企業で働いてきた自分には、菱型製作所にない知識や考え方があると自負していた。


入社当初の藤原は、積極的に周囲へ話しかけ、自分の経験を語った。大手企業ではこうしていた、前の会社ではこういう仕組みだった、もっと効率的に仕事を進めるべきだ。そうした話を繰り返した。


社員たちは、最初のうちは新しい人間の意見として聞いていた。外部から来た人間の視点が、会社を良くすることもある。そう期待する者もいた。


だが、藤原の話には、菱型製作所の実情を踏まえた具体性が乏しかった。自分が経験してきた会社の仕組みを、そのまま当てはめようとする傾向があったのである。


それでも、彼の待遇と背後にいる人物を考えれば、誰も正面から反論することはできなかった。


藤原は、自分が特別な存在として迎えられたことを理解していた。そして、その特別扱いを、自分の能力が認められた結果だと受け止めていた。


創業者に涙ながらに頼み込み、グループに戻ることを許された男。その入社の経緯は、藤原自身にとっても、菱型製作所にとっても、後々まで大きな意味を持つことになる。

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