第1話「朝の密室、爪を研ぐ獲物」
午前八時十五分、地下鉄千代田線の車内は、蒸し風呂のような熱気と酸欠に近い澱んだ空気で満たされていた。
すし詰めの乗客たちが織り成す、湿り気を帯びた吐息と安っぽい柔軟剤、そして男たちの汗の臭い。誰もが死んだ魚のような濁った瞳で吊り革やスマートフォンの画面を見つめ、互いの肉体を不快そうに押し付け合っている。
この窒息しそうな日常の地獄こそが、三島玲香にとって最高の狩場だった。
度入りのない黒縁眼鏡に、膝丈の地味なネイビーのタイトスカート。化粧の薄い顔立ちと控えめなまとめ髪は、どこからどう見ても「無害でおとなしい総務部の事務員」そのものだ。
だが、伏せられた長いまつ毛の奥で、玲香の瞳は獲物を品定めする爬虫類のように冷徹に光っていた。
(……見つけた)
二つ隣の吊り革に掴まる男。四十代半ば、仕立ての良いダークグレーのスリーピースに、襟元には誰もが知る五大商社の社章。左手の薬指にはプラチナの結婚指輪が鈍く光り、袖口からは高級スイス製クロノグラフが覗いている。
身なりが良く、社会的地位があり、家庭を持つ男。失うものが多ければ多いほど、人は無力で、脆く、扱いやすい。
電車がカーブに差し掛かり、大きく車体が軋んだ。
玲香はその遠心力を利用し、怯えた小動物のように小さく息を呑みながら、男の正面へと滑り込むように身体を滑らせた。
「きゃっ……」
わざとらしいほど可憐な声とともに、玲香はふくよかな臀部を、男の太ももの付け根へと深く押し当てた。
男がびくりと肩を震わせる。
密着した薄いスカート越しに、玲香は男の身体の強張りを敏感に感じ取っていた。
(ほら、もっと意識しなさいよ……)
電車の揺れに合わせて、玲香は体重をわずかに後ろへ預けた。
柔らかい肉の弾力が、男の下腹部を執拗に圧迫する。男は戸惑ったように手を引っ込めようとしたが、満員の圧迫がそれを許さない。次第に、男の呼吸が荒くなり、押し当てられた玲香のお尻の割れ目に、熱を帯びた固い突起が押し付けられてくるのが分かった。
男の抗えない浅ましい情欲。
駅が近づき、ブレーキが軋む瞬間、玲香は男の耳元へ顔を寄せた。
先ほどまでの弱々しい声とは打って変わった、絶対零度の冷ややかな囁き。
「……ずっと、押し当てていましたよね? 大声を上げて駅員を呼ばれたくなければ、次の駅で一緒に降りてください」
男の顔から一気に血の気が引いた。
商社のエリートとしてのプライドが音を立てて崩れ去り、絶望と恐怖に染まった瞳が玲香を見つめる。ドアが開いた瞬間、玲香は男のスーツの袖を強く引き、無言のままホームへと引きずり出した。
向かったのは、駅から徒歩三分、雑居ビルの谷間に佇む薄暗いラブホテルだった。
「あ、あの……誤解なんです! 電車が揺れて、不可抗力で……!」
部屋に入るなり取り乱して弁解する男のネクタイを、玲香は細い指先でぐっと引き寄せた。
「言い訳なんて聞きたくないわ。……それとも、今すぐ警察に行きますか? 一流商社の看板に傷がついて、奥様にも知られることになりますけれど」
玲香は眼鏡を外し、妖艶な微笑を浮かべた。
地味な事務員の仮面を脱ぎ捨て、露わになった悪女の美貌に、男は息を呑んだ。恐怖に駆られながらも、目の前でシャツのボタンを外し、白い肌を晒していく玲香の肉体から目を逸らすことができない。
「大人の示談の方法を……教えてあげる」
ベッドの上に押し倒された男の上へ、玲香は静かに跨がった。
男の震える手が、玲香の豊満な胸とくびれた腰へと伸びる。汗と体温が混ざり合う濃厚な情事。男が理性を失い、獣のように腰を突き上げて悦楽の頂点へと登りつめていく最中――玲香の意識は、冷酷なまでに醒め切っていた。
ヘッドボードの隙間に忍ばせたスマートフォン。
無音カメラのレンズが、快楽に顔を歪める男の醜態と、玲香の身体を貪る決定的瞬間を、高画質で克明に記録していた。
三十分後。
シャワーを浴びてバスローブ姿で出てきた男は、ベッドの縁に腰掛けて煙草に火をつけようとしていた玲香の姿を見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「あの……これで、示談ということで……」
「ええ、もちろん。でも、少し手数料をいただいたわ」
玲香の足元には、口を開けた男の革のブリーフケースが転がっていた。
玲香の手首には、男の腕から外された高級クロノグラフが巻かれ、指先には財布から抜き取られたばかりの十数枚の一万円札が扇状に広げられていた。
「なっ……! お前、泥棒か!? ふざけるな、返せ!」
激高して掴みかかろうとする男の顔面へ、玲香はスマホの画面を突きつけた。
再生されたのは、先ほどの情事の動画。男の卑しい喘ぎ声と、顔立ちが鮮明に映し出されている。
「警察を呼びますか?」
玲香は冷たい笑みを唇に刻み、男の耳元へ静かに言葉を落とした。
「『満員電車で若い女性を脅迫し、ホテルへ連れ込んで暴行した商社マン』。この動画を、あなたの会社のコンプライアンス窓口と、奥様のLINE、それにSNSへ一斉送信してあげる。……この時計とお金は、私の心の傷を埋めるための正当な慰謝料よ。文句がある?」
男の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
膝から崩れ落ち、震える唇で「それだけは……やめてくれ」と懇願する男の無様な姿。
玲香は冷笑を浮かべ、男の頭を踏みつけるようにして跨ぎ越すと、重厚なドアを開けて部屋を後にした。
手首に巻かれた重みのある時計と、バッグに収まった札束。
自分は決して捕まらない。愚かな男どもを狩り、社会の隙間を支配する完全な捕食者なのだという全能感が、玲香の下腹部の奥を心地よく痺れさせていた。




