第三十八話:アカシックレコード
でび子により、僕が元いた世界は聖書の大洪水と言う物語に上書きされた。
元の世界に戻す唯一の方法は、僕が元の世界を物語に記述する事。
しかし当然、その全てを書き切る事など不可能だ。
一体どれくらい書けば、後は自律的に世界が組み上がるのだろう。
「まずは世界的に重要であろう科学者や技術者、国王や大統領、
そうした影響力のある人達を書こう。
そして主だった国やその地形、言語に…あ、あと動物とかもか。」
書く事はあまりに膨大だった。他にも歴史や科学・世の中の万事を
物語の中に書き入れるとすれば、それはもはや神の作業だ。
「うぅ...ん、これは骨が折れる…いや、ほぼ不可能じゃないか?」
「諦めちゃうんですか、先輩?」
深夜子からの突然の先輩呼び。驚く僕。
「え、いきなり何だよ、僕が喜ぶからってまた先輩呼びを?」
「えぇ、そうですよ。だって先輩呼びされたらモチベ上がるでしょ?
呼び方を変えるだけでやる気が変わるなら、いくらでもしてあげます。」
今は深夜子の存在が本当にありがたい。
その上モチベーションまで上げてくれるとは、本当に素敵な子だと思った。
しかし、やはり僕が元いた世界の全てを記述した物語を作るなど、
一生を何回繰り返しても不可能な気がした。
「…無理、だよな?世界の全てを記述するなんてさ。」
「…まぁ、普通ならそうですよね。
だけど、一つだけあるんじゃないですかね、世界の全てが書かれたもの」
「そんなもの、あったっけ?」
「えぇ、【アカシック・レコード】です。」
「アカシックレコード…。この世界の過去と未来、全てが書かれている
全概念を包括した記録の存在。だけどそんなもの...どこにあるんだ?」
「案外、私のこの不思議の国にあるかも知れませんよ?」
そんな僕達のやり取りをただ無言で聞いていたでび子が口を開く。
「ふぅん、面白いじゃない。アレがココにあるって?
深夜子、アンタ本当に何者なのよ。アカシックレコードがあるとしたら、
ココは単なる不思議の世界じゃないでしょ。
アンタ、神…とは言わないけれど、神の使いか何かかしら?」
「…質問に全て答える気はありません。
とにかく先輩が元の世界を作れるようにサポートするだけです。」
「それにしても、物理的にレコード盤みたいなものがあるのか?
だとしたら、虱潰しにこの世界を歩き回れば良いのか?」
「いえ、多分そんな物理的に触れるものでは無いような気がしますが。
だって物理だとしたら膨大過ぎてその大きさははかり知れませんから。」
「そうだよなぁ。
だけど物理的な物質じゃないとしたら益々、ワケがわからないぞ。
この世界にあるとしてもどう探せば良いんだ?」
その時、でび子が声をかけて来た。
「案外、そこに落ちてるそのCDかもよ?」
「え?コレは…CD?一体何故こんなものがここに…?」
深夜子が解説を加える。
「ここは不思議の国と言ってますが、概念世界でもあります。
この世界の中の人間が気付きを得たり心境が変わったりすれば
即座にこの空間に変化が訪れます。」
「だったら…このCDを読み込んでみるか?
だけど再生する機器が無いぞ。」
「だったら、再生するための機器を想像してみて下さい。
そこに現れますから。」
「え、そんな仕組みなのか?えーと...どうだ!!」
僕はCDを再生するプレーヤーを想像した。
すると突然目の前にCDプレーヤーが現れた。
「本当だ…。凄い世界だな、ココは。」
「さぁ、再生しましょう。」
CDの再生が始まる。
するとそこに映し出された映像は、謎のおっさんが躍っていた。
「何だ…コレは?」
「コレ、アンタに似てない…?
もしかしたらアンタの数十年後じゃない?」
「え、何でそんなものが…あ、でも確かにコレ僕だ。」
「おそらくは、真理に到達しないままにあの大洪水の世界に戻り、
そこで何も出来る事が無くただ踊るしかないアンタよ、哀れね。」
「どうしてそんな悲しい未来が…。
僕はこんなに世界を元に戻したいと思っているのに…。」
深夜子が優しく僕に語り掛ける。
「だったら、もっと本気で信じて下さい。
大丈夫、先輩なら出来ますよ。」
深夜子が僕に身体を寄せて来る。
少し汗ばんだ体からは、ヨガストレッチの時の汗の匂いがした。
「深夜子…。そうだな、深夜子にはまたヨガをやってもらわなきゃな。
その為には絶対に世界を元に戻すんだ。」
でび子がからかうように言う。
「フフ、アンタもしかしたら深夜子に良いように扱われてるかもね。
しかもそれが色仕掛けとかじゃなく汗の匂いとか、笑えるわね。」
「う、うるさい…。美少女の爽やかな汗の匂いは最高なんだぞ。」
「力説しなくて良いわよ、キモいわね。」
僕の願いに応答して、新たなCDが現れた。
「コレは…次こそ、アカシックレコードなのか?」
「わかりませんが、見ない手は無いでしょう。
さぁ、CDを再生して下さい。」
CDをプレーヤーに入れた。
するとそこに映し出されたのは、ヨガをしている女性だった。
「え!?ヨガをしているのが深夜子じゃない!?」
「先輩、落ち着いて下さい。別にヨガって私の専売特許じゃないです。
そもそもヨガって古代インドで行われていた宗教的実践法ですよ。
心身の統一・訓練によって物質の束縛から自由になる事を目指します。
先輩みたいにピッタリウェアの女の子を見て汗の匂いに興奮するような
罰当たりな目的の為に行うものじゃないんですよ?」
「ま、まぁそれは大体は知ってたけどさ...。
物質の束縛から自由になる、か…。」
そこへでび子が無感情に声をあげる。
「もう大体答えに近付いたんじゃない?
頭でいくら考えたってダメでしょ。
精神・心、魂で捉えなさいって事でしょ。」
「頭を使うな、か...。よし、深夜子!!
ココでヨガを実践してくれ。
僕はただその汗の匂いだけを感じるようにするよ!!」
「え、えぇえ~!?……。」
深夜子が心底ドン引きしているのがわかった。
そりゃそうだ。こんな世界の存亡の危機にあってまで、
美少女の汗の匂いを真剣に感じたいとか言ってるヤツの事なんて、
軽蔑して当然だ。だけど僕はその先に真理がある気がした。
「え、と…。じゃあかなり本格的なのやりますけど、
臭いとか思わないで下さいよ?汗かけばそりゃ誰でも、
少しは臭くなったりするんですからね、私が臭いんじゃない、
いや臭くはなるんですけど、それは私のせいじゃないんですから。」
かなり照れながら深夜子は言った。
僕は「わかった」と言いながらも、これまでとは違う、
かなり本格的なヨガを行う深夜子に期待した。
彼女が実践したそれは踊りのようでもあり舞いのようでもあり、
宗教的な動きとも言え、しかしかなりの身体の限界を試すようだった。
「凄い…汗だくだな.。汗の匂いが今までとは段違いだ。」
しかし、でび子がそんな僕をたしなめる。
「アンタ、そんな汗の匂いに欲情していて良いの?
頭は使わないんじゃなかったかしら。」
そうだった。考えるな、感じろという事だったはずだ。
僕は深夜子のヨガを眺めながら、汗の匂いに集中した。
・・・・・・・・。
突然、頭の中にあらゆる情報が流れ込んで来た。
それは本当に衝撃的過ぎて言葉には出来ない体験だった。
頭の中を空っぽにして、無でただ感じたのだ。
あらゆる映像、概念、思考思想、歴史や真実と嘘。
あらゆるものが僕の目の前に映像として現れては消えて行く。
神秘体験だなんて陳腐な言葉では表せない。
記憶に残る事も無いそれらの映像は僕の頭の中の視界を通じて
永遠に近い時間の間ひたすらに流れ続けた。
何億という時間が経ったような気がした。
しかし体感としては一瞬だった。
僕は全てを理解したと感じていた。
「わかったよ。全てを記述した物語、今なら書けるよ。」
「アラ、本当かしら?勘違いだったら世界は元に戻らないわよ。」
「それじゃあ、全なる宇宙についてを記述しようじゃないか。
でび子、僕が書いた物語を世界に同期させてくれ。」
そう言って僕は一冊のノートを創造し、そこにある文字を書いた。
「コレで良い。さぁ、コレを世界に同期させてくれ。」
でび子はその物語を現実世界へと同期させた。
そして僕達は現実世界へと向かった。
もし同期が成功していなければ、ただ大洪水に荒れた世界のはずだ。
・・・・・・。
そこは、元通りの現実に戻っていた。
総てが元通り、何一つ変わってはいなかった。
「やっぱり…真理ってあんなにシンプルな事だったんだ。
・・・・アレ?真理って何だっけ?」
「ふふ、理解したものの、忘れるようになってるようね。
アンタの奥底に眠らされたのか、はたまたそういうものなのか。」
「とにかく、先輩!やりましたね、凄い事ですよ?
世界を元に戻しちゃうなんて…ヒーローですよね、救世主です!!」
深夜子が手放しに僕を誉めてくれた。先輩呼びがくすぐったい。
「あの、それで…あれだけ汗だくになったんだから、
もうヨガは良いですよね?さすがに何回も汗の匂いを嗅がせて、
先輩に汗臭い子って言うイメージが付くの嫌です。」
「え…マジか。まぁでも...そうだよな、わかった。もうヨガは良いよ。」
こうして聖書の大洪水の物語に上書きされた世界は再び、
元通りの現実世界へと戻された。
僕が得た真理はきっとこの世界の再生の為だけに一時的に与えられたもの。
人類にはまだ早い、いや少なくとも現実世界では必要の無いもの。
きっと僕達は今生きているこの概念を手放した時に初めて、
真理の核に触れて全く別の何かになれる。
だけどそれまでは俗っぽくこの世界を楽しめば良いだけだ。
僕は深夜子の服に残った汗の残り香を嗅ぎながら股間を膨らませていた。
煩悩により真理を得るみぎゃー




