第5話「死角に潜むガラス玉」
蓮見を完全に手なずけてからの社内は、玲香にとって退屈なほど快適な箱庭へと成り果てていた。
木内の不当な左遷に異議を唱える者は誰一人おらず、営業企画部で発言力を増す蓮見は、玲香の視線ひとつで怯えたように目を伏せ、総務の要望を最優先で通す忠実な猟犬と化していた。
会社という巨大な組織も、そこで蠢く男たちのプライドも、すべては股の間に仕込んだ罠と小さなレンズひとつで容易く解体できる。
自分は決して誰にも脅かされない。弱者を踏み台にし、愚者を嘲笑いながら、この世界の頂点で甘美な蜜を吸い続けるのだ――。
その全能感は、玲香の欲望をさらに肥大化させていた。
「……三島さん、これ以上の改ざんは本当に無理だ。監査法人も入る時期だし、もし露見したら私どころか会社全体が吹き飛ぶ!」
午後四時、薄暗い北側の非常階段。
普段は誰も使わないコンクリートの踊り場で、栗原課長は脂汗を流しながら、必死の形相で首を横に振っていた。玲香が要求したのは、下期の人事評価テーブルの書き換えと、私的な使途を隠蔽するための交際費の不正処理だった。
「あら、吹き飛ぶのは課長お一人ですよ」
玲香は冷笑を浮かべ、履き慣れた黒のピンヒールでコツンとコンクリートを踏み鳴らした。
逃げ場を塞ぐように栗原との間合いを詰め、灰色のタイトスカートを自らの手でゆっくりと太ももの付け根まで捲り上げる。薄い黒ストッキングに包まれた艶めかしい肉感が露わになり、栗原の喉仏がごくりと上下に動いた。
「課長、自分の立場を忘れてしまったんですか? 今さら引き返せる道なんて、どこにも残っていないのに」
「玲香さん、頼む……もう許してくれ……君の言う通りにするから……っ」
「口先だけじゃ信じられませんね。……ほら、手を出して」
玲香はブラウスのボタンを上から三つ一気に外した。
黒いレースのブラジャーから零れ落ちそうな、豊満で柔らかな乳房が薄明かりの下に晒される。玲香は栗原の手首を掴み、その躊躇う掌を自らの豊かな胸へと力任せに押し当てた。
「ひ……っ!」
「揉んでごらんなさい。私の身体が欲しくてたまらないんでしょう? 不正の判子を押すだけで、この胸も、下も、全部あなたの好きにしていいんですよ」
母乳のように甘く濃密な香水の匂いと、吸い付くような肌の弾力。
恐怖と欲望の狭間で完全に理性を麻痺させられた栗原は、抗うことをやめ、貪りつくように両手で玲香の乳房を揉みしだき始めた。
指先を肉に食い込ませ、親指の腹で尖った先端を擦り上げる。
「ああ……っ、玲香さん……君の身体は、本当に毒だ……!」
「んっ……そうよ、もっと強く……。痛いくらいに揉みなさい……」
玲香は冷たいコンクリートの壁に背中を預け、わずかに顎を上げて吐息を漏らした。
冷え切った階段室の空気の中で、男の汗の臭いと自らの体温が絡み合う。中年の管理職が、自らの社会的破滅と引き換えに、部下の女の胸を惨めにまさぐっている――その屈辱と背徳の構図が、玲香の背骨を心地よい痺れで満たしていく。
「書類の承認、明日の午前中までに終わらせてくださいね。……そうしたら、夜にまた会議室で、奥まで挿れてあげますから」
「わ、分かった……やる、やるから……っ!」
栗原が狂ったように玲香の首筋に顔を埋め、舌を這わせようとした――その時だった。
ゾワリと、背筋の毛穴が一斉に逆立つような強烈な悪寒が玲香を襲った。
(……え?)
男の情欲とは違う。視線だ。
皮膚を針で刺されるような、粘着質で、だが絶対零度のように冷え切った視線が、どこかから自分たちを射抜いている。
玲香は反射的に栗原の頭を押し退け、視線が注がれる上方――上階へと続く鉄製の手すりの隙間を見上げた。
非常階段の踊り場の暗がり。
上階へと続くステップの影に、ひとつの人影が立っていた。
有村詩織。
人事総務部で玲香の席の二つ隣に座る、あの大人しく地味な後輩だった。
いつも伏し目がちで、誰に対しても怯えたように「すみません」と繰り返すだけの無能な女。
だが、今そこに立っている詩織の姿は、玲香の知るそれとは決定的に異なっていた。
手すりに両手をかけ、首をわずかに傾げて二人を見下ろしている。
その顔には、驚きも、嫌悪も、羞恥の色すら一片も浮かんでいなかった。
まるで実験室のシャーレの中で蠢く無価値な虫眼鏡の標本を観察するかのような、光を一切反射しない真っ黒なガラス玉のような瞳。
「ひっ……!」
栗原が視線に気づき、情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
ブラウスを乱した玲香と、下腹部を膨らませて青ざめる栗原。誰が見ても言い逃れのできない、社内での破廉恥な密会現場。
しかし、詩織は逃げようともせず、口を開くこともなく、ただ無言で玲香をじっと見つめていた。
その無機質な視線と目が合った瞬間、玲香の胸の奥で、生まれて初めて警鐘がけたたましく鳴り響いた。
(何なのよ、あいつは……!? なんでそんな目で、私を見てるの……!?)
これまで男たちを恐怖で支配してきた玲香の指先が、原因の知れない悪寒によって、微かに震えていた。




