第9話「満員電車の被捕食者」
午前八時十分、地下鉄千代田線のホーム。
黄色い点字ブロックの内側に並ぶ人々の背中は、週明け特有の重苦しい疲労と苛立ちに沈んでいた。
玲香の心臓は、壊れた時計のように不規則な早鐘を打っていた。
目の下には薄くコンシーラーを重ねたものの、昨夜の屈辱と涙で赤く腫れた瞼を完全には隠しきれていない。
いつもなら「無害で地味な事務員」を計算尽くで演じるための黒縁眼鏡が、今朝は剥き出しの恐怖を外界から遮断するための、頼りない盾にしか思えなかった。
(来ないで……お願いだから、来ないで……)
祈るように拳を握りしめ、周囲を見回す。
だが、すれ違う通勤客の顔をどれだけ盗み見ても、あの冷酷な怪物の姿は見当たらない。
――単なる脅しだったのかもしれない。昨夜の悪夢のような身体検査も、一度きりの気まぐれだったのではないか。
そんな都合のいい淡い希望に縋りかけた瞬間、地響きのような走行音とともに、満員電車が滑り込んできた。
プシューと鈍い音を立ててドアが開き、人垣が雪崩れ込む。
玲香もまた、背後から押し寄せる圧力に流されるようにして車内の中央部へと押し込まれた。
すし詰めの乗客たち。肩と肩がぶつかり合い、息苦しい熱気と湿り気が充満する密室。
かつて玲香が、愚かな男たちを品定めし、嘲笑いながら罠にかけていた、まさにその場所だった。
ドアが閉まり、列車が軋みながら加速した、その時。
トン、と背中に柔らかい感触が触れた。
ただの乗客の押し合いではない。意図的に、玲香の背骨のラインをなぞるように滑り込んできた、微かな温もり。
「……おはようございます、三島先輩」
耳朶のすぐ裏で、鈴を転がすような澄んだ囁きが落ちた。
玲香の全身の血が一瞬で凍りついた。
振り返る隙間すらない。だが、首筋を掠める甘い吐息と、微かに漂う石鹸の香りで、それが誰であるかを脳が即座に理解した。
有村詩織。
「ひ……っ」
「しっ……大声を出しちゃダメですよ。周りの方たち、みんな疲れ切っているんですから。迷惑をかけちゃいけません」
詩織の声は驚くほど穏やかで、慈愛にすら満ちていた。
だが、玲香の背中に押し当てられた詩織の手のひらは、寸分の狂いもなく玲香のタイトスカートの裾へと滑り落ちていた。
電車がポイントを通過し、激しく横揺れする。
乗客たちが一斉によろめき、玲香の身体は正面に立つ大柄なサラリーマンの背中へと強く押し付けられた。
その混乱に紛れ、詩織の細い指先が、スカートのスリットから内側へと滑り込んだ。
「あ……っ、やめ……」
「動かないで。先輩がいつも、あの男たちにしていたことでしょう? 満員電車の中で逃げ場を奪って、身体を押し付けて……自分がされる側になるのは、初めてですか?」
薄手のストッキング越しに、詩織の冷たい指が太ももの内側を這い上がる。
生々しい皮膚の摩擦。周囲には何十人もの人間がひしめき合っている。吊り革を掴むサラリーマンの腕が玲香の頭上をかすめ、正面の男のスーツの背中が鼻先数センチに迫っている。
ほんの少し視線を落とせば、あるいは「痴漢です」と一言叫べば、この異常な状況は打破できるはずだった。
だが、玲香の喉は完全に干からび、声が一文字も出てこない。
叫べば、詩織のスマートフォンから、自らのすべての悪行と恥態が世界中へばら撒かれる。
社会的な破滅という名の絶対的な銃口が、玲香のこめかみに突きつけられているのだ。
ピリ、と乾いた布地の裂ける音が、走行音の隙間に小さく響いた。
「あっ……!」
詩織の尖った爪先が、ストッキングの股間の合わせ目を器用に引き裂いたのだ。
露わになった無防備な肌へ、詩織の指先が直接触れる。
ひんやりとした指が、昨夜の恐怖と羞恥で引き攣る玲香の秘裂の窪みへと、迷いなく沈み込んだ。
「ふふ……先輩、今朝は随分と薄い下着を穿いてきたんですね。私に触られるのを、待っていたみたい」
「ちが……っ、やめて、お願いだから……っ!」
玲香は奥歯を噛み締め、必死で喘ぎを押し殺した。
だが、詩織の指先は無慈悲だった。
満員電車の小刻みな振動に合わせ、下着を指で押し退け、湿り気を帯び始めた粘膜の奥へと、一本の指をゆっくりと沈めていく。
「んむ……ッ!?」
電車がカーブを曲がるたびに、詩織の指先が深く、深く抉るように蠢く。
逃げ場のないすし詰めの密室。
見知らぬ男たちの体温に囲まれながら、背後から後輩の女にスカートの中に手を突っ込まれ、粘膜を弄ばれている。
かつて自分が仕掛けていた「逆痴漢」という暴力が、何百倍もの屈辱と背徳感となって、自らの肉体を蹂躙していく。
(嫌……っ、こんなところで……誰かに見られたら……っ!)
恐怖で狂いそうなはずなのに、抗えない快楽の電撃が背骨を駆け上がっていく。
詩織の親指が、前方の敏感な突起をピンポイントで弾いた。
「あ……っ、んんっ……!」
「いい声……でも、漏れちゃってますよ、先輩。前の男の人、ピクッと反応しました」
詩織の意地悪な囁きが耳元に突き刺さる。
正面のサラリーマンが、不審そうにわずかに肩を引いた。もし振り返られたら、自分のスカートの中で蠢く後輩の手と、快楽に歪む自分の顔が見られてしまう。
極限の緊張感と羞恥。
それが、玲香の異常に鋭敏になった神経を、一気に臨界点へと押し上げた。
「だめ……っ、わたし、イッ……イっちゃう……っ!」
「どうぞ。満員電車の中で、声も出せずに絶頂してください。先輩にぴったりの、素敵な処刑台でしょう?」
詩織の二本の指が、奥深くで激しく曲げられ、最も敏感な天井を執拗に擦り上げた。
指先が動くたび、クチュ、クチュと濡れた水音が下腹部から漏れ出す。
「ん――ッ!! んぐ……ッ!」
玲香は正面の男の背中に額を押し付け、声を殺して激しく身悶えた。
太ももが痙攣し、引き裂かれたストッキングの隙間から、熱い愛液が詩織の指先を伝って流れ落ちる。
満員電車の走行音が轟く中、誰一人として気づかない密やかな狂宴の中で、かつての魔女は、完全に一匹の無力な獲物として公衆の面前で果てさせられた。
ブレーキの軋む音が響き、電車が霞ヶ関駅のホームへと滑り込む。
ドアが開き、乗客たちが一斉に動き出した。
詩織は濡れた指先を玲香のスカートからゆっくりと抜き取り、玲香の耳元へ唇を寄せた。
「……次は会社ですね。今日の午後、栗原課長と蓮見さんを交えて、新しいお仕事の打ち合わせをしましょう。先輩がどんな顔で私の前に立つのか……今から待ちきれません」
詩織は満足げな笑みを残し、人の波に紛れて颯爽とホームへ降りていった。
足元をガクガクと震わせ、濡れた太ももの冷たさに耐えながら、玲香はドアの脇にへたり込むようにして立ち尽くしていた。




