第1話:記憶の白紙
赤。
視界を埋め尽くすのは、どろりとした赤色だけだった。
見知らぬ部屋の床で、俺は一人の若い女性の亡骸を抱きかかえていた。
十七歳くらいだろうか。その顔は、まるで美しくも壊れてしまった人形のように冷たい。
なぜこうなったのか。
彼女が誰なのか。
何も思い出せない。
ただ、十四歳の俺の胸を、言いようのない喪失感が焼き付けていた。
「いやだ……嘘だろ。おい、目を覚ませよ!」
俺の声は震え、恐怖で押しつぶされそうだった。
その時だった。
部屋の扉が爆発するように吹き飛んだ。
二人の男女が雪崩れ込んでくる。女は床に崩れ落ち、断末魔のような悲鳴を上げた。
「あああああ!! 私の娘が!! ……貴様、なんてことをしてくれたんだ!! この化け物め!!」
男が殺意を剥き出しにしてこちらへ突進してくる。
空気が軋む。男の纏う圧倒的な圧力が、部屋の壁に亀裂を入れていく。
「この腐れ外道が……手ずから八つ裂きにしてくれるわ!!」
男が放つ破壊的な力。
俺は本能のままにそれを回避し、窓ガラスを突き破って冷たい夜の街へと飛び出した。
「逃がさんぞ、人殺しめ!! 首を刈り取ってやる!!」
背後で男の怒号が響く。
裏路地を走る。心臓が早鐘を打ち、足が鉛のように重い。
追い詰められ、疲れ果て、血を流しながら俺は大通りへと出た。
振り返ったその瞬間、追手の強烈なヘッドライトが俺を射抜いた。巨大な白い光が、視界を完全に覆い尽くす。
眩い閃光。
押し寄せる轟音が、俺のすべての恐怖を飲み込んでいった。
(……やっと、終わるのか)
突如として、すべての音が消え去った。
猛り狂うエンジンの轟音も、怒号も、降りしきる雨の音も。
まるで世界のコードを誰かに引き抜かれたかのように、一瞬で途絶えた。
耳の奥に突き刺さるのは、重苦しく、不気味なほどの静寂。
――しまっていた目を、勢いよく見開いた。
あの眩い閃光は消え去り、視界に飛び込んできたのは見知らぬ部屋の暗い天井だった。
自分が呼吸をしていることに気づくまで、数秒の時間を要した。
激しく上下する胸が、冷え切った空気を貪欲に吸い込み、喉を鋭く灼いていく。
全身が、じっとりとした冷や汗に濡れていた。
心臓は肋骨を内側から叩き割るような勢いで暴れ、その鼓動が頭の奥にまで響き渡っている。
こめかみを強く押さえる。
錆びた針を脳に突き刺されたかのような激痛に、一瞬視界が歪んだ。
「……なんなんだ、今の悪夢は……」
かすれた声は、かろうじて形を保っている程度だった。
雨の冷たさも、手のひらに残る血の温もりも、あまりにリアルだった。
俺は戦慄しながら自分の両手を見つめたが、暗闇の中に赤黒い汚れなどどこにもない。綺麗なものだった。
ベッドの上で身を硬くしたまま、世界が意味を成すのを待った。
だが、部屋の静寂は、俺の内の空虚さをいっそう際立たせるだけだった。
冷たいアスファルトの上ではない。俺は柔らかいシーツに包まれていた。
手足は動き、外傷もない。あの男の殺気も、もう感じられない。
しかし、その見かけ倒しの平穏の中で、真の深淵が足元に広がった。
頭の中が真っ白だった。完全に、空っぽだ。
記憶を、顔を、昨日の足跡を探そうとしても、そこには「無」しかなかった。
黒板消しで、自分の存在そのものを消し去られたかのように。
「……待て。俺は、誰だ?」
その問いは、重く、そして滑稽に暗闇に浮かんだ。
自分の名前すら分からない。年齢も、なぜこの部屋にいるのかも。
俺は、自分自身の身体に宿った見知らぬ他人だった。
「……くそ、喉が渇いたな」
ひび割れた喉が悲鳴を上げていた。
身体的な感覚で、なんとか現実につなぎとめられていたかった。
ベッドから滑り出るように這い出し、ふらつく足取りで立ち上がる。
暗闇を手探りで進み、部屋の隅にある小さな水道の蛇口をひねった。
水の流れる音が静寂を破る。それが妙に心地よかった。
冷たい水を手のひらに溜め、渇ききった喉を潤すように何度も、貪るように飲み干した。
冷気が食道を通り抜け、わずかな明晰さが戻ってくる。
だが、渇きが癒えると同時に、背筋を奇妙な振動が駆け抜けた。
不快で、微かで、得体の知れない違和感。
まるで俺の皮の下に、何か異質なものが閉じ込められていて、内側から殻を突き破ろうとしているかのような感覚だ。
水道から離れ、再び手探りで歩くと、テーブルの上のプラスチックの塊に指が触れた。リモコンだ。
正面にある古いテレビの電源ボタンを押した。
青白い光が暗闇を切り裂く。
『ザッ……ザザッ……』
砂嵐の向こうから、緊迫したアナウンサーの声が響き渡った。
『――全国指名手配の緊急速報です。都内にて発生した凄惨な殺人事件の容疑者について……』
『現場となった住宅にて、国の次世代を担う天才として知られた十七歳の若き女性が殺害されました』
俺は腕を組み、壁に寄りかかりながら嫌悪感を露わに画面を睨みつけた。
「へえ……ひどい世の中だな。天才を殺すなんて、よっぽどタチの悪いサイコパス野郎だ」
『警察当局の発表によると、犯人は逃走中であり、極めて危険な能力を有している可能性があるとのことです。目撃情報によれば、犯人の特徴は――』
「どんな奴なんだろうな。警察も大変だ……」
情報を聞き漏らすまいと、画面に視線を凝らしたその瞬間だった。
パチチッ……!
テレビの内部で、激しい静電気が弾ける音がした。
コンセントが荒々しく引き抜かれる。
画面の映像が中央に向かって急激に収縮し、一筋の眩い白点へと変わる。その光の粒子もまた、一秒ほどの時間をかけてゆっくりと虚無の中へ溶けて消えていった。
部屋は再び、重苦しい静寂と暗闇に引き戻される。
犯人の特徴も、名前も、何一つ明かされないまま、青白い光は完全に消滅した。
「あ……?」
呆然として振り返る。
扉の枠に、誰かが静かに寄りかかっていた。
コードを手にした彼女が、そこにいた。
部屋の暗闇の中でも、その緑色の瞳だけが猫のように妖しく、磁石のように強く光っていた。
長い白い髪が、波打つように肩から滑り落ちている。
焦る様子も、取り乱す様子も一切ない。
女はひどく落ち着いた様子で、静かに、そして自信たっぷりに口角を上げた。
「やあやあ、やっとお目覚めかい? 坊や」




