第九話 月の環で小鷹は舞う(中)
今日も相棒は不機嫌面だ。
別に機嫌が悪くなくても、眉間に皺を寄せた表情、挑むようなつりあがった目。不機嫌面の出来上がり。それがデフォルトの青年が自身の相棒であることにナクル・リンデルはもうなんとも思わない。
「気にいらねえ」
特盛の牛丼を平らげ、同じように特盛のトマトサラダの皿を手に呟く相棒。飯が不味いことに文句を言っているのか、あるいはサラダが嫌いなのか、と勘繰ってしまうがそんなことは無い。
牛丼は脂身の少ないランプ肉を使い、濃厚なタレで煮込んだ肉だけをご飯の上に乗せ、さらに薄味のほんのり生姜の香るタレをかける無駄なまでの懲りようが特徴だ。相棒の向かいで鯖の味噌煮定食を食べているレクスが、空軍に入ってよかったことの筆頭にメシの旨さを挙げていたが、この牛丼はその象徴ともいえるような存在だ。
とは言うものの、相棒には関係ない。戦術魔法師カツキ・キリハラには好き嫌いは無い。雑食である。ケンカ屋とか呼ばれているくせに、身体作りにはバランスのいい食事が大切、なんて正論を吐くのだから、腐っても有名企業の御曹司である。
そんなカツキがイライラしていることは、最近では一つしかない。
「珍しいね。お前が他人のためにイライラしているのって」
ナクルが声をかけると、カツキは舌打ちして睨みつけてきた。知っている。これは照れ隠しだ。
この相棒が何かにご立腹なのは毎度のことだ。同期の誰々が気に食わない、教官のあの言い草が気に食わない、商業区画の今日のメシが不味い、などなど挙げればきりが無い。それでも、最近ではずいぶん大人しくなった。教官達の絶え間ない薫陶というにはいささか強烈過ぎる指導と、訓練小隊長の恐怖政治の賜物だろう。
「ん?カツキなんかあったの?」
しまった。レクスがいたのを忘れていた。いや、もう一人いたのだが、豚生姜焼き定食に夢中で舌鼓を打っていて会話を気にしていないようだから、どうでもいいか。
どうも相棒を弄っていると面白くなってくるから、ついつい止まらなくなってしまうのだ。
もう一度舌打ちしてナクルを睨むカツキ。それに関しては申し訳ないと丸眼鏡の奥で目礼するナクル。
そんな二人をレクスは黙って見ている。体格は中くらい。要所要所は鍛えられているが大柄なカツキと比べればなんとも貧弱。身なりがきちんとしていて、軍人には見えない風貌。服装を変えればいいとこのお坊ちゃんのような印象。
そんなレクスが見るからに不機嫌なカツキに敢えて話しかけるのは、彼が空気を読めないからか、はたまた真剣にカツキのことを考えているのか、どちらにしても正気の沙汰とも思えない。ただ、善意だけは感じられる。
「うっせえな。関係ねえだろ」
案の定、気が触ったらしい。だが、カツキのその対応は迂闊としか言いようが無い。レクスの隣に座って幸せそうに夕食を摂っていた黒髪の悪魔を召喚する呪文でしかないからだ。
「キリハラ」
白皙に浮かんでいたのは、冷気のように噴き出す剥き出しの殺意。毎度のことながら、食事中はとても可愛らしいのに非常に残念だ。
「レクスはあなたのことを心配して、わざわざ声をかけてあげたのよ。それなのに無碍にするというのかしら?あなたにそんな価値あるの?」
どうして一瞬でそこまでキレられるのか不思議で仕方ないが、これがエリナ・フルセクターの仕様だ。頭脳明晰、魔法行使、格闘技で悉く優秀な成績を修める同期二位の逸材ながら、その能力を偏った方向にしか用いないため残念極まりない。
その顕現が今。レクスを蔑ろにしたカツキを殲滅することを決めた姿だ。
だが、ご機嫌斜めのカツキにはその程度では効かない。
「なんだと?」
まずいな、さすがに止めなければならない。
「まあ、……」
「待ってよ二人とも。僕が余計なことを言ったみたいだからさ」
二人を遮るようにレクスが声を張り上げた。
途端にエリナが大人しくなったのは相変わらずだったが、カツキはそう簡単に収まりはしない。
「御主人様にケツ振っている犬みたいだな」
先ほどからカツキの拙速が止まらない。エリナを貶めたところで彼女にはなんの痛手にもならない。しかし、その御主人様はいたくご立腹になる、こともある。
レクスの目が細められ、カツキに冷めた視線を投げている。
「カツキ。無駄なことを言うな。レクスの心証を悪くするぞ」
ナクルは食後の読書を中断し、思わず相棒のカツキを宥めた。いい加減事態を収拾しないと拙いと思ったのだ。エリナ自身は罵倒されてもなんとも思わないだろうが、お坊ちゃん属性のレクスには悪い印象しか残らない。食後のゆったりしたい時間を悪戯にこじらされても困るナクルは、仲裁することにした。
それが効を奏したのか、カツキは気まずそうに目を逸らし、そして空気が読めるんだか読めないんだかよく分からないレクスは、ナクルの相棒が苛立っている原因に思い至ったらしく穏やかな表情に戻ってくれた。
だが、それ以上は出来れば踏み込んで欲しくないのだが……。
「もしかして、展示飛行のこと?」
やっぱり空気が読めていない。カツキはより一層口を真一文字にして頑なに開こうとはしない。
仕方なくナクルが答えた。
「まあね」
途端、カツキがナクルを睨む。ナクルはお返しとばかりに睨み返す。まさか、展示飛行小隊だけでなく自分達の小隊での雰囲気までもぶち壊す気か?という気持ちを込めたが、どうやら通じたらしい。相棒は大人しくなった。
「ごめんね」
だが、レクスはとても悲しそうな表情を浮かべていた。
「僕があんなことしたせいで……」
「いや……」
「お前は悪くない」
「レクスは悪くない」
宥めようとしたナクルの隣と正面で同時に大声が発せられた。仲間想いの相棒と、レクス想いの同僚の綺麗に揃った反応にナクルは内心ずっこけた。お前ら、さっきまで喧嘩してただろ。
「なに?あなた程度の人間がレクスの何が分かるの?」
「はあ?フツーに仲間のこと庇って何が悪いんだよ?」
「そんな必要ないわ。マリのところに今すぐすっ飛んで行きたいくせに」
「それとこれとは別の話だろ?」
いや、何も変わってなかった。面白くて思わず傍観しそうになってしまったナクル。しかも、カツキ。否定しないのか。
「ごめん。ありがとうね、カツキ」
それでもレクスが声をかけるとカツキはぼりぼりと右手で頭を掻き、不貞腐れたような顔をする。照れている。
「ふん。お礼を言われたくらいで調子に乗らないことね」
「うるさいよ、エリナ」
あくまでも挑発を続けるエリナにレクスがいよいよキレた。ぴしゃりと核心を突く一言。
鳩が豆鉄砲食らったかのように目を丸くするエリナ。相当ショックだったらしい。レクスはエリナに対しては遠慮が無い。言いたいことははっきり言う。
エリナが動揺している。物凄く動揺している。彼女の脳内はどうなっているのか、ナクルは気になって仕方が無かった。というか見ていて飽きない。笑いを噛み殺すのに必死だった。
そんなエリナの頭をぽんぽんとレクスが軽く掌を置くように叩く。まるで子供をあやすように。途端、エリナは強張っていた表情を緩め、今度こそ大人しくなった。いや、緩みすぎて蕩けそうな勢いだ。
さすがだレクス。お前ほどその女を理解している男はいない。いや存在し得ない。こういう時だけは普段子供っぽいレクスが、偉大な存在に見える。
「それで、最近どんな調子なの?」
レクスの問いかけに呆けていたカツキがはっとする。どうやら、レクスとエリナの雰囲気にアテられていたらしい。だがなあカツキ。そういう初心な反応は、意外とお前とマリだけだぞ、と心中でツッコミまくりのナクルである。
「ああ、その、なんだ……、マリも最近元気が無くてな」
「そうだね。訓練中もなんだか悩んでるみたいだし。展示飛行小隊はうまくいってないの?」
「ああ。集合時間に遅れる奴もいるしな。まあ、これは三つの小隊から寄せ集めてるから仕方ないといえば仕方ないんだが」
「つっても、マリだってシュタンジットと一緒に調整して決めてる時間だろ?それに間に合わないってどういうことだよ。だいたい、遅れたにしたって態度ってものがあるだろ?」
ナクルの諦め混じりの言葉にカツキは激しく噛み付く。
「だいたいあいつら、ミスをすぐ人の所為にしやがる。レイだって一生懸命慣れないナビゲートしてるんだぜ。それなりには出来てるはずだ」
「それなりだがな……」
現代の航空戦術で密接した編隊という概念は無い。二機編隊を組んで離陸時は密接していても、上空ではお互いをレーダーでカバーするように一、二マイルほどの間を空けて編隊を組んでいる。視程外を攻撃できるミサイルと同等の範囲を探るレーダーがあるからだ。むしろ密接しているとまとめて撃墜されかねない。さらに密接して編隊を組むと、お互いのスピードを合わせるために微妙なスロットル操作が必要とされ、燃費――搭乗員の精神的負担が増えて効率が悪い。
だが展示飛行は観客のために見せる、いわばショーだ。搭乗員の練度を見せる意味でも、観客に伝える分かりやすさでも密接した編隊飛行は重要だ。
イーグレットの展示飛行は四機による編隊飛行だ。その四機が隊列を崩さずに方向転換したり、上昇下降するためにはナビゲートをする者の技量が問われる。同期の中では第三小隊はハヤトの指揮をリデルが細かな指示に変えることでその役割を担い、第一小隊はシュタンジットが完璧なナビゲーションで小隊を自在に操る。
「レイにはまだ経験が足りないよね」
「ああ」
レクスに同意するナクル。
「だけどそれで一方的にレイの所為にするのはどうなんだよ。サガラの野郎がカッコつけて欲張った所為でぐちゃぐちゃになった。なのに一言の詫びも無え」
ヒートアップしてきたカツキの声が大きくなる。
「ふうん」
そんなカツキにとって、レクスの反応は充分に神経を逆撫でするものだった。
「ああ?」
「ねえ?どうして、そんなことするのかな?」
何を当たり前のことを、というように毒気を抜かれたカツキが呆れたように言う。
「マリが小隊長をやってるのが気に食わないんだろ」
「そんなに大事なこと?」
「そりゃそうだ」
カツキの一言にはナクルも同意見だ。だが、レクスは時々人が予想もしないことに気付く。それが気になってナクルは口を挟まなかった。
「どうして?」
「どうしてって……」
カツキが言葉に詰まる。レクスは組織という人間の集合体に関して疎いところがある。カツキがそれを納得させることができるだろうか。
「……俺達もさ、この小隊でもう一年以上やってきてるだろ?」
「うん、そうだね」
「それでさ、自分達の小隊長は信頼しているわけだ。こいつの言うことは絶対とまでは言わないけど、めっちゃ重要だと思ってる」
「うん。ハヤトはいい隊長だよ」
「そんな自分達の隊長が選ばれなくて、訓練小隊長でもない奴が臨時の小隊長をやってるなんて気分よくないだろ?」
「気分なんて気にするものなの?」
彼ら四人が座るテーブルに疑問符が満ち溢れた。食事をしていたものの話を聞いていたのか、エリナまで怪訝な顔付きでレクスを見つめている。レクスの言っていることが理解出来ない。誰か言語化してくれ。切にナクルは願った。
そんな三人を尻目にレクスは少し笑みを浮かべながら言った。
「僕は皆と一緒にやれてよかったって思ってるよ」
いきなりの直球。それまで変化球だと思っていたのに、実はストレートでした、見たいな驚き。いきなりの変わりように、大した急速でもないのにつんのめって見逃してしまうような。
そして、じわりじわりと襲ってくる、それは。
「な、ななな、何言ってんだ」
カツキが照れてぶっきらぼうに返すのが精一杯で、ナクルもそれに同感だ。面と向かって言われるのは、恥ずかしすぎる。エリナも顔を俯けて耳まで赤くなっている。
「唐突だね?」
「そうかな?でも、いつもそう思ってるよ。この小隊だから飛べる。この小隊だから魔法師でいられる。そう思うんだ」
よくもまあ恥ずかしげもなく。ナクルには決して真似出来ない。
「だから、僕は第三小隊には恥をかかせちゃいけないと思っているんだ」
「あ?」
「え?」
「へえ……」
三者三様の反応。ナクルだけはレクスの言いたいことが分かった気がした。だから、悪戯心が頭を擡げてくる。
「いまだにトリガー引けないのに?」
レクスは動じなかった。むしろ、彼の隣のエリナが危険なほどの視線で自分を見つめるのを認識して命の危険を感じたが、ナクルはレクスの答えを聞きたかった。
「そうだね。それで皆には迷惑をかけてる。ロックオンしてるのにリリースボタン押さないアホだと思ってる。それでも、そんな手を使ってでも相手の動揺が誘えることに気付いてから、小隊の勝ち星に貢献したいと思うようになった。マリもハヤトもそういう僕のことを理解してくれてる。ありがたいよね」
この男は凄い。少し頬を赤らめていることから自分でも照れを隠し切れていないのだろう。それでも、自分の感謝をまっすぐ言葉に出来るのは、経験のせいか、それとも生まれ持ったものか。
ナクルは内心、素直にそう思っていた。……のだが。
「えっと……」
急に言葉に詰まったレクスが、それまでしかと前を見つめていた目をきょろきょろさせる。何を言い出すのかと思わず三人は身を乗り出す。
だが、返ってきてのは。
「なんだっけ?」
食堂の一角でガタタッと重なって響く椅子の音。何事かと周囲の視線が集まる中、そこにいたのはボケッと天井を見つめる一人と、脱力のあまりずり落ちそうになった三人の訓練生が慌てて椅子を戻している姿だった。
ああ、また第三小隊か。相変わらず騒々しいな。という呆れた空気が食堂を支配する。
そんな空気を、敢えてなのか、天然なのか無視してレクスは口を開いた。
「僕なら、皆に恥をかかせたくないな」
腑に落ちた。ナクルはそう感じた。展示飛行小隊は臨時だが、いずれも自分達の訓練小隊を代表してきている訓練生だ。それがもしも大衆の面前で何か問題を起こしたり、無様な展示をしてしまったら、それは決して彼ら個人の問題で終わることはない。
レクスはいつの間にか、組織についてそういう考え方が出来るようになったらしい。そして、彼の凄いところはその言葉に展示飛行小隊の不満組を悪く言うニュアンスがないことだろう。
「だからね、……」
レクスがなおも言い募ろうとしたのをナクルは遮ろうとした。
「いや、いい」
遮ったのはカツキだった。見るとなんだかすっきりした表情を浮かべている。そこに苛立ちは感じられない。そして、すっくと立ち上がった。
「悪いな、レクス」
素直に礼を言えないのはカツキの仕様だ。
「どういたしまして」
こういうときだけ無駄に聡いのはレクス。
「んじゃ、またあとでな」
立ち去るカツキを追いかけてナクルも立ち上がる。
ふと気付いたことがあったナクル。非常にどうでもいいことなのだが、先ほどから彼は、幾度となく言葉を遮られていた気がするのだ。
「ま、いいか」
だが、それが大勢に影響を与えないのならば、全く気にしないのがナクル・リンデルだった。
ふと、なんとなくどうしようもなくなって、胸に吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出してしまった。
「え?」
「なんなんですか?」
「おお、ついにユリも恋煩いか?」
最初に気付いたニカースが声を上げ、シルヴァが鬱陶しそうに眉を顰め、そして説明を続けていたアイザックが愉快そうに冷やかす。続いて、他の第一小隊メンバーがどうしたのかと、溜息の主たるユリスタン・シュタンジットに目を向ける。
それで自分がアイザック・ジュピタスのブリーフィングを邪魔してしまったことに気付き、小さく手を振った。
「すまない、アイザック。続けてくれ」
ブリーフィングと言っても正式なものではない。現状、第一小隊は先日の私闘騒ぎで七日間の搭乗停止処分中であり、実質一ヶ月にも及ぶ自重のうえ奉仕活動が義務付けられている。アイザックがしているのは、その間の日程と活動内容の説明であり、場所も演習前に利用するブリーフィングルームではなく夕方の利用者の減った食堂のテーブル上だ。
展示飛行小隊の手伝いをするという奉仕活動にユリスタンは従事しているため、アイザックが他の隊員を統率しながら、この機会に小隊長業務の勉強もしているのだ。
ユリスタンをしばらくじっと見つめてから、アイザックは口調を改めた。
「長くなり過ぎたな。休憩だ。喜べ、お前ら。ユリスタンの溜息のおかげだぞ。奴が漏らした幸せを今のうちに奪い取っておけ。十分後再開。解散」
笑い声がテーブルを覆い、三々五々バラバラの行動を開始する。
それを見送ってから、アイザックはユリスタンのもとへと歩み寄って来た。
「マリちゃんのことか?」
「展示飛行小隊のことだ」
「同じことだろ?」
ユリスタンの訂正に呆れ顔のアイザック。確かに展示飛行小隊の要はマリ・コルリーだ。だから同じと言えば同じだが、アイザックのニュアンスは間違っているとユリスタンは思っていた。
「まあ、いい……。そんなに不味い状況か?」
「ああ」
ユリスタンが弱音を吐いたことにアイザックは目を見開く。
「そんなに驚くことか?」
「まあな。お前のへこんでるところを見るのはさぞかし面白いだろうと思っていたんだが、予想外につまらなかった」
「それは誉めているのか?貶しているのか?」
「んー?多分、安心してるんだな」
「よく分からん」
「俺も分からん」
しばらく二人は目線を合わせ、そして笑い合う。そこには確かに命を預けるに値する相棒がいた。
ひとしきり笑い合うと、アイザックはユリスタンの手元を覗き込んだ。そこにユリスタンが書き込んだ展示飛行小隊の演習ノートがあった。几帳面な彼らしく、小隊の演習内容、問題点、日程、必要書類の提出目安などが詳細に書かれている。
それを読んでいたアイザックが感嘆の声を上げた。
「へえ、キリハラがねえ」
ちなみに流石に相棒やってるだけあって、アイザックはユリスタンのノートは走り書きも含めすらすら読むことが出来る。
「ああ。武闘派がいまや調停役に転職しようとしているが……」
最近の展示飛行小隊の唯一の希望が、カツキ・キリハラによる第二小隊のレオノフ・キュレイ組と第八小隊のサガラ・リヒター組に対するアプローチだろうか。今までになく積極的に声をかけ、演習中も機を降りてからも色々と苦心しているのが分かる。この二週間で本当に変わったと思う。
「特にレオノフはマリちゃんに対して相当に偏見を持ってるみたいだな」
第二小隊カルザイ・レオノフ。戦闘機動技能で同期九位。だが、たかが第九位と侮ってはいけない。彼は第一小隊に唯一汚点を着けた男なのだから。
第一小隊は個々人の高い技能に比較的高度な連繋を絡めることで模擬対戦演習では不敗を誇り、特技集団第三小隊すら撃破しているのだが、唯一第二小隊には引き分けた。レオノフの高い個人技能に他の全機が正確にフォローし合うことで互いを完全に守る。その戦術ゆえに第一小隊との対戦では互いに一機も撃墜できずに終わってしまったのだ。
その中心たるレオノフは、小柄の屈託無く笑う小麦色の少年というイメージだったのだが、現状ではマリに対して度々突っ掛かっては彼女を困惑させている。
「そして、サガラはマリちゃんにちょっかい出している……と。よくやるわ。ナイト二人に番犬までいるのに。やっぱりマリちゃん可愛いからなあ」
可愛いか?あんなに無茶苦茶な奴が?というユリスタンの感想とは別に聞き捨てなら無い言葉があった。
「待て。二人のナイトと番犬って誰だ?」
「そりゃ、キリハラとレイちゃん、もう一人は言わずもがな」
「私は違うぞ!」
食堂に響く怒声。数少ないが、何事かという視線が突き刺さってくる。そりゃそうだ。戦術科二年の首席が大声で叫び始めたのだから。針の筵だ。
そして目の前では、アイザックがなんとも言いがたい表情で黙ってユリスタンを見つめている。そして、溜息ひとつ。
「なんだ?」
「いや、もういい。ま、安心しろ。このサガラはキリハラとは違う。女を支配したいタイプの野郎だ。本来ならフルセクターみたいなタイプに向いているんだろうが……」
「フルセクターが?」
反応したユリスタンにアイザックは今度は呆れた。
「お前まだあの女のことを気にしてたのか?」
「どういう意味だ?」
「フルセクターを女として意識してたんだろ?」
思えば初めてアイザックに直接言われた気がした。
だが言われて、それは違う気がした。
「違う」
「何?」
「違う。そうじゃない」
アイザックは一瞬うんざりしかけたが、何か、まるで我慢を搾り出すかのように肩に力を入れて問いかける。
「じゃあ、お前はあの女をどう思ってるんだ?」
どう思ってる?改めて真正面から問われて思い出すのは、彼女のなんだろうか。青々と輝く髪だろうか、透き通った瞳だろうか、すらりとした肢体か、それとも……。
「魔法だ」
「魔法?」
「ああ。彼女の魔法は洗練されていて静謐で無駄が無い。そんな美しい魔法の持ち主が落ち零れとコクピットになるなんて信じられなかった」
「まあな。次席で訓練小隊長にならなかったのは快挙らしいからな」
「あれは努力に努力を積み重ねた素晴らしいものだ。そうは思わないか?」
いつの間にかユリスタンの言葉には熱い物が混ざり始めていて、アイザックがいささか引き気味なのに気付いていない。
「反復して、重ねて、鍛えて、一切の無駄を省き魔法行使のために特化した言語。理想的な魔法だ」
「あーーー。お前ら魔法師の言うことは時々わかんねえんだがな、ひとつだけ言わせて貰おう」
「なんだ?」
「それはお前の魔法と同じだよな?」
言われて気付いた。確かにユリスタンもそこを目指している以上、近いタイプの事象変換言語を使う。
頷くユリスタンを見て、アイザックも頷く。
「お前は自分で目指してその位置まで来た。だけどフルセクターも同じなのか?」
「はあ?」
「フルセクターは孤児だろ?施設育ちでそこで高等魔法を教わった。そして、大事故で二年進級が遅れている」
知っている。別に機密ではないし、彼女自身も肯定している。
「フルセクターは自分の魔法が好きだと思うか?」
「だからキャロイだと?」
「ああ。俺も、あいつの魔法を聞いて、ワーズってあんなに心が躍るものだって始めて知ったさ。そして、明らかに発現する効果がワンランク上だ」
あの躍動的で豊潤な生命の迸りのような唄を魔法と呼べるのかとユリスタンは思っていたが、間違いなくレベル5だと教官達は判定した。戦闘機動では、イーグレットが大気の存在を感じさせることなく自由自在に宙を駆け巡った。
その音と鼓動は不思議と不快ではなかった。
「あれは嫌いではない」
ユリスタンの呟きに、アイザックは安心したように笑みを浮かべた。
「脇道に逸れたな。本題に戻ろう。やっぱり最大の問題はマリちゃんかな?」
「ああ、そうだ」
切替が早いのは、前席後席共通の美徳だった。
展示飛行小隊の臨時とはいえ小隊長となったマリ・コルリー。いつも陽気で前向きだった幼馴染が、最近はあまりにも元気が無かった。
「隊を掌握できてない、か」
「ああ。いつも通りの彼女なら問題が無かったはずなんだ」
最初から躓いていた。最初の会合、フェルクライン訓練総隊長から説明を受けたあとで行なわれたそれは完全に失敗だった。陽気さを振り撒いて友好的な空気を演出しようとしたが、キリハラとソルビスの二人と他の小隊から来た四人の間にある雰囲気は既に最悪だった。リンデルはそれをどうにかしようという気配すら見せない。いきなりの孤立無援。
ユリスタンが首席として小隊長の補佐に付いていることを示さなければ、ブリーフィングの体裁さえ繕うことが出来なかった。
以来、集合時間に遅れる、編隊飛行の息が合わない、お互いにいがみ合う。マリはそれを見ておろおろするばかり。ユリスタンが叱責してようやくなんとか収まる。
最近になってキリハラが態度を軟化させ、リンデルが不器用ながらそれを助けているが、これでは間に合いはしない。本番まであと二週間。実機演習が出来るのも、あと三回。天候によってはそれすら怪しい。
出来るはずなんだ。このメンバーなら、絶対。なのに出来ない。何故だ。
「へえ。コルリーは随分大人しくなっているんですね。いい気味です」
唐突に割り込んで来たのは、シルヴァ・イラング・リーヴハン。銀色の髪を弄りながら、ほくそ笑んでいる。
「なんだ?まだ根に持ってるのか、シルヴァ」
「当たり前です。カルランザならまだしも、キリハラに撃墜されたのは完全にあの女の仕業ですからね」
第一小隊と第三小隊の最初の対戦のことだ。レクス・キャロイは撃ってこないと踏んだ第一小隊は、カルランザ機とコルリー機の頭を抑え、キリハラ撃墜を最優先した。それを担ったのは、シルヴァとアイザックだったのだが、コルリー機がニカース機を引き連れたまま接触すれすれの割り込みをしてきたため、キリハラに対するマークが甘くなった瞬間、シルヴァ機は撃墜された。
「あの瞬間にコブラ決めて、シルヴァ君達の後ろを取ったキリハラ君は見事だったよね。思わず見惚れちゃったよ」
ニカース・リロイがにこにこ笑っている。
しかし、結局のところ対戦はアイザックがキリハラを仕留め、コルリー、カルランザと撃墜したところで時間切れとなった。コブラは瞬時に機首を持ち上げ急減速する戦闘機動だが、直後に機体速度を大きく失うことから現実の戦闘では意味をなさないと言われており、実際キリハラ機はあっさり撃墜された。
それでもシルヴァにとっては余程の汚点だったらしい。
「ユリスタン。私も見学に行ってもよろしいですか?」
「はあ?」
当惑する面々をよそに、シルヴァは妖艶とも言える背筋が冷たくなるような笑みを浮かべていた。貴公子然とした彼だからこそ、その醸し出す色気は半端ない。
「だって、傍若無人が服を着て歩いているような女豹が、まさに借りてきた猫になっているのでしょ?是非この目で見て、嘲笑ってやりたいですね」
数瞬呆気に取られていたユリスタンだったが、何故か知らないが目の前の愉悦に満ち満ちた笑みを見ていて、段々イライラが募ってきた。
少なくともマリは努力している。何度も彼女が涙をこぼさないように我慢しているのを見てきたのだ。それを悪し様に言われる筋合いは無い。外野からあれこれ言われるのは気に食わない。
そもそも、貴様らがマリの何を知っている?
「悪いが、それはやめておく」
にやりと笑うシルヴァ。
「そうですか。それは残念ですが、ユリスタンがそうおっしゃるなら仕方ありませんね」
「そうだね。ユリスタン君がんばってね」
それから次々と仲間から応援されるユリスタン。
そして、止めのアイザックの言葉。
「ユリ。キリハラごときに負けるんじゃねえぞ」
意味が分からず首を傾げたユリスタンが、かつがれたうえにおちょくられていたことに気付いたのは、休憩時間を過ぎてしまったミーティングが再開されてからだった。
真っ黒な綿のような雲が頭上を埋め尽くし、荒々しい風とともに大粒の雨が壁や屋根を容赦なく叩く音が、煌々と明るい格納庫の中で轟音となって鳴り続いている。
それだけで気が滅入りそうだ。
あと三回しか無かった残りの演習日数が、二回になってしまった。この雨では三年度課程以下の訓練生に離陸許可は下りない。本来なら大きな格納庫だが、全ての練習機を納めたため、オレンジと白に塗装された翼がとても窮屈そうに身を寄せ合っている。
思わずこみ上げてくるものがあったが、必死に頬を強張らせて堪える。
「以上だ。コルリー小隊長、何かあるか?」
格納庫の隅のブリーフィングスペースに集合していた展示飛行小隊の面々の前でユリスタンがマリに声をかけた。
彼女は笑みを浮かべる。
「ありがとう」
努めて明るい声を出そうと意識していたが、失敗したことには気付いていない。
立ち上がり、全員の前に立つマリ。演習が出来ない以上、解散を宣言しなければいけない。
だけど、いいのだろうか。
第三小隊から来た面々が不満そうな目を向けてくる。
ナクルでさえ、いつもどおりの無表情に少し強張りが感じられる。
レイは最近笑顔を見せなくなった。いや、二人のときは見せてくれるのだが、このメンバーで集まると途端に無表情になる。可愛らしいくりくりした目が台無しだ。
カツキはいつもなら目を逸らしているのに、今は彼女をまっすぐ見つめている。目付きの悪さはいつも通りなのに、とても優しい。カツキは諦めていないんだな。マリはふと思った。まだ何かやれるはずだと思ってる。
だけど、何をどうしたらいいのか彼女には分からない。
目を転じると、第二小隊と第八小隊から集まった四人。三人はずっと目を逸らしているし、一人はニヤニヤと彼女を見ている。
目を逸らしている一人、カイゼル・レオノフは終始イライラを隠そうとしない。分かっている。この小隊では彼が要求されているのは、チームの先頭をひた走ることじゃない。第二小隊での彼は二番機であっても、先頭をひた走り、中間達が彼を支援する。
第二小隊長はマリに言った。
「カイゼルは我儘な奴だが、いい経験になると思う。よろしく頼む」
ユリスタンのように完璧じゃなく、ハヤトのように硬軟使い分けるのでもなく、まるでお父さんのように優しい小隊長の下で飛んでいたんだから、こんな私が小隊長でごめんなさい。
相棒のシエンタもきっとムカついてるよね。
ニヤニヤ笑っているリョウセイ・サガラ。背が高く顔もいい彼にとって、女なんて所詮自分を飾る宝石みたいなものなのだろう。だからマリが屈服するのを待っている。マリを支配することを狙っている。そういう男だ。
ごめんなさい。それは絶対ムリ。そんなことするくらいなら、この展示飛行の話も全部お終いにした方が百倍もマシ。
ハインリヒなんか、全く興味も無いんだよね。
僅か数秒のことだったが、マリはその場の全員の顔を見渡し、そしておもむろに口を開いた。
「あ、すまない」
「はい!?」
急に声をかけられてマリの声が裏返る。だが、声をかけたのがユリスタンだったことで全員の視線が集まる。彼が、マリの、小隊長の発言を遮るのは珍しかったからだ。
「な、なに?」
「解散の前に質問したいことがあったんだ。いいか?」
淡々としたユリスタンの問いかけに、マリはカクカクと頷く。
すまない、と一言詫びてから、軽い咳払いをしてから、静かな視線を全員に向け、そして最後にマリを見る。
「小隊長は何がしたいんだ?」
は?
ぽかんとしたマリ。特になんの感情も示さないユリスタンの顔をじっと見つめてしまった。
「この際だから、小隊長の意見を聞きたいと思って」
凄い真面目な顔だ。見慣れない者には分からないが、付き合いの長い彼女だから分かった。心の底から彼女の希望を聞きだそうとしている。
だが、答えが浮かばない。いや浮かんでいる。完璧な展示を披露したい。誰にも恥ずかしくない展示にしたい。
だけど何か違う。ユリスタンが訊いているのはそういうことじゃない気がする。
「改めて聞くが、マリはなにがしたい?」
懐かしい響きだった。ずっと小さかった頃、初対面のマリにユリスタンが最初にかけた問い。思えば、あの一言がいけなかった。初めて出逢った知らない男の子に気が引けていた彼女だったが、その一言で勘違いをしてしまったのだから。
この子はわたしの言うことを何でも聞いてくれる!
以来、マリの自由奔放とユリスタンの苦難が始まった。
そして、このときも……。
ユリはわたしの言うことを何でも聞いてくれる!
思い切り勢いをつけて、小隊メンバーを振り返るマリ。その顔には満面の笑み。
カルザイ達が顔に疑問符を浮かべたのに対し、第三小隊の面々がぎょっとしたのは仕方の無いことだ。こんな笑顔のあとは、ろくなことが起きない。
そして、その認識は正しかった。
「わたし、クルビットがしたい!」
唐突過ぎる提案に、全員唖然とした。
いち早く反応したのはカルザイだった。座っていた椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がる。
「ふざけるな、バカ女。こんな状態でどうしてそんなふざけたことが言えるんだ、バカ」
クルビットは高度な戦闘機動だ。それを展示飛行に組み込もうという提案は、小隊のまとまりさえ出来ていない現状では常軌を逸しているとしか言いようが無い。
だが、
「出来るよ。みんななら」
断定。マリに迷いは無い」
「な……」
「カルザイは瞬間的な加速が凄い上手。シエンタだってそれを上手くサポートしている。それだけのパワーコントロール力がある」
いきなりマリが言い放った。それはカルザイとシエンタの二人が確かに自信に思っていたところだった。
「リョウセイは降下には難点があるかな。でも、急旋回を鮮やかに決められる。ハインリヒは周りを見て正確なタイミングを教えてるよね。それに二人とも凄い安定している」
呆気に取られたリョウセイだったが、おもむろに立ち上がると片頬に笑みを浮かべる。
「お願いの仕方ってあると思わないか?君は俺達に命令出来る立場じゃないよね?」
対し、マリは皮肉にも同様に片頬を持ち上げて笑みを浮かべる。
「何言ってるの?お願いなんてしてないよ。わたしが小隊長なんだから、これは命令」
強烈な挑発。シエンタとさっきまで無関心だったハインリヒまで立ち上がった。
「おい、マリ」
ユリスタンが思わずといった様子で声をかけたが、振り返ったマリの笑顔を見て、何故か押し黙り、しどろもどろに言った。
「ああ、その……、なんだ……。怪我しないようにな。それと魔法は使うなよ」
そう言って背を向け駆け出すユリスタン。マリには分かっている。あれは逃げ出したんじゃなくて、この格納庫の主たる整備小隊に頭を下げに行ったのだ。
リョウセイたちが、絶望に突き落とされたような顔をしてる。ユリスタンが声をかけたときに止めてくれると思ったのだろうが、アテが外れてしまった。そのうえ、魔法を除いた格闘技で冷徹な殺人兵器と並んで上位に食い込む凄腕の女豹を相手にすることは危険だ。
「さっすがあっ!理解あるぅ!」
可愛らしい声でとんでもないことを言ったのはレイだった。頭のネジが一本すっ飛んで行ったかのようなとち狂った嬌声に、マリは思わず笑みを深くした。
「どうしたの?力ずくで言うことを聞かせるのが望みじゃないの?」
「てめえ」
口汚く罵るカルザイだが、いきなりは飛び掛ってこない。シエンタに目配せをして、二人で左右からじりじり近寄って来る。
「お、なんだケンカか?」
「おいおい。ありゃマリちゃんじゃないか」
「あ、ほんとだマリちゃんだ」
「マリちゃんに男二人がかり?無いわぁ」
「マリちゃんに加勢するか?」
「いやでも、軍曹が……」
「取り敢えずはマリちゃんの応援だな」
いつの間にか騒動を嗅ぎ付けた整備員が彼らを囲んで野次馬と化し、しかも一方的にマリを応援し始める。
「なんだこれ、完全アウェーかよ」
シエンタが呟き、カルザイが舌打ちする。
「気にいらねえな。取り敢えずてめえは泣かす」
「御託はいいから、早くかかって来たら?」
マリはすっと腰を落とし、軽く曲げた両肘を持ち上げて、手は握り込まない。
それを見てシエンタが回り込むように右に走る。ちらっとマリの視線がそちらに動いた瞬間、カルザイが突っ込んだ。
繰り出される左拳。
マリは僅かに右に身体を流しながら左手で受け流し、右ひじでカルザイの右腕を固定。右足で素早く足元を払う。惚れ惚れするほどに美しい動きにカルザイの身体が宙に浮く。
取った。
と、思った瞬間、カルザイがにやりと笑った。
とっさにカルザイの身体を突き放すように床に叩きつけ、距離を取る。
そこにシエンタが迫っていた。
シエンタは跳ね除けることが出来る。だが、背後ではカルザイが起き上がっている。
黒い影が過ぎった。
鈍い音とともにシエンタが派手に横に吹き飛ぶ。
「おお!いいぞ!」
「よくやった!男を見せたな!」
整備小隊の歓声を背に現れたのはカツキだった。
「お前ら恥ずかしくねえのかよ。それでも、小隊を代表して来てるんだろ?」
「うるせな、ケンカ屋。ボンボンはボンボンらしく、すっこんでろ」
カルザイが怒鳴り返し、カツキが明らかに機嫌を悪化させた。
「ああ?人が下手に出てりゃ、調子に乗りやがって」
どうやら最近の彼は我慢していたらしい。
「ありがとう、でも……」
「マリ。気が変わった。冬休みの詫びのつもりだったんだけど、こいつらの腐った根性直すの手伝うわ」
「おアツいねえ、お二人さん」
「若いっていいねえ」
「二人はそんなんじゃありません!」
整備の野次にレイが反抗しているのが聞こえる気がするが、それよりも気になったのが、カツキが年末年始の休暇中のことを口にしたことだ。数日間とはいえ、一緒に過ごしたことを思い出してマリは笑った。
「お礼なら、あの時の奢りで充分だったんだけど」
「いや、足りねえな。それにシュタンジットにばかり、いいカッコされるのは気に食わねえ」
「ん?ユリ?」
よく分からないマリだったが、カルザイの動きを目で追っていた視界で、マリ達を応援しているレイの背後に大きな影が迫っているのに気付いた。
「よそ見している場合か?」
カルザイが殴りかかってきて、思わず受け止めてしまう。左手が痺れる。
それでも堪えてカルザイの脇腹に右膝蹴りを食らわせ、どけた彼女の目に飛び込んできたのは、背後に迫ったリョウセイが襲い掛かろうとしたときに、ひょいとレイを摘み上げるように確保して、つんのめったリョウセイの背中に蹴りを食らわせるナクルの姿だった。しかも左手にはいつも通り小説を持ったままだった。
思わぬ軽業の披露に整備の歓声が上がる。
「サガラ。さすがにこれは不味いだろ」
「お、お前……」
リョウセイの忌々しいという声を無視して、ナクルは突然飛び退いた。入れ替わりに出て来たのはハインリヒだった。そのまま、リョウセイに激突しそうだったところを、尻に一発蹴りを食らい床に転がった。
「マリやエリナみたいな猛獣ならともかく、こんなか弱い子に手を出すのは拙いだろ」
本を持ったままの左手でずれた眼鏡を直す、どこまでも無表情なナクル。
歓声が湧き起こり、レイだけ特別扱い?というマリの悲鳴は掻き消される。
「あ、ありがと……」
「ん、仲間だからな」
右手に持ったレイをそっと床に降ろし、ぽんぽんと頭を叩く。
「おい、リンデル」
「なんだ?」
「おまえもやる気か?」
リョウセイに睨まれてもナクルは淡々としている。
「俺もムカつくときはムカつく」
「なんだと?」
「自意識過剰な奴と女を食い物にする奴だ」
言いながら左手の本をレイに手渡し、トレードマークともいえる眼鏡も預ける。
おおおっ!明らかに本気の態度を見せるナクルに観客のテンションは盛り上がった。
「奇遇だ」
それまで黙っていたハインリヒが笑みを浮かべた。
「俺は偉そうな奴とムッツリが嫌いなんだ」
それを聞いてナクルはフンと鼻を鳴らした。
「ムッツリは誰にも迷惑をかけない。遥かにマシさ」
えええっ!?大真面目な返しに観客のブーイングが発生。
渦中のレイはぽかんとしていたが、おもむろに口を開いて、
「なんか、よく分かんないけど、ナクルって紳士だね?」
と、にっこり笑った。
おおおっ!観客のボルテージは最高潮。
この瞬間、ナクルは“ムッツリ紳士”の称号を得た。
不意に静まり返る観客。何事かと見回すとユリスタンが戻って来ていた。異様に張り詰めた空気を物ともせず、彼は淡々と話し始める。
「話はつけてきた。明日から環月祭終了まで本格納庫の清掃当番は貴様らだ」
おおおっ!見せ物で楽しませてくれるうえに、作業がひとつ減ると整備のテンションは嫌でも上がる。
カルザイ達がげんなりする一方、マリが上等っ!と声を上げる。
「ただし、さっきも言ったように魔法の使用は禁止。怪我になりそうな行為があれば即座に中止だ」
「おい、審判」
審判?審判って誰だ?という疑問をよそに、言った本人のナクルはユリスタンに向かって問いかけた。
「俺は目が悪いんだ。情報収集系の魔法を使っていいか?」
「コンタクトは?」
「そんなもの、この突発事態で持ってるわけがないだろ」
仕方ないとばかりにユリスタンは了承の意を、右手で挙げることで示した。
「それとシュタンジット」
「なんだ?まだあるのか?」
ナクルにいささか辟易してきた様子のユリスタン。
「あんたのせいで巻き込まれた。今度、メシ一回奢れ」
ユリスタンの顔が引き攣った。言われてみればそうだ。ユリスタンがけしかけたので、マリが元気になった。元気になってみれば、この乱闘騒ぎが勃発した。傍観者に徹したかったナクルだったが、レイまで巻き込まれたことに参戦せざるを得なくなった。
一瞬、ユリスタンはマリを見やる。
マリは謝意を込めて右目でウィンクする。
ユリスタンはうんざりしたように言い放った。
「分かった」
「じゃ、俺も」
いきなり手を挙げたのはカツキだった。ユリスタンは目を剥く。
非常に珍しい表情にマリは嬉しそうに笑う。
ナクルがないない、と顔の前で手を横に振る。
「あいつはマリと同罪だから気にしなくていいと思う」
「なんだと?」
「事実だろ?」
「相棒を裏切るのか?」
「もちろん」
「のおおおおおおおおおっ!」
好き勝手言い合う、ナクルとカツキ。
「ああもう!どうでもいいから、やるならさっさとやれ!」
恥も外聞もなくユリスタンが両手を振り回して喚いた。
「うん。ありがと」
嬉しくなったマリが自然に口から発した。
「みんな、愛してるよ」
途端、カツキとユリスタン、それにナクルまで面食らって目を丸くしている。
「じゃあ、やるか」
マリが仕切りなおすと、いち早く復帰したナクルが詠唱した。それを聞いてさすがのマリも驚き、相対していたリョウセイとハインリヒが息を呑んだ。
「赤外線探査魔法?」
「視力補正じゃないのかよ?」
「そっちだと速く動くとぶれるんだよ」
そう言って両目を閉じるナクル。おそらく彼の脳裏には赤外線で探知した光景が鮮明に浮かび上がっているんだろう。本当に隠された引き出しの多い奴だ。
だが、IRSTにも弱点はある。
「ふん、遠近感は掴みにくいはずさ」
カイゼルの一言にリョウセイが笑みを浮かべる。
「ま、そこは慣れだな」
なんてことないようにナクルが言い放つ。
「なんだかよく分かんないけど、みんな頑張れ!」
レイの応援が響き渡った瞬間、第三小隊三名の声が揃う。
おうっ!




