第10話 天空の武具
ガレオは城壁の上からその光景を見ていた。
そして彼もまた息を呑んでいた。
「……話には聞いていたが」
ガレオは呟いた。
「これは、桁が違う」
眼下で、銀の刃が舞っている。一閃ごとに、巨大な魔物が砂袋のように崩れ落ちていく。三百年前のアルカディアの剣技を文献の中でしか知らなかった男にとって、それは文字どおり、歴史が立ち上がった瞬間だった。
けれどガレオはすぐに我に返った。
自分には自分の役目がある。
ガレオは城壁の上に向かって、声を張った。
「諸君! 見ろ!」
その声に迷っていた守備兵たちがはっと振り返った。
「あの方はアルカディアの騎士だ! 三百年前の伝説の護衛騎士だ!」
「彼が崩れた城壁を、たった一人で守っている! 我らは彼を信じて、自分の持ち場を守れ! 弓兵、城壁から離れた魔物を狙え! 槍兵、城壁を登る魔物を突き落とせ! 油を惜しむな!」
ガレオの声には不思議な力があった。
学者ゆえの明晰さと、漁師町育ちゆえの土臭い親しみやすさ。そのふたつが混じり合った声。普段の彼の軽口を聞き慣れた者は、今のガレオを別人のように感じただろう。
守備兵たちはその声に応えた。
「弓兵、構え! 放て!」
「槍兵、前へ!」
戦場の空気が変わった。
さきほどまで絶望に覆われていた守備兵たちの目に、再び戦意の光が灯った。アルカディアの騎士が最前線を守っている。ならば、自分たちも戦える。自分たちの持ち場を守れる。
ガレオは戦場全体を見渡した。
アルトが崩れた城壁を一人で塞いでいる。守備兵はそれぞれの持ち場を守り始めた。
問題は。
ガレオの目が戦場のある一点で止まった。
海の方角。
そこからひときわ大きな影が近づいてきていた。
大型の魔物だった。全長十メートルはあろうかという、巨大な海亀。背中にごつごつと岩めいた甲羅を背負っている。
そしてその魔物の進む先にはすでに戦いで疲弊した守備兵の一団がいた。
「まずい――」
ガレオは息を呑んだ。
あの大きさと突進の速度。ぶつかれば、十人は一瞬で潰される。
「アルト! 海の方角だ! 大型が来る!」
*
アルトはガレオの声を戦場の喧騒の中から確かに聞き取った。
顔を上げ、海の方角を見た。
巨大な海亀の魔物。それが疲弊した守備兵の一団に向かって突進していた。
守備兵たちはその巨体に恐慌を来していた。逃げようとして転び、互いにぶつかり合っていた。
あのままでは押し潰される。
アルトは迷わなかった。
目の前の魔物を一閃で片付けると地を蹴った。
護衛騎士団の足運び。
アルトの身体が矢のように戦場を駆け抜けた。
けれど距離があった。
海亀の魔物の突進の方が速い。
間に合わない。
間に合わせる。
アルトは走りながら、剣にこれまでより強い光を纏わせた。
刃の銀が内側から青く沸き立つように燃えた。
アルカディア剣技、奥伝。
『飛斬』。
これは剣の間合いの外にいる敵を斬る技。剣に纏わせた魔導を斬撃と共に刃から解き放つ。三百年前でも、護衛騎士団の中でこの技を修めていた者は、数えるほどしかいなかった。
アルトは走る勢いを乗せて、剣を横薙ぎに振り抜いた。
青白い、三日月形の斬撃が刃から放たれた。
弓矢の比ではない速さで戦場を駆け、
数十メートルの距離を一瞬で
海亀の魔物の太い首を
横一文字に斬り裂いた。
巨大な海亀は、突進の勢いを保ったまま――しかし頭部を失っていた。
胴体はなお走り続けていた。
その胴体が守備兵の一団のすぐ手前で、ようやく自分が死んだことに気付いたかのように
どう、と地に崩れ落ちた。
砂埃がもうもうと舞い上がった。
守備兵たちはその砂埃の中で呆然と座り込んでいた。
自分たちを押し潰すはずだった巨大な魔物が突如、宙を走った青白い光によって首を刎ねられ、足元に倒れていた。
誰も声を出せなかった。
アルトはゆっくりとその一団に歩み寄った。そして、座り込んだ若い守備兵に手を差し伸べた。
「立てるか」
守備兵は震える手でアルトの手を取った。
「あ、あなたは……」
「アルカディアの騎士だ」
アルトは短く答えた。
「もう大丈夫だ。立て。お前たちの砦を守るんだ」
守備兵の目に涙が滲んだ。
「は、はい……! はい……!」
アルトはその守備兵を立たせると、戦場全体に向かって、声を張った。
「サフィリアの兵たちよ!」
その声は不思議なほど戦場の隅々まで届いた。
戦闘の喧騒の中でけれどその声だけは誰の耳にも、はっきりと届いた。
「お前たちの背後には、守るべき民がいる! 妻が、子が、親がいる! その者たちを魔物の手に渡すのか!」
「……!」
「立て! 剣を取れ! 槍を構えろ!」
アルトは『月の鏡』を夕日に向けて高く掲げた。
銀の刃が午後の光を弾いて、戦場全体を一瞬白く照らした。
「俺がお前たちと共に戦う! アルカディアの剣が、お前たちと共にある!」
戦場が揺れた。
守備兵たちの喉から雄叫びが上がった。
絶望は消えていた。
*
そこからの戦いはもはや一方的だった。
アルトを中心に守備兵たちの士気は最高潮に達した。アルトが最も危険な最前線を引き受け、次々と魔物を屠っていく。守備兵たちはその背後を固め、城壁を守り、弓と槍で魔物を削っていく。ガレオの的確な指揮がその全体をまとめ上げる。
二百以上いた魔物は午後の終わりには半数以下に減っていた。
そして夕暮れ時。
残った魔物たちが突然、奇妙な動きを見せた。
統率を失ったかのように。
いや、違う。
むしろ、別の何かに呼ばれたかのように。
一斉に海へと引き返し始めたのだ。
「……退いて、いく?」
守備兵の一人が呆然と呟いた。
アルトは剣を構えたままその光景を見ていた。
おかしい、と彼は思った。
まだ半数は残っている。数の上ではまだ攻めきれるはずだ。
なのに、なぜ退く。
守備兵の歓声が城壁の上で起こり始めた。勝鬨に近い声だった。けれどアルトはその声に加わらなかった。
海面を見つめた。
退いていく魔物の群れのその向こうの水平線を。
水平線はただ静かだった。
何の影もない。何の音もない。
ただの夕暮れの海。
――けれど。
アルトはふと奇妙な感覚を覚えた。
海上で裂顎を斬った後のあの感覚。剣の鞘の青い宝玉がいつまでも残光を引きずっていた、あの夜の感覚。海の底の深いところに何かがいて、こちらをじっと見ている。そう思った、あの夜の感覚。
それに、と思う。
昼の戦場でたった一体だけ刃を弾きかけた魔物がいた。
あの手応えだけがどうしても、他の魔物と馴染まなかった。
あれがまた戻ってきている。
いや。
それだけではない。
今度はもっと強い。
アルトの剣『月の鏡』が、わずかに青く光を帯びていた。
戦闘の余熱と説明することもできる程度の淡い光。
けれど、その光が消えなかった。
アルトが剣を振っていない、今この瞬間も消えなかった。
まるで何かに応答しているような光だった。
遠雷のように海のずっと向こうで、何かがこちらに気付いている。
アルトはしばらく海を見つめていた。
やがて剣をゆっくりと鞘に収めた。
鞘の中で青い光はようやくゆっくりと消えた。
まるで見られていることを相手に悟られぬよう、自ら隠れたかのように。
戦場には守備兵たちの勝鬨と、傷ついた者の呻きと、夕日に照らされた魔物の死骸が、混ざり合って横たわっていた。
ヴェスタ砦は守り抜かれた。
*
ヴェスタ砦に夜が訪れた。死者の弔いと負傷者の手当てが行われた。
砦の指揮官、ヴェスタ砦長は白髪の初老の男だった。彼はアルトの前に進み出ると深く頭を下げた。
「アルカディアの騎士殿。あなたがいなければ、この砦は今頃落ちていました。背後の村々の二千の民も。心より御礼を申し上げます」
「礼は要らない」
アルトは静かに応じた。
「俺は当然のことをしただけだ。それより負傷した兵を手厚く看てやってほしい」
「もちろんでございます」
砦長はもう一度頭を下げて去った。
ガレオがアルトの隣に来た。手にはぬるい蒸留酒の小瓶。彼はその瓶の口をアルトに無言で差し出した。アルトは少しだけ口に含み、瓶を返した。ガレオはそれを大きく一口あおり、長い息を吐いた。
「アルト」
「ああ」
「今日の魔物の動きおかしかったな」
「ああ」
アルトは夜の海を見つめた。
「統率されすぎていた。まるで誰かが明確な目的を持って、この砦を攻めさせたかのようだった。そして、ある程度目的を果たすとすぐに退いた」
「目的、か」
「分からない」
アルトは首を振った。
ガレオはしばらく黙っていた。やがて空の方を見上げた。
「魔物の組織的な襲撃なんざ、俺の知る限りサフィリア建国以来、初めてだ」
「……」
「アルト。これはもしかしたら、何かの始まりかもしれん」
ガレオの声は低かった。何かを断定するのではなく、ただ漠然とした不安を口にする声だった。
アルトは頷いた。
「俺もそう思う」
二人はしばらく、何も話さなかった。
夜の海は静かだった。
けれど、その静けさが奇妙だった。
今日、これだけの数の魔物が暴れた海が夜になるとまるで何事もなかったかのようにただ波だけを送ってくる。
あまりにもありふれた夜の海の顔をしていた。
その静けさの奥に何かがいる。
アルトはそう感じた。
けれど、それが何なのかはまだ口にしなかった。
ガレオもおそらく似たようなものを感じていた。けれど学者である彼は、確証のないことを軽々しく言葉にすることはしなかった。
二人はただ海を見ていた。
「ガレオ」
「ああ」
「このことは王宮に戻ってから、殿下に報告する」
「そうだな」
「魔物の動きの異様さ。誰かが指揮しているような統率。そして撤退の不自然さ」
「ああ、だが」
アルトは静かに告げた。
「それ以上は、俺たちにはまだ分からない。確証のないことを殿下にお伝えするのは、王女様を惑わせることになる」
ガレオは少しの間考えてから頷いた。
「賛成だ。確証を得てから話すべきだな」
「ああ」
「だがアルト。今日のことは間違っていなかった。あんたがここに来なければ、二千の民が死んでいた。それは確かなことだ」
「……そうだな」
アルトは夜空を見上げた。
月が出ていた。三百年前と同じ月。
姫様、と心の中で彼は呟いた。今日、俺は二千の民を守りました。
月は答えなかった。
ただ夜風が彼の銀の髪を揺らした。




