第2章:名前の記憶
扉の枠に寄りかかっていたその女は、間違いなく俺が今まで見た中で一番美しい女性だった。
いや、記憶がないから「今までで一番」という比較すら怪しいんだが……まあ、今の俺にはこれが全宇宙で一番の美人に違いない。
俺は息を呑んだ。気の利いたセリフなんて一つも浮かんでこない。
すると、彼女は俺のそんな反応を楽しんでいるかのように、妖艶に笑って近づいてきた。
「あら、そんなに見つめて。もしかして、一目惚れ? 私に恋しちゃったのかしら?」
「いや、そんなわけないだろ」
俺はわざと顔を背けて、照れ隠しに笑った。
「ただ、自分の記憶が空っぽすぎて、世界が全部新鮮に見えるだけだよ。今のところ、まともに見た人間が君だけだしな。……で、君は誰だ?」
「私はアンジェラ。それだけ知っていれば十分でしょ」
「アンジェラね。……で、ここはどこ? 私はどうしてこんなボロボロの場所にいるんだ?」
「さあね。倒れていたあなたを拾ってきただけよ」
俺が彼女の正体を問い詰めようとした、その時だった。
轟音と共に、家全体が激しく揺れた。
天井から埃や瓦礫が、まるで死の雨のように降り注ぐ。空気そのものが軋み、異常なほどの圧力が部屋を支配した。
「……何の騒ぎだ!」
扉が爆発するように蹴破られた。
顔に深い傷跡を刻んだ、無骨な老人が現れる。ゴロウだ。
「おい、そのガキ、もう目覚めたのか!」
ゴロウは俺をゴミを見るような目で見下ろすと、苛立たしげに吐き捨てた。
俺は突然の事態に思考が追いつかない。自分が何者で、なぜこんな場所にいるのか。混乱と恐怖が胸の中で渦巻いていた。
「アンジェラ! 悠長なことをしてる場合じゃない、連中が嗅ぎつけてきやがった! 全員集めろ、今すぐだ!」
ゴロウは俺を一瞥もせず、怒号を響かせて出て行った。アンジェラは俺を厳しい眼差しで見つめ、低い声で念を押した。
「……いい? ここから絶対に出ないで。もし出たら、あんたの死体を拾う羽目になるわよ」
彼女もまた、慌ただしく後を追って出て行った。
部屋には再び、重苦しい静寂が戻ってくる。
だが、ここで大人しく待っていられるような精神状態ではなかった。
俺は廊下へ出た。床の木材は腐り、歩くたびに軋んだ音を立てる。家の構造はまるで迷宮のようで、部屋の扉を開けるたびに、ネズミの鳴き声や腐敗した空気が俺を拒絶した。
階段を駆け下り、外へと飛び出す。
そこには、鉛色の空の下、荒廃した街が広がっていた。俺が足を踏み出した瞬間、空から殺気立った閃光が降り注いだ。
エネルギーの奔流だ。
だが、間一髪でアンジェラが俺の前に立ちふさがり、青いバリアでそれを弾き返した。
「言ったでしょ! 外に出るなって言ったのよ、この馬鹿!」
彼女の背後には、仲間たちが勢揃いしていた。冷徹な眼差しのミナ、闘志を燃やすケンジ、風のように動くソラ、そして戦況を見極めるタロウ。
その時だった。黒いマントを纏った男が空から舞い降りた。ヴァルカスだ。
彼はソラとタロウを軽々と一撃で地に伏せ、傲慢に笑った。
「見ろよ……」
ヴァルカスは吐き捨てる。
「自分たちが救世主だと勘違いしているのか? 鍵となる駒すら守れない無能どもが。この世界はとっくに死んでいる。お前たちは、何十年も前に消えるべきだった残骸にすぎない」
(……何だこいつ、急に長ったらしい演説を始めて。これって、物語のイベントか何かか?)
俺は理解できないまま、アンジェラの指示で家の中へ戻ろうとした。だが、ヴァルカスが俺の行く手を遮った。
「どこへ行く、シンレイ?」
その響きが、俺の脳裏に突き刺さった。
ただの音じゃない。心臓の奥底、錆びついて固まっていた何かが、その名前に触れた途端、音を立てて回し始めたような感覚。
……なんだ、この寒気は。
「シンレイ……? 俺の名前か? 何を言ってやがる!」
ゴロウが絶叫と共に杖を叩きつける。「逃げろ、ガキ!」
だが、ヴァルカスは優雅に横へと滑る。ゴロウの全力の一撃は虚空を切り、勢い余った杖が、そのまま俺の腹部に重く沈んだ。
「ぐっ……!」
肺から空気がすべて追い出される。
ヴァルカスは地面に倒れた俺を見下ろし、心底つまらなそうに溜息をついた。
「……弱すぎる。話にならないな」
そう言い残して、男は姿を消した。
俺は地面に這いつくばり、激痛に顔を歪める。
名前を聞いた時のあの震え。
俺は、本当にただの「他人」なのか?




