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第3話:カルマン

「シンレイ……? 誰だ、それ……。まさか、俺のことなのか? その名前は、本当に俺のものなのか?」



激しく咳き込むと、喉の奥から金属を溶かしたような、どろりとした血の塊が吐き出された。


俺は泥の中に両手をつき、そのまま膝から崩れ落ちた。



「クソが……これ、悪夢じゃねえんだろ?」


指先を震わせながら、自分の両手を見つめる。


脳がバグっているせいで、こびりついた泥がまだ生々しい赤黒い血に見えて仕方がなかった。



記憶なんて本当にこれっぽっちもない。



さっきあの男に「シンレイ」と呼ばれた時、胸の奥の錆びついた歯車がガタガタと回り出した感覚だけは残っている。



だが、それだけだ。自分が何者なのか、昨日の自分がどこで何をしていたのかすら、今の俺は一切思い出せない。完全に「無」だ。


自分が自分の身体を乗っ取った見知らぬ他人であるような、気味の悪い感覚だけが全身を支配していた。



痛む脇腹を押さえながら、なんとか這い上がるようにして立ち上がる。



数メートル先では、顔に深い傷跡を刻んだ無骨な老人――ゴロウが、反省の色など微塵もない仁王立ちのまま、ただ面倒くさそうに鼻を鳴らしていた。



「おい、クソジジイ! 少しは加減ってものを覚えやがれ!」


呼吸を必死に整えながら、俺は精一杯の声を絞り出した。



「あいつに殺される前に、味方のジジイの理不尽な一撃で命を落とすところだったぞ!」



ゴロウは謝るどころか、フンと鼻で笑い飛ばした。


「すまん、お前らガキども。エネルギーのコントロールが上手くいかなくてな。死にたくなければ、次はもっと上手く避けることだ」



理不尽極まりない。そもそも避けるも何も、こっちは生まれたての赤ん坊レベルで状況が分かっていないのだ。



周囲に視線を走らせる。


先ほどまで圧倒的な殺気を放っていたあの黒マントの男――ラルカンは、いつの間にか綺麗さっぱり姿を消していた。


あたりには不気味なほどの静寂が広がっている。



「おい、ジジイ……」


ズキズキと激痛を訴える腹部に手を当て、何とか姿勢を保ちながら尋ねる。



「なんで俺は襲われたんだ? あのサイコパス野郎と、俺に一体何の関係があるんだよ」



ゴロウは俺の文句を完全に無視し、腕を組んで深く眉をひそめた。


「……なぜ奴が動き出した……?」



ジジイが一人でぶつぶつと深刻そうに考え込んでいると、背後の草むらから足音が響いた。


「まったく、あれだけの強撃を受けておいて、まだそんなに口が回るなんてね!」


呆れたような、でもどこか安心したような声。アンジェラだった。



彼女の後ろからは、このグループの仲間たち――タロウ、ミナ、ケンジ、そしてソラがぞろぞろと姿を現した。



「相変わらず聞き分けのねえ坊主だな、お前は」


タロウがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら近づいてきて、俺の背中をバチンと豪快に叩いた。



「ぶふっ……!? お、おい、やめろ! 殺す気か!」


俺は激痛に顔を歪めながら、一歩後ろに飛び退いた。



「助けてくれたことには感謝する。……感謝するが、本当に悪いんだけど、あんたたち誰だ? 俺の脳みそ、今完全に初期化されてるんだよ。親切な人がいたら、一から名前と関係性を教えてくれないか?」



その言葉を聞いた瞬間、アンジェラが両手を腰に当て、絵に描いたような怒り顔で一歩前に踏み出してきた。


「ちょっと! あれほど部屋から出るなって言ったわよね!? あんたが大人しく寝ていれば、こんなことにはならなかったのよ!」



「いや、だって、あんな爆音がしたら誰でも外に出るだろ……」



「言い訳しない! 死にたがりなの!? この大馬鹿!」


アンジェラは本気でカンカンに怒っているが、後ろにいるケンジとソラは「あーあ、また始まったよ」と言わんばかりにケラケラと笑っている。緊迫感があるのかないのか分からない連中だ。



アンジェラはふぅ、と深くため息をつき、髪を乱暴にかき上げた。


「……まぁ、あんたのその様子じゃ、本当に記憶が消えてるみたいね。説明するのは、ちょっと複雑なんだけど……」



彼女は一瞬言葉を濁し、視線をゴロウへと向けた。


「ねえ、頭領。もう、この際だから全部あいつに話してあげたらどう? 自分が何者なのかくらい知る権利はあるわ」



ゴロウは腕を組んだまま、沈黙を保った。


そして、ゆっくりと口を開こうとした。


「まぁ、ここまで巻き込まれた以上は、隠し通すのも――」



カッ、と。



ジジイの目が獣のように鋭く光った。全身の毛が逆立つような、圧倒的なプレッシャーが肌を刺す。


「ガキども、下がれ!!」


ゴロウが鼓膜を破らんばかりの怒号を上げた。



「え……?」


反応が遅すぎた。



次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、俺の胸の中央に肉眼では捉えきれないほどの凄まじい衝撃が突き刺さった。


ドガッ!!!



肋骨が悲鳴を上げる。呼吸が完全に停止し、俺の身体は木の葉のように宙を舞った。そのまま後方のコンクリートの壁へと激しく叩きつけられる。


ベキキッ!



「シンレイ――っ!!」


アンジェラの悲痛な叫び声が、遠くの方で木霊した。



「クソが! あの生ゴミ、まだ近くに潜んでやがったのか!」


ミナが忌々しげに吐き捨て、自身の武器を鋭く構える。



「嘘だろ、完全に気配を消していやがった……!」


タロウが冷や汗を流しながら、すぐさま戦闘態勢に入った。



「ケンジ、俺に続け! 挟み撃ちだ! お前は左、俺は右から仕掛ける! 『連撃・双牙ノ陣』で行くぞ!」


「了解!」



ケンジが地を蹴り、二人は目にも留まらぬ速さで左右から同時に躍り出た。完璧な連携、完璧なタイミングでの奇襲。



しかし、空間の歪みからぬっと姿を現したラルカンは、避ける素振りすら見せなかった。


二人の渾身の打撃をその身にわざと真っ向から受け止め、爆煙の中でくつくつと不気味に笑っている。



煙が引いた中心、ラルカンは衣服の埃をパッパと払った。無傷。文字通り、傷一つついていない。


「……私を本当に帰ったとでも思ったのか?」



ラルカンは狂気を孕んだ目で彼らを見下ろした。


「相変わらずゴミクズ共だ。救いようのない負け犬の集まりだな。カナゾノ様が、なぜお前たちのような出来損ないを『障害』として視界に入れているのか、私には到底理解できん。ただの有象無象ではないか」



その傲慢な言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で何かがブチ切れた。



理由は分からない。ただ、こいつの顔を見ているだけで、腹の底からドス黒い怒りが湧き上がってきたんだ。


「お前……調子に乗るのも大概にしろよ……!」



身体の痛みを怒りでねじ伏せ、俺はふらつく足取りでラルカンへと突撃した。


無防備な背中に向けて、渾身の右ストレートを叩き込む――!



「ふん、本気か?」


ラルカンは振り返りもせず、俺の放った拳を信じられないほどの力でガシッと片手で受け止めた。



そのまま俺の腕を強引に前へと引きずり込み、がら空きになった俺の腹部に向けて、容赦のない膝蹴りを突き上げた。


ドグシャッ!!!



「が、はっ……ふ、ぅ……っ!?」


内臓がすべて破裂して口から飛び出すかと思った。


衝撃で視界がチカチカと明滅する。地面に激しく転がりながらも、俺は意識の途切れそうな頭で必死に考えた。



クソ……痛すぎる。だが……これで、あいつの意識を俺に引きつけられた。あの二人が殺されるのだけは、防げた、だろ……?



ラルカンは地面に這いつくばる俺を見下ろし、その端正な顔を苛立たしげに歪めた。


「チッ……本当に、不愉快な男だ。シンレイ、お前はあの時死んでおくべきだったのだ。まったく、運命というのは時に酷い悪戯をする」



ラルカンは一歩歩み寄り、冷徹な目で俺の身体を踏みつけ、何度も何度も力任せに蹴り始めた。


「この、出来損ないが!」

ドカッ!


「ただの、生ゴミの分際で!」

バキッ!


「お前の存在自体が、この世界の不純物なのだ!」

ドガッ!



「ぐっ……あ、が……っ!」

容赦のない衝撃が身体を破壊していく。



「やめて!! 離れなさい、この悪魔!!」


アンジェラが半狂乱になってラルカンに掴みかかった。



彼女は拳や爪、ありとあらゆる手段でラルカンに打撃を繰り出すが、奴は首や肩をほんの数センチ動かすだけで、そのすべてを完全に紙一重で回避していく。まるで幼稚園児の相手をしているかのような、圧倒的な実力差。



「目障りだ、女」


ラルカンは完全に興奮が冷めたような声で呟くと、アンジェラの放った突きを容易く片手で捕らえ、その動きを完全に封じた。



そして、空いたもう片方の手のひらに、ドス黒い、禍々しいオーラを放つエネルギー球を急速に練り上げ始めた。


「己の身の程を知れ、愚か者が。ここで消え失せるがいい」



狂気に満ちた笑いを浮かべ、ラルカンはその至近距離から、暗黒のエネルギーをアンジェラの顔面に向けて解き放った。


「しまっ――」



誰もが最悪の結末を覚悟した、その瞬間。


「……この、小童がぁぁぁ!!!」



ゴロウが地響きのような怒号とともに、割って入った。


ジジイはラルカンが放った凶悪な暗黒エネルギーの奔流を、避けるどころか、自らの両手を開いて真っ向から受け止めた。



「何だと……!?」


ラルカンが驚愕の声を上げる。



ゴロウの手のひらに触れた暗黒のエネルギーが、ジジイの身体の周囲を激しく循環し、まるで掃除機に吸い込まれるように、その肉体へと内包されていく。エネルギーの「吸収」だ。



ジジイの全身の血管が青白く浮かび上がり、周囲の大気がパチパチと弾ける。


「ほう……私の『カルマ』を無理やり我が身に吸い込むか、老いぼれめ。だが、そんな真似をして肉体が持つと思うのか?」



ラルカンは、待ってましたと言わんばかりに邪悪な笑みを深め、さらに出力を上げようとする。


「黙れ、クソ野郎が……!」



ゴロウは歯を食いしばり、凄まじい眼光で奴を睨みつけた。


「お前のその腐った力、すべてワシが引き受けてやるわ!」



ジジイは高く両手を掲げ、次の瞬間、祈るように両の手のひらを強く打ち合わせた。


パンッ!!!



と世界が割れるような凄まじい音が響き渡り、吸い込んだラルカンのエネルギーと、ゴロウ自身の全魔力が合流し、その手のひらの間で金色と黒色が混ざり合う、巨大な光球へと凝縮されていく。


「これで……終わりじゃぁぁぁ!!!」



ゴロウがその両手をラルカンの胸めがけて突き出す。


「【破界天衝・極光滅殺弾ヴァルカニック】!!!」



カッ、と世界が純白に染まった。


ジジイの手のひらから放たれたのは、太い柱のような、すべてを消滅させる圧倒的なエネルギーの奔流だった。それはまるで、世界の理を書き換えるかのような、伝説級の一撃。


ドゴォォォォォン!!!



凄まじい爆風と光の波が吹き荒れ、ラルカンの身体を巻き込んで数キロ先まで突き抜けていった。



煙がゆっくりと晴れていく。


ラルカンは数メートル分、地面を削りながら後退していた。衣服は破れ、口元からは一筋の血が流れている。さすがにあの直撃は効いたようだが、それでもまだ、奴は不気味に笑っていた。



「くくく……ははははは! 見事だ、老いぼれ! 今のは少しばかり肝を冷やしたぞ! ようやく私を楽しませる気になったか、素晴らしい指揮官、素晴らしいマスターだ!」



ゴロウは肩で息をしながら、冷徹な声で告げた。


「ラルカン……能書きはいい。さっさと失せろ。次はないぞ」



ラルカンは口元の血を親指で拭い、ふぅ、と息を吐いた。


「いいだろう。今日のところは、その老骨に免じて引いてやる」



奴はゆっくりと、歩を進めた。その先には、血まみれで倒れている俺がいる。


アンジェラが駆け寄ろうとしたが、ミナがその腕を強く掴み、無言で首を横に振った。「行ってはダメだ」と、目で制している。



ラルカンは俺の目の前でぴたりと足を止め、ゆっくりと腰を落として、俺の顔を覗き込んできた。


「私を見ろ、シンレイ」



満身創痍の身体で、俺はなんとか顔を上げ、血混じりの笑みを浮かべ上げてやった。


「……あ? 用事がないなら、さっさと失せろよ……。こうして近くで見ると……お前、マジでブサイクだな」



ラルカンの表情が一瞬、完全に凍りついた。鋭い殺気が走る。


だが、奴はすぐにまた、低く冷酷な笑い声を漏らした。



「ふん……。強がりだけは一丁前か、負け犬が。シンレイ、お前を待つ地獄は、こんなものではないぞ。どれだけ姿を変え、記憶を消してここに隠れ潜んでいようと、私はお前を見つけ出した。これからは、お前の人生を徹底的に不可能なものにしてやる。警察に追われるだけの生活など、私の与える絶望に比べれば生ぬるい。次に会う時は……今の私がいかに『慈悲深かった』か、その身を以て知ることになるだろう」



ラルカンは立ち上がり、マントを翻して、闇の中に消えていった。



「……次、会ったら……もっと、酷い目に、遭わせてやる……。二度と、来るな……クソ野郎……」


口の中でそう吐き捨てたが、内心はガタガタと震えていた。


勘弁してくれよ……。お願いだから、これも全部、ただの質の悪い悪夢であってくれ……。



奴の気配が完全に消えると、仲間たちが一斉にゴロウの周りに駆け寄った。


「さすが頭領! まさかあのラルカンを退けるなんて!」とタロウが声を張り上げる。


「あんな凄まじい一撃、初めて見ました……! やっぱりジジイは最強だ!」とケンジも興奮気味に続けた。



ゴロウはただ「フンッ」と短く鼻を鳴らし、何も言わずに背を向けて、奥の部屋へと歩き去っていった。その背中は、どこかひどく疲弊しているように見えた。



誰もがジジイの後を追う中、アンジェラだけは真っ直ぐに俺の元へと走ってきた。


俺の前に膝をつき、顔を覗き込んでくる。


「……シンレイ、大丈夫!? 息はできる!?」



「……あれ……? 俺……死んだのか……? なんで……目の前に……天使が、いるんだ……?」


限界を迎えた脳で、何とかそれだけの冗談を絞り出す。



アンジェラは一瞬あっけにとられたような顔をしたが、すぐに顔を真っ赤にして、呆れたように呟いた。


「……あんた、本当に大馬鹿ね」


その声は、少しだけ震えていた。



彼女は、俺が部屋を出たことがどれだけ無茶で愚かなことだったかを怒ったが、俺は「確かに間抜けだったかもしれないけど……あの中に一人で閉じこもっているなんて、俺には出来なかったんだ」と返した。



そこへ、ケンジとタロウが近寄ってきて、俺の肩を軽く叩いた。


「お前がラルカンの気を引いてくれたおかげで助かったよ、ありがとな」



「……え? 俺、何かしたっけ……?」


本当に何も覚えていない。ただ身体が勝手に動いただけだ。



アンジェラの柔らかい膝の感触が、頭の後ろに伝ってくる。


あたたかいな、と思いながら、俺の視界は急激に狭くなっていき、そのまま深い闇の中へと心地よく落ちていった。



---



次に意識が戻った時、俺は見知らぬ部屋の、見知らぬベッドの上にいた。


ゆっくりと目を開けると、すぐ横にアンジェラが座っていた。彼女は俺の右手を、両手でぎゅっと握りしめていた。



「……やっと、目を覚ましたのね」


彼女の顔を見た瞬間、俺の頭の中にぼんやりとした思考が浮かんだ。


この綺麗な天使が……ずっと、俺のそばで看病してくれていたんだろうか。



「な、何よ……。起きた途端に黙り込んじゃって、どこかまだ痛むの?」


怪訝そうに顔を覗き込んでくるアンジェラ。



「いや……ただ、あんまりにも綺麗だったから、見惚れてただけ」



「っ!? あんた、本当に……信じられないくらいの大馬鹿ね!」


アンジェラは一瞬で耳まで真っ赤になり、照れ隠しに俺の腕をぽかぽかと軽く叩いた。その様子がおかしくて、俺たちは小さく笑い合った。



彼女は、俺の身体に巻かれた包帯を器用に、そして優しく取り替えてくれている。


俺はその横顔をじっと見つめながら、一番気になっていたことを口にした。


「なぁ、アンジェラ……教えてくれ。俺の名前は……本当に『シンレイ』なのか?」



アンジェラの手が、ぴたりと止まった。彼女は視線を落とし、悲しげに唇を噛んだ。


「……ええ。それが、あんたの名前よ」



「じゃあ、俺は一体何者んだ? なんであんな奴に命を狙われる? 記憶を無くす前、俺は何をしていたんだ?」


堰を切ったように質問を重ねるが、アンジェラは頑なに俺の目を見ようとはしなかった。



「……ごめんなさい、シンレイ。それは、今のあんたには……言えない。色々と、複雑すぎるのよ。あんたがここに来た経緯も、何もかも……私からは話せないわ」


拒絶の色の濃い返答に、部屋の空気が少し重くなる。



俺は彼女をこれ以上困らせまいと、ふと彼女の袖口から覗く衣服に目をやった。


「あ……そのブレスレット、赤くて綺麗だな。よく似合ってる」



「えっ……? あ、ありがと……」


突然の話題転換に、アンジェラは目に見えて動揺し、不自然なほど素早い動作で立ち上がった。


「私、ちょっと用事を思い出したから行くわね!」



バタン、と勢いよく扉が閉まる。


……俺、何かマズいこと言ったか?



一人で首を傾げていると、入れ替わるようにして扉が開き、ゴロウが入ってきた。


さっきの戦闘時の冷徹な雰囲気はどこへやら、今のジジイは驚くほど上機嫌で、文字通り「お調子者のヒーロー」のような大げさな身振りをしている。だが、その顔は真っ赤で、完全に酒臭い。


「おうおう、起きたかクソ戦力外のガキ! ワシの圧倒的な活躍、しかと目に焼き付けたか!?」



「ジジイ、お前完全に酔っ払ってんだろ……」


俺は呆れ果てて息を吐いた。



真面目な話ができる状態ではなさそうだったが、一応、さっきのアンジェラとのやり取りについて零してみると、ジジイはガハハと豪快に笑いながら、俺の頭を乱暴に撫で回した。


「気にするな、女の心は秋の空ってな! すぐに元に戻るわい! それよりもしっかり休めよ!」



それだけ言うと、ジジイは千鳥足で部屋を出て行った。



ベッドの上に一人残され、猛烈に退屈が襲ってきた。


部屋を見回すと、テレビのコンセントが抜かれているのが目に入った。アンジェラが意図的に抜いたのだろうか。


気になった俺は、ベッドから這い出してコンセントを再び差し込み、古いテレビの電源を入れた。



画面が青白く発光し、ニュース番組の音声が室内に響き渡る。


『――続いてのニュースです。我が【ヴァリア王国】と隣国【オークヘイヴン帝国】との間で続く、カルマ資源の所有権を巡る外交摩擦は、現在も一触即発の危機を孕んでいます。これに対し、我が国の国王カイト・カナゾノ様は、以下の声明を発表されました』



画面には、豪華な玉座に座る冷徹な眼差しの男が映し出された。


『――我が国は、正当な権利を主張しているに過ぎない。他国からの不当な非難や、それに伴う一切の損害について、我が国が責任を負うつもりは毛頭ない――』



王国のトップが放つ、あまりにも強硬で傲慢な態度。


アナウンサーはさらに、トーンを一段下げて深刻な表情で原稿を読み進めた。


『また、世界各地で「カルマ」の適正値を大幅に超えた能力者による、凶悪な犯罪が急増しています。現在、全世界の能力者のうち、精神崩壊を起こして暴走状態にある割合は「36%」に達しており、特に我が国においてその発生率が最も高いという、非常に憂慮すべき事態となっています。市民の皆様は、十分にご注意を――』



「カルマ……? 暴走……? 一体何の話だ……?」


記憶のない俺には、ニュースが使っている単語の意味がさっぱり理解できなかった。


ただ、その「カルマ」という言葉を聞くたびに、胸の奥がキリキリと痛むのを感じる。



睡魔がじわじわと這い上がってくる中、画面の背景が切り替わった。


『……最後に、先日都内で発生した、若き天才女性の惨殺事件に関する続報です。現場から逃走した犯人の特徴について、警察当局から新たな情報が――』



あの、第1話で俺が見た悪夢と同じ事件のニュースだ。


重要な情報を聞き逃すまいと、必死で画面に視線を固定しようとしたが、限界だった。強烈な眠気に抗えず、俺の瞼は重く閉じられ、意識は完全にシャットダウンした。



---



翌朝。


小鳥のさえずりで目が覚め、ベッドの上で上半身を起こした。身体の痛みは昨日より幾分マシになっている。



しばらくして、部屋の扉が静かに開き、アンジェラが顔を出した。


「おはよう、シンレイ。体調はどう?」



「まぁ、昨日よりはマシかな。ジジイの強烈な一撃の跡はまだ残ってるけど」



「ふふ、それなら良かった。……ねえ、もし歩けるなら、少し外の空気を吸いに行かない? 気分転換になるわ」


彼女の提案に、俺は二つ返事で頷いた。



アンジェラは俺に、このグループのケンジが昔使っていたという、少し古びた衣服を手渡してきた。それと一緒に、首元を完全に覆い隠すための、厚手のネックウォーマーも差し出される。


「これを着て、口元をしっかり隠して」



アンジェラの声は、いつになく真剣だった。


「え? なんでこんな暑苦しい格好しなきゃいけないんだよ?」



「いいから言う通りにして。今のあんたが外をそのまま歩くのは、あまりにも危険すぎるの。顔を見られたら、すぐに面倒なことになるわ」



「面倒なことって……」


問い返しようとしたが、彼女の拒絶するような強い視線に圧され、俺は大人しく衣服を着込み、口元を布で深く覆い隠した。



外に出ると、街の空気は驚くほど重く、そして圧迫感に満ちていた。


俺たちが今いる区域は、建物の壁が崩れ、まるで戦争でも起きたかのような凄惨な荒廃ぶりが目立っている。しかし、そこから中央の市街地へと歩みを進めるにつれ、景色は一変した。



立ち並ぶ綺麗な商店、行き交う人々、一見すると何不自由ない、平和そのものの光景。だが、その平和の裏に、何かが決定的に歪んでいるような違和感が、常に付きまとっていた。



しばらく無言で歩いた後、俺は隣を歩くアンジェラに、ずっと胸に引っかかって疑問をぶつけた。


「……なぁ、アンジェラ。一つ聞いてもいいか?」



「何よ、改まって」



「『カルマ(Karman)』って、一体何なんだ? ニュースでも言ってたし、あのラルカンって奴もその言葉を使ってただろ」



俺の問いを聞いた瞬間、アンジェラはピタリと足を止めた。


その美しい横顔が、深い、抉るような痛みを堪えるように歪んでいくのを、俺は見逃さなかった。


「……人間の負の感情よ」



アンジェラはぽつりぽつりと、絞り出すような声で話し始めた。


「憎しみ、嫉妬、傲慢、他者を見下す歪んだ心……。それらすべての醜い感情を、物理的な『力』へと変換する、汚悪で不浄な術。それがカルマ。この力はもう何年も前から、誰の手にも負えないほど制御不能に陥っているわ。おそらく、遠くない未来に他国との大戦争を引き起こす原因になる。……そして、この国を支配する権力者たち。次期王位継承者である一人娘のキアラ・カナゾノ、そしてその父親である現国王カイト。あの親子こそが、この国を、この世界を歪めている諸悪の根源、最大にして最悪の『悪』そのものよ」



「カナゾノ……」


その、呪われたような苗字が彼女の口から零れ落ちた、まさにその瞬間だった。



――カチッ。



頭の中で、何かのスイッチが強制的に入った。


錆びついた釘を脳天から直接ハンマーで打ち込まれたかのような、凄ましき激痛が走る。


視界が真っ赤に染まり、頭蓋骨が内側から粉々に砕け散るような感覚に、俺は短い悲鳴を上げてその場に膝をついた。


「う、あぁぁぁっ!!!」



「ちょっと! シンレイ、どうしたの!?」


アンジェラが慌てて俺の身体を支えようとする。その顔は、今にも泣き出しそうなほどに、申し訳なさそうな色で満ちていた。



「ごめんなさい、シンレイ! 私、あんたに話しちゃいけないことを……本当にごめんなさい……!」



激痛で歪む視界の向こうから、一人の人影がゆっくりと近づいてきた。


ゴロウだった。



ジジイはいつもの酔っ払った態度を完全に消し去り、遥か彼方にそびえ立つ王国の巨大な城をじっと見つめていた。その目は、何か重大な決意を固めたかのように、冷たく、重く据わっている。



ゴロウは一歩歩み寄り、俺の震える肩の上に、その大きな、無骨な手をぽんと置いた。


「……どうやら、これ以上は誤魔化しきれんようだな、シンレイ。これ以上お前に事実を隠し続ければ、いずれお前は、自分自身の記憶の拒絶反応で、その精神ごと崩壊することになる」



ジジイのその言葉に、俺の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。


真実……? 一体、どんな真実が、この俺の過去に隠されているっていうんだ?



ゴロウは俺の目を真っ直ぐに見つめ、地を走るような低い声で、残酷な現実を宣告した。


「覚悟して聞くがいい。本当の事を言うぞ、シンレイ……。お前は、奴に巻き込まれた被害者などではない」



ゴロウの言葉が、俺の耳の奥に冷たく突き刺さる。


「その『カルマ』をこの世に生み出し、世界をこの地獄へと叩き落とした、張本人の一人……。それこそが、過去の、記憶を失う前のお前自身なのだ」



世界の音が、完全に消え去った。



俺の過去、俺の正体、そして、俺が背負うべき「罪」――そのすべての崩壊が、今、始まった。


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