第7話「反転する蜜室、怪物の覚醒」
午後十時三十分。
終電が近づくにつれ、広大な執務フロアから完全に人の気配が消え去った。薄暗い室内を照らすのは、無機質に点滅する複合機のインジケーターと、玲香のデスクのモニターの青白い光だけだった。
静寂を破ったのは、社内チャットツールの短いつぶやきのような通知音だった。
『三島先輩。お昼の件で、どうしても先輩にだけご相談したいことがあります。北側の第三会議室でお待ちしています。有村』
玲香の唇の端が、嘲笑の形に吊り上がった。
(ふふ……まだ震えが止まらないのかしら。怯えて眠れなくなっちゃったのね)
昼間の給湯室での脅しが、あの地味な後輩の貧弱な心臓に致命的な恐怖を植え付けたのだ。
完全にトドメを刺し、自分の忠実な雑用係として首輪をかけてやる。そうすれば、栗原課長と蓮見に加え、部署内の監視役まで手に入ることになる。
玲香は優越感に浸りながら椅子から立ち上がり、タイトスカートの裾を整えると、誰もいない薄暗い廊下をコツコツと優雅に歩き出した。
フロアの最奥にある第三会議室。
すりガラスの扉の向こうに、微かな灯りが漏れていた。
玲香は躊躇うことなくドアノブを回し、部屋へと足を踏み入れた。
「有村さん、待たせて――」
カチャリ、と背後で冷たい金属音が響いた。
玲香が背を向けた一瞬の隙に、内鍵が回されたのだ。
振り返ると、そこに詩織が立っていた。
いつもの猫背は消え、背筋がすんなりと伸びている。野暮ったい眼鏡はすでに外され、露わになった素顔は、玲香が知る「臆病な後輩」とは別人のように冷徹で、ゾッとするほど整っていた。
「……有村さん? 鍵なんてかけて、どうしたの?」
玲香は眉をひそめ、いつもの高圧的な声音を取り繕おうとした。
だが、詩織は何も答えず、ただ無言のまま手元の薄型タブレットの画面を玲香へと向けた。
「何よ、これ……」
不快感を露わにしながら画面に視線を落とした瞬間、玲香の心臓が激しく跳ね上がり、全身の毛穴という毛穴から氷のような冷汗が噴き出した。
画面の中で再生されていたのは――映像だった。
朝の千代田線。満員電車の密着。怯えた女を装って商社マンの股間に尻を押し付け、ホテルへと連れ込む玲香の姿。
それだけではない。ホテルのベッドの上、商社マンの財布から現金を抜き取り、高級時計を外しながら「警察を呼びますか?」と冷酷に脅迫する玲香の顔が、真正面から、恐ろしいほどの超高画質で映し出されていた。
「な……っ!? な、何で……!?」
息が詰まる。喉の奥がカラカラに干からびる。
だが、悪夢はそれだけでは終わらなかった。詩織が細い指先で画面を滑らせるたび、次々と地獄のような記録が再生されていく。
北千住駅で、奪った時計を別の男のビジネスバッグへ滑り込ませ、「泥棒!」と叫ぶ玲香の冷笑。
深夜の役員会議室、机の上で脚を開き、栗原課長を貪りながら不正を強要する肉体の交合。
地下二階の書類保管庫で、蓮見の男根を口に含み、首筋に爪を立てて共犯者へと仕立て上げる生々しい水音。
そして――先ほど、給湯室で詩織を壁に追い詰め、「あなたの人生を終わらせてあげる」と得意げに脅しつけていた、玲香自身の醜悪な美貌。
「う……嘘……でしょ……?」
玲香の膝がガクガクと震え、後退りした腰が会議用テーブルに激突した。
隠し撮りなどという生易しいレベルではない。構図、音声、光の取り込み方に至るまで、まるでプロが何ヶ月もかけて密着撮影したドキュメンタリーフィルムのように、玲香のすべての悪行と破滅の証拠が、網羅され尽くしていた。
「……素敵でしょう、三島先輩」
静寂を破ったのは、詩織の鈴を転がすような甘い声だった。
震える玲香とは対照的に、詩織の頬は微かに紅潮し、その瞳には狂おしいほどの悦楽が爛々と燃え盛っていた。
「毎朝の電車も、ホテルも、深夜の会議室も……私、ずうっと特等席で見つめていたんですよ。自分が絶対の支配者だと信じ込んで、男たちを踏み躙る先輩の姿……本当に、息が止まるほど美しかった」
「あ、あんた……誰なの……!? あの男たちの誰かの差し金!? 復讐のつもりなの!?」
悲鳴のような問いかけに、詩織は「あはっ」と小さく吹き出した。
心底おかしそうに肩を揺らし、一歩、また一歩と玲香へと間合いを詰めてくる。
「復讐? そんなくだらないもの、あるわけないじゃないですか。あの男たちなんて、ただの餌ですよ。先輩の傲慢で、汚らわしくて、美しい本性を引き出すための……無価値な舞台装置」
詩織はタブレットをテーブルに置き、玲香の顎先へと冷たい指を伸ばした。
昼間に自分がしたのと全く同じ仕草。だが、その指先に込められた力は圧倒的で、玲香は金縛りに遭ったように身動きが取れなかった。
「私はね、先輩……生まれた時から、傲慢な人間が破滅して、私の足元で泣き叫ぶ姿を見ることでしか……身体の奥が熱くならないの」
詩織の熱く湿った吐息が、玲香の耳朶を撫でた。
その瞬間、玲香は悟った。
目の前にいるのは、法や倫理を盾にする正義漢でもなければ、恨みを晴らしにきた被害者の代弁者でもない。
自分など足元にも及ばない、純粋な悪意と快楽だけで生きている本物の怪物なのだと。
「先輩がこれまで集めてきた男たちの動画……ぜんぶ私のアカウントと同期して、クラウドにバックアップしてあります。私が指先をひと押しするだけで、警察にも、会社中にも、ネットの掲示板にも……先輩の全てがばら撒かれる」
「や……やめて……っ」
玲香の瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
これまで男たちに見せてきた嘘の涙ではない。人生のすべてを奪われ、食物連鎖の最底辺へと叩き落とされた者の、本物の恐怖の涙だった。
詩織はその涙を自らの舌先で掬い取ると、恍惚とした笑みを浮かべて喉を鳴らした。
「ふふ……美味しい。ねえ、三島先輩。……私と、もっと楽しいゲームをしましょう?」
怪物の牙が、ついに魔女の喉元へと深く食い込んだ。




