第6話「魔女の浅薄な威嚇」
「ひ、ひぃっ……! あ、有村さん……っ!?」
栗原は完全にパニックに陥り、ズボンの前を両手で押さえながら、階段を転がり落ちるようにして下のフロアへと逃げ去っていった。
コンクリートの空間に、男のみっともない足音と荒い息遣いが遠ざかっていく。
玲香は乱れたブラウスのボタンを留め、タイトスカートの皺を手で払った。
視線を上方へ戻すと、踊り場の影に立っていたはずの詩織の姿は、すでに煙のように消え失せていた。
(あの地味なネズミが……何様のつもりよ)
爪が手のひらに食い込む。
階段室の踊り場で見下ろされた、あの感情の欠片もない真っ黒な視線。その不気味な感触が皮膚の表面にこびりつき、玲香のプライドを内側から苛立たしく逆撫でしていた。
男たちを自在に操り、人生を翻弄してきたこの私が、あんな無能で目立たない小娘ごときに怯えるはずがない。
証拠などあるはずがないのだ。見間違いだと脅しつけ、二度と口を開けないように恐怖を骨の髄まで刻み込んでやれば済む話だ。
三十分後。
フロアの最奥にある給湯室に、詩織が一人で入っていく背中を玲香は見逃さなかった。
コツ、コツと鋭いヒールの音を響かせ、玲香は給湯室へと滑り込んだ。
背後でカチャリとドアを閉め、迷わず内鍵を回す。密閉された狭い空間に、換気扇の低い唸りと、シンクに落ちるポタポタという水滴の音だけが響いた。
マグカップを洗っていた詩織が、ビクリと肩を跳ねさせて振り返る。
度入りの野暮ったい眼鏡の奥で、瞳が落ち着きなく泳いでいた。いつもの、社内の誰もが知る「臆病でおとなしい有村詩織」の顔だった。
「み、三島先輩……? 鍵を……どうして……」
「有村さん。ちょっとお話しがあるの」
玲香は微笑みを浮かべたまま、音もなく間合いを詰めた。
逃げ場を塞ぐように、詩織の顔の真横のタイル壁へバチンと右手を叩きつける。鼻先が触れ合うほどの至近距離。玲香の纏う甘く重厚な香水の香りが、狭い給湯室の空気を暴力的に塗り替えた。
「さっき、非常階段にいたわよね?」
「え……? あ、あの……それは……」
詩織は怯えたように身を縮こまらせ、ステンレスのシンクへと背中を押し当てた。
玲香は左手を伸ばし、詩織の細い顎先を指先で強く挟み上げた。爪が白い頬に食い込む。逃れようとする詩織の顔を、無理やり自らの真正面へと固定させた。
「とぼけないで。しっかり目が合ったじゃない。……ねえ、何が見えたのかしら?」
「な、何も……何も見えません、でした……っ」
詩織の声は微かに震え、眼鏡の奥の瞳には涙の膜が張り始めていた。
その怯えきった反応に、玲香の胸を支配していたわずかな警戒心は、急速に冷笑と侮蔑へと変わっていった。
(やっぱりね。ただの偶然居合わせただけの無能な小娘。あの冷たい目つきも、突然のことに頭が真っ白になって固まっていただけよ)
「そう、何も見えなかったのね。それが正解よ」
玲香は冷酷な笑みを唇に刻み、詩織の耳元へ顔を寄せた。
氷のように冷たい囁きが、逃げ場のない後輩の鼓膜を直接締め上げる。
「もし万が一、あなたの口から変な噂が漏れたらどうなるか……教えてあげるわ」
「ひ……っ」
「栗原課長を肉体で誘惑して、人事評価を不正に書き換えさせようとしたのは『あなた』よ。私、あなたの名前と社員番号を使って、偽のメッセージ履歴も、課長へ擦り寄る卑猥な画像も、いくらでも完璧に偽造できるの。……会社を懲戒解雇されるだけじゃ済まないわよ? 実家の両親にも、親戚中にも、あなたが会社でどんな破廉恥な真似をしたか、全部ばら撒いてあげる」
玲香は顎を掴んでいた手を離し、詩織の胸元の頼りないカーディガンを指先で軽く弾いた。
「社内の誰も、あなたみたいな地味で陰気な女の言葉なんて信じない。信じるのは、有能で人望のある私と課長の方よ。……分かった?」
「は、はい……っ! 誰にも言いません……! 絶対に、誰にも言いませんから……っ!」
詩織は両手で顔を覆い、しゃくり上げるようにして首を何度も縦に振った。
床に崩れ落ちそうなほど震えるその姿に、玲香は完全な勝利を確信した。
「いい子ね。明日の朝も、いつも通りの可愛い後輩でいてちょうだい」
玲香は満足げに息を吐き、内鍵を外して給湯室のドアを開けた。
所詮はこの程度の雑魚。自分の築き上げた城壁を揺るがすことなど、誰にもできはしないのだ。
優越感に浸りながら、玲香は颯爽とオフィスへと戻っていった。
――ガチャン、とドアが閉まり、再び訪れた給湯室の静寂。
顔を覆っていた詩織の両手が、ゆっくりと下ろされた。
先ほどまで瞳に浮かんでいた涙は、跡形もなく消え失せていた。
震えていた肩はぴたりと止まり、詩織は玲香の去っていったドアのノブを、無表情のままじっと見つめていた。
やがて――詩織の唇が、三日月のように歪んだ。
「ふ……ふふっ……」
喉の奥から漏れ出たのは、狂おしいまでの歓喜に満ちた忍び笑いだった。
詩織は自らの胸元にそっと手を差し入れた。
カーディガンの第二ボタンに仕込まれた、針の穴ほどの超小型レンズ。
玲香の傲慢な威嚇の台詞も、冷酷に歪んだ美しい美貌も、そのすべてが完璧な画質と音声で、詩織のサーバーへとリアルタイムで吸い上げられていた。
「あはっ……素敵……本当に、最高だよ、三島先輩……」
詩織は自らの下腹部を熱狂に震える指先で強く押さえつけ、恍惚の吐息を漏らした。
狩人の気取りで獲物を脅したつもりの愚かな魔女。
その首元に、すでに逃れることのできない鋼の罠が深く食い込んでいることすら知らずに。




