第2話「擦り付けられる原罪」
午後六時四十分、夕暮れ時の大手町駅。
改札を抜けた三島玲香は、朝と同じ地味なネイビーのスーツに身を包み、知的な黒縁眼鏡の奥で冷ややかに口元を緩めていた。
社内では「真面目で残業も厭わない総務の三島さん」を完璧に演じ切り、定時退社の許可を得てきた。デスクワークの合間、引き出しの奥に隠したバッグの中身に触れるたび、玲香の下腹部は甘い疼きを抑えきれずにいた。
朝、商社のエリート男から毟り取った二十枚の一万円札は、すでに駅のコインロッカーに預けてある。
だが、手元に残した革張りのポーチの中には、まだあの重厚な戦利品が眠っていた。スイス製の高級クロノグラフ――二百万円は下らない、男の社会的地位そのものを象徴する銀色の機械式時計。
玲香にとって、金など副産物に過ぎない。
本当に彼女の乾いた魂を潤すのは、他人の人生を自らの指先一つで奈落へ叩き落とす瞬間の、あの圧倒的な全能感だった。
ホームへ滑り込んできた地下鉄千代田線のドアが開く。
吐き出される人の波と、雪崩れ込む帰宅ラッシュの乗客たち。玲香は人の背中を押し分けるようにして、中央の吊り革付近の密集地帯へと滑り込んだ。
車内は朝以上の蒸し暑さだった。
疲労の滲むサラリーマンたちの生温かい吐息、擦れ合うスーツの布地、わずかな隙間を奪い合う肉体と肉体の摩擦。玲香は薄手のタイトスカートの裾をわずかに引き上げ、背後から押し寄せる乗客たちの体温を、あえて全身で受け止めた。
(さて……今夜の生贄は、誰にしてあげようかしら)
玲香の視線が、吊り革に片手でぶら下がり、睡魔に耐えかねて頭を船のように揺らしている男へと向けられた。
三十代前半、くたびれた量販店のスーツ。手首には使い古された安物のデジタル時計。足元のビジネスバッグはファスナーが半分開いたまま、だらしなく口を開けていた。見るからに要領が悪く、会社でも理不尽に怒鳴られていそうな、平凡で善良な底辺の歯車。
(あなたに決めたわ。お疲れ様、私のための罪を背負ってね)
電車がカーブを曲がり、車輪が甲高い金属音を立てて軋んだ。
車体が大きく揺れた瞬間、玲香はよろめいたふりをして、その男の背後へと身を滑り込ませた。
「あっ……」
小さく漏らした吐息とともに、玲香は自らの胸元を男の背中へと柔らかく押し当てた。
男がびくっと身じろぎし、慌てて体勢を直そうとする。だが、周囲の乗客の圧力によって、男の身体は玲香の腕の檻の中にすっぽりと閉じ込められた。
「すみま……せん……」
男が申し訳なさそうに振り返ろうとした瞬間、玲香はバッグの中から、冷たい金属の塊――あの高級クロノグラフを抜き取っていた。
満員電車の暗がり。
玲香の細く滑らかな指先が、男の開いたビジネスバッグの隙間へと、まるで蛇のように音もなく滑り込んでいく。
スルリと、書類の束の間に沈んでいく冷たい銀色の時計。
他人のテリトリーへ、完全な悪意を音もなく侵入させる感覚。
数百人の人間がひしめき合う密室の只中で、誰にも気づかれずに罪を植え付ける背徳の thrill が、玲香の背骨を電流のように駆け抜けた。
思わず太ももをきつく擦り合わせ、奥歯を噛み締めて甘い吐息を殺す。
(ああ……たまらない。身体の芯が、熱くて溶けちゃいそう……)
電車が次の停車駅――北千住駅のホームへと滑り込み、減速のショックとともにドアが開いた。
その瞬間、玲香は眼鏡の奥の瞳を鋭利な刃へと変えた。
「――泥棒ッ!!」
引き裂くような甲高い悲鳴が、車内のざわめきを一瞬で凍りつかせた。
乗客たちの視線が一斉に玲香へと突き刺さる。玲香は怯えたように震える手で、目の前の男のバッグを指差した。
「この人、さっきから不自然に身体を寄せてきて……! 前の人のポケットから時計を抜き取って、自分の鞄に入れるのを見ました! スリです!」
「え……!? な、何言ってるんですか、僕はずっと寝て――」
男が真っ青になって叫んだが、周囲の乗客たちの目はすでに冷酷な敵意に染まっていた。
「おい、待て! 逃げるな!」
「駅員を呼べ!」
屈強なサラリーマンたちが男の腕を両脇から掴み、ホームへと引きずり出した。男は狂乱状態で「違います! 僕じゃありません!」と喚き散らしながら、身の潔白を証明しようと自らのバッグを床にひっくり返した。
バサリと散らばる書類と弁当箱。
そして――コランと硬質な音を立てて転がり出たのは、紛れもない、眩い光を放つスイス製の高級クロノグラフだった。
「ひっ……!? な、なんで……なんでこんなものが……!?」
男の絶叫がホームに木霊した。
安物のスーツを着た男の鞄から出てきた、分不相応な数百万円の高級時計。言い逃れのできない動かぬ証拠。駆けつけてきた駅員と鉄道警察隊が、男の首根っこを押さえつけ、駅員室へと強制的に連行していく。
「違うんだ! 信じてくれ! 僕の人生が終わってしまう……ッ!」
泣き叫び、床に爪を立てながら引きずられていく男の無様な後姿。
ホームの雑踏の片隅で、玲香は人垣に紛れながら、その光景をじっと見つめていた。
男はこれから警察で厳しい尋問を受け、会社を解雇され、家族からも見放され、身に覚えのない罪の重みで破滅していくだろう。自分が退屈しのぎに仕掛けた悪意一つで、一人の人間の未来が完全に粉砕されたのだ。
「ふふ……っ」
玲香の唇から、小さく、だが狂気に満ちた笑みが漏れ出た。
濡れそぼった下着が太ももの内側に張り付き、全身を震わせるような絶頂の余韻が胸を満たしていく。
自分は決して裁かれない。
愚かな獲物たちを罠にかけ、社会の底へと蹴落とす完全な支配者なのだ。
玲香は眼鏡の位置を指先で直し、何事もなかったかのように背筋を伸ばすと、夜の街へと軽やかな足取りで消えていった。




