第9話 襲撃
サフィリア王宮での十日間は、思いがけず穏やかに過ぎていった。
アルトは「宮廷考古学院特別顧問アルト殿」という名目で王宮の客間に滞在し、表向きは古代アルカディアの文物の鑑定や助言を行う立場を与えられた。実際、ガレオが持ち帰った遺物の数々をアルトが鑑定すると、その正体や用途が次々と判明した。三百年前には日用品だったものが、今の時代には誰も使い方を知らない神秘の道具になっている。アルトにとっては不思議な感覚だった。
朝はリーシェリア王女との面談から始まった。
王女は毎朝アルトを別館の応接間に呼び、サフィリア王国の現状について語った。国の財政、隣国レイラントとの関係、海の魔物の被害状況、各地の村々の窮状。王女はそれらを驚くほど詳細に把握していた。
「殿下は、すべてをご自分で調べておられるのですか」
ある朝、アルトは思わず尋ねた。
王女は机に広げた帳簿から顔を上げた。
「兄は軍務に、父は外交に追われています。誰かが国の細部を見ていなければなりません」
「ご立派です」
「立派などではありません」
王女は薄く笑った。
「私はただ、怖いだけです。何も知らないまま国が滅びていくのが」
アルトはその言葉に、リーシェ姫の面影を見た。けれどすぐに打ち消した。
この方はリーシェリア様だ。リーシェ姫ではない。
アルトは毎日、その確認を自分の中で繰り返していた。
ある朝、面談の終わり際、王女がふと書類から目を上げた。
「アルト卿。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「何なりと」
王女は窓の外、王都の街並みに目を遣った。秋の朝の光が王女の淡い金の髪をわずかに透かしていた。
「あなたは、いずれお国へお戻りになるおつもりですか」
アルトはすぐには答えられなかった。
俺の国は、もうない。三百年前に空から落ちて、今は海の底に半ば沈んだ廃墟があるだけだ。戻る、という言葉は本来、自分には当てはまらない。
けれど、王女がお聞きになりたいのは、おそらくそのことではない。
俺はいつまで、サフィリアに、この方のお側にいるのか。お聞きになりたいのはそのことだ。
応接間にしばらく沈黙が落ちた。秋の風が、窓の外の梢を一つ揺らした。
「……私の国は、もうございません」
アルトはようやく、それだけを告げた。
王女はしばらく黙っていた。それから、ふっと小さく笑った。けれどその笑みには、ほんのわずかな翳りがあった。
「失礼いたしました。妙なことをお尋ねしてしまいましたね。お忘れくださいませ」
王女は書類に視線を戻した。
けれどその朝、王女がそれ以上、目を上げてアルトを見ることはなかった。
応接間を辞したアルトは、廊下の窓辺でしばらく立ち止まった。
俺は、質問に答えていない。
それを自分でも分かっていた。
昼はガレオと共に王立考古学院の書庫に籠った。
アルトはこの三百年の歴史を、できる限り学ぶ必要があった。アルカディア墜落、海面上昇、文明後退、海洋小国群の成立、そして魔物の出現。ガレオは膨大な知識を惜しみなく語り、アルトはそれを猛烈な速度で吸収していった。
夜はノエと共に過ごした。
ノエはサフィリア王宮の侍女頭としてすでに王宮の女官たちの信頼を得ていた。アルカディアの優れた家政技術――染み抜き、保存食の作り方、効率的な掃除の段取り――を惜しみなく教え、女官たちから敬われていた。
「ノエ、お前すっかり馴染んだな」
ある夜、アルトは笑った。
「私は三百年、誰にも仕えられませんでした」
ノエは静かに応じた。
「再びお仕えする相手がいることが、私には何よりの喜びでございます」
アルトはその言葉に胸を打たれた。
三百年。誰もいない都市でひとり。磨き続けられた銀のティートレーと、誰も座らない椅子と、誰も飲まないお茶。ノエがその孤独をどう耐えたのか、アルトには想像することしかできなかった。
平穏な日々はしかし、長くは続かなかった。
*
滞在から十日目の早朝。王宮の鐘がけたたましく鳴り響いた。
通常の時報ではない。緊急を告げる連打の鐘だった。
アルトは寝台から跳ね起きた。三百年眠っても、緊急時の覚醒の速さは衰えていない。瞬時に剣帯を掴み、客間を飛び出した。
廊下では女官や侍従たちが慌ただしく駆け回っていた。
「何があった」
アルトは通りかかった若い侍従の腕を掴んだ。
「ヴェスタ砦が……! 北東のヴェスタ砦に、魔物の大群が……!」
「魔物の大群」
「海から大量に上陸してきたのです……! あの数では、砦は半日と持ちません……!」
アルトは侍従の腕を離した。
別館への廊下を駆ける足音が、自分の鼓動より速く廊下に響いていた。
応接間に飛び込むと、すでにリーシェリア王女がいた。寝衣の上に外套を羽織ったまま地図を広げ、数人の文官と早口で言葉を交わしている。その隣にはガレオもいた。
「殿下」
アルトの声に王女が振り返った。
「アルト卿」
王女の顔は青ざめていた。けれど、目だけは凛と据わっていた。
「ヴェスタ砦が襲撃を受けています」
「状況を」
「魔物の数、推定二百以上。中型を中心に大型も数体確認されています。砦の守備兵は五百。ですが装備も練度も、魔物には到底及びません」
王女は地図の一点を指した。サフィリア本島の北東。海に突き出した岬の付け根に、ヴェスタ砦の印があった。
「ヴェスタ砦が落ちれば、その背後の三つの村、合わせて二千の民が魔物の手に落ちます。さらに王都への陸路の北の守りが崩れます」
ガレオが地図を覗き込みながら唸った。
「これはおかしい、殿下。これだけの数の魔物が一斉に、組織的に上陸するなど聞いたことがない」
「ええ」
「まるで誰かが指揮しているかのようだ」
王女の表情が一層険しくなった。
アルトは地図をじっと見つめた。
陸路の北の守り。二千の民。半日で落ちる砦。
数字が頭の中で並んだ。三百年前のアルカディアでも、こうした数字の並びは何度か見た。そしてそのたびに、誰かが剣を抜くことになった。
「殿下」
「アルト卿」
「私をヴェスタ砦に向かわせてください」
応接間がしんと静まった。文官たちが戸惑ったようにアルトと王女を見比べた。
「アルト卿」
王女はしばらく言葉を選んでいた。
「あなたを民の前に出すには、まだ早いと申し上げたばかりです」
「存じております」
「教団があなたを狙っています。あなたが人前で力を振るえば、必ず教団の知るところとなります」
「それも存じております」
アルトは王女の目をまっすぐに見た。
「ですが殿下。今、ヴェスタ砦では五百の兵が二千の民を守るために勝ち目のない戦いを強いられております」
「……」
「私は姫君に剣を捧げました。姫君の国を守ると誓いました。その誓いを、私が人目を恐れて果たさないのであれば」
アルトは剣の柄に手を置いた。
「この剣に何の意味がございましょうか」
王女はしばらくの間、アルトを見つめていた。
その瞳がわずかに潤んだように見えた。けれど王女はすぐに王女の顔に戻った。
「……分かりました」
王女は静かに頷いた。
「アルト卿。ヴェスタ砦の救援をあなたに託します」
「ありがとうございます」
「ですが、条件がございます」
「何なりと」
「決して、命を落とさないでください」
王女の声がわずかに震えた。
「あなたはサフィリアにとって、かけがえのない存在でございます」
王女はそこで一度、言葉を切った。
その先に何かを言いかけて、けれど唇のあたりで止めた。
「必ず生きてお戻りください。これは、命令です」
アルトは王女の目を見た。
生きて戻ってきても、いつか自分はこの方のお側を離れることになるのかもしれない。今朝の問いかけが、その予感をすでに二人の間に置いてしまっている。
それでも、まずは生きて戻れ。
王女のその祈りには、命令の声の奥にまだ言葉にならない、もう一つの何かが潜んでいるようにアルトには感じられた。
アルトは片膝をついた。
「御意」
王女は短く、深く頷いた。それ以上の言葉はもう要らなかった。
*
ヴェスタ砦への移動は、王立騎兵隊の早馬で行われた。
王宮から砦までは馬を急がせて半日の距離。アルトはガレオと共に最速の馬に乗り、騎兵隊の先頭を駆けた。ノエは王宮に残し、王女の護衛を任せた。
馬を駆りながら、アルトは三百年ぶりの感覚を味わっていた。
風が頬を切る。馬の鼓動が太腿から伝わってくる。蹄が地を打つたびに、地面が小さく身震いするように応える。
アルカディアでは移動は浮遊機構によるものが主で、馬は儀礼用だった。けれどアルトは騎馬の訓練も受けていた。身体はその記憶を、よく覚えていた。
「アルト!」
並んで駆けるガレオが、風の中で叫んだ。
「あんた、本当に一人で二百の魔物を相手にするつもりか!」
「五百の兵がいる。一人ではない」
「その五百がてんで頼りにならんから問題なんだよ!」
「だったら、頼りになるようにする」
アルトは馬の腹を軽く蹴った。
「ガレオ。お前は後方で指揮を補佐してくれ。お前はこの時代の戦の常識を知っている。俺は知らない」
「俺が、指揮だと?」
「お前は賢い。それに人をよく見ている。適任だ」
ガレオはしばらく無言だった。やがて苦笑した。
「……まったく。学者を戦場の指揮官に仕立て上げるとはな」
「嫌か」
「いや」
ガレオは眼鏡の縁を押さえた。
「悪くない。久しぶりに、血が騒ぐ」
昼過ぎ、一行はヴェスタ砦に到達した。
風向きが変わった瞬間、潮の香りに混じって、別の臭いがアルトの鼻を打った。獣の血の匂い。焼けた木材の匂い。そして人の汗と、人の死の匂い。
砦はすでに混乱の極みにあった。
石造りの城壁に、無数の魔物が取り付いていた。海から這い上がってきた巨大な甲殻類、太い蛇、ずんぐりとした蛙――いずれも、アルトが三百年前の地上で見た記憶のない異形だった。それらが城壁をよじ登り、あるいは体当たりを繰り返していた。
城壁の上では守備兵が必死に弓を射、槍を突き、油を注いでいた。けれど魔物の硬い甲殻や鱗の前に、その攻撃はほとんど効果を上げていなかった。城壁の一部が、すでに内側から崩れかけていた。
アルトは馬を止めた。
戦場を見渡した。
二百以上。ガレオの言った通りだった。いや、それ以上か。
けれどアルトの目は冷静だった。三百年前、アルトはアルカディア護衛騎士団で対魔獣戦の訓練も受けていた。当時のアルカディアには空に棲む魔獣がいて、それらの討伐も騎士団の任務のひとつだった。
戦い方は覚えている。要は数ではなく急所だ。
アルトは馬から降りた。
ブーツが地に触れた瞬間、自分の中で、何かがはっきりと切り替わった。
アルトは剣帯から『月の鏡』を抜いた。
銀の刃が午後の光を受けて、白く煌めいた。
「ガレオ」
「ああ」
「指揮を頼む。守備兵を城壁の上にまとめてくれ。そして、城壁の崩れた箇所に兵を集中させるな。そこは俺が引き受ける」
「分かった。だがアルト」
ガレオの声が、真剣だった。
「無茶はするな。あんたは生きて帰る約束だ」
「ああ」
アルトは軽く頷いた。
そして走り出した。
崩れかけた城壁の、その一点へと。
*
城壁の崩れた箇所には、すでに数体の魔物がなだれ込もうとしていた。
守備兵たちは必死にそれを押し止めようとしていたが、じりじりと後退していた。すでに数人が倒れ、血を流していた。
「退け!」
アルトの鋭い声が、戦場に響いた。
守備兵たちが、はっと振り返る。見知らぬ銀髪の青年。けれど、その声には抗いがたい何かがあった。守備兵たちは反射的に道を空けた。
アルトはその間を駆け抜けた。そして崩れた城壁の最前線へと躍り出た。
目の前に、巨大な甲殻類の魔物がいた。蟹のような姿。けれど全長は三メートルを超える。鋭い鋏を二対、持っている。
魔物はアルトに気付くと、巨大な鋏を振り上げた。
アルトは、避けなかった。
むしろ前に踏み込んだ。
そして剣に、青白い光を纏わせた。
アルカディア剣技、『斬鉄』。
振り下ろされた鋏をアルトは剣で受けた。
否、受けたのではない。斬った。
青白く光る刃が、魔物の硬い鋏をまるで紙のように断ち切った。
そのままアルトは剣を返した。二の太刀が、魔物の関節の継ぎ目、甲殻の最も薄い部分を正確に貫いた。
巨大な甲殻類が、声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちた。
守備兵たちが息を呑んだ。
たった、二太刀。
彼らが十人がかりでも倒せなかった魔物を、見知らぬ青年がたった二太刀で屠った。
けれどアルトは止まらなかった。すでに次の魔物に向かって踏み込んでいた。
蛇のような魔物。鱗の甲冑。アルトはその動きを、すでに見切っていた。魔物が鎌首をもたげ、襲いかかってくる、その軌道を読んでいた。
アルトは横に跳んだ。そして魔物の首の付け根、頭部を支える最も力の集まる急所を、一閃で斬り裂いた。
蛇の魔物が痙攣して倒れた。
だが、次に踏み込んだ一体だけは、違った。
海から這い上がったばかりの、黒く濡れた鱗の魔物。その胴を薙いだ刹那、刃が硬い何かを噛んで、わずかに弾かれた。
斬れたのは、斬れた。
けれど、これまでの手応えとは明らかに違う。
まるで鱗の下に、刃を拒む別の層が、あるかのような――。
おそらく個体差だ、とアルトは思い直した。
三百年前も、魔獣の身体には必ず急所があった。数が多くても、一体一体は急所を突けば倒れる。要は急所を見抜く目と、そこに正確に届かせる剣の技量だ。
――そう自分に言い聞かせながら、さっきの弾かれた感触だけが、指の奥に小さく残った。
アルトは舞うように戦場を駆けた。
一閃。二閃。三閃。
その剣が振られるたびに、魔物が一体、また一体と、崩れ落ちた。
守備兵たちはただ呆然と、その光景を見ていた。
何だ、あれは。
人間か。
いや、神か。
アルトの剣は、もはや目で追えなかった。
青白い光の軌跡だけが、戦場に幾筋も走った。
その光は、三百年前にアルカディアの空を走った剣閃と、寸分違わぬ色をしていた。




