第11話 光を照らす者
ヴェスタ砦の勝利から三日後、王都シャレーヌの中央広場で戦勝のお披露目式典が催された。
国王エドガー三世の名で告示が出されたのは、前日の朝だった。「ヴェスタ砦を救った異邦の騎士を、サフィリアの民の前に正式に披露する」と。
それだけで王都の人々は色めき立った。
砦の戦いの噂は、戦闘の翌日には早馬の早さで王都にまで届いていた。たった一人で二百の魔物を屠った銀髪の騎士。アルカディアの伝説の生き残り。神の遣い。三百年眠っていた英雄。話は伝わるうちに尾ひれがつき当日の朝には、中央広場は早朝から人で埋め尽くされていた。
広場の北側に組まれた木の壇上にはサフィリア王家が並んでいた。
中央に国王エドガー三世。深紅と金の正装。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、佩いた長剣の柄に右手を置いている。
その左に長男ライム王子。軍装。剣帯。表情は厳しく、視線は広場の人波を絶えず観察していた。
その右に長女リーシェリア王女。淡い水色の昼の正装。胸に銀の薔薇の刺繍。手は腹の前で静かに組まれていた。
そして王女の右隣に次男フィリス王子。学者風の銀の上衣に銀の小章。両手はわずかに緊張で固く握られていた。
王家の壇上から少し離れたところに、アルトは立っていた。
白を基調としたアルカディア護衛騎士団の正装。胸の銀の薔薇章。腰の『月の鏡』。
三百年前のままの、けれど三百年後の地上では誰も見たことのない姿。
その隣にガレオが立っていた。普段の地味な学者の上衣ではなく宮廷考古学院の正式な礼装に着替えていた。
ノエは王女の侍女としてリーシェリアの斜め後ろに静かに控えていた。
国王が壇上から進み出た。
広場の喧騒が潮が引くように静まった。
「サフィリアの民よ」
国王の声は思いの外、よく通った。
「諸君らもすでに耳にしておろう。先日、北東のヴェスタ砦が海より上陸せし魔物の大群に襲われた」
広場の人々が静かに頷いた。
「砦の守備兵は奮戦したが、敵の数は彼らの装備と練度を遥かに上回るものであった。砦の陥落は我が国の北部三村、二千の民の命の喪失に直結する事態であった」
国王は一拍、置いた。
「だが、砦は守られた」
広場のあちこちで小さな声が漏れた。
「砦を守ったのは我が王国軍だけではない。本日、諸君らにもう一人の救国の功労者を紹介する」
国王はアルトに視線を向けた。
アルトは壇の脇からゆっくりと中央に進み出た。
広場の人々の視線が一斉に彼に集まった。
何千もの目がひとつの方向に揃う、その圧をアルトは確かに感じた。
「アルカディア王立護衛騎士団第二席、アルト・ヴェルナー卿」
国王の声が広場に響いた。
「三百年前、空に浮かんだ我らが祖の国、アルカディアの最後の騎士」
「古代の眠りより目覚め、いま我がサフィリアと共にあらん」
広場が一瞬、しんとした。
それから――
波が押し寄せるような歓声が広場全体に広がった。
「アルカディアの騎士!」
「神の遣いだ!」
「サフィリアに光が!」
人々の声が提灯の光のように広場のあちこちで揺れた。
中には涙を流す老人もいた。母親が子供を抱き上げて、アルトの方を見せている姿もあった。
アルトは壇上で片膝をついた。
三百年前、アルカディアの謁見の間で姫様の前でついた同じ片膝。
あの時は王宮の中、ひとりの姫君の前だった。今は王都の広場、何千もの民の前だ。
それでもついた膝の感触は寸分も変わらなかった。
「サフィリアの民の皆様」
彼の声は静かだったがよく通った。
「私はアルト・ヴェルナーと申します。三百年前のアルカディアの一介の護衛騎士でございます。私はこの時代の世界について、まだ何も知らぬ若輩でございます」
広場が静まり返った。
「ですが、私はこの剣をリーシェリア殿下に捧げました。殿下のご命のある限り、サフィリアとサフィリアの民の皆様をお守りいたします」
アルトは頭を下げた。
「皆様の暮らしを、私の剣がお守りいたします」
歓声が再び広場を覆った。さきほどよりもさらに大きな歓声だった。
アルトはゆっくりと立ち上がった。
視界の隅でリーシェリアが壇上からわずかにけれど確かに、彼に向かって微笑むのが見えた。胸の銀の薔薇の刺繍が午前の光に淡く輝いていた。
その微笑みは王女として民の前で示されるべき公の微笑みではなかった。三百年前の謁見の間で姫様が向けてくださったあの微笑みに限りなく近い、私的な微笑み。
アルトもまたわずかに頭を下げて応えた。
式典の後、王宮で簡素な祝宴が催された。
長い卓を囲んで国王と王女、二人の王子、それから王宮の主だった文官武官、最後にアルトとガレオが座った。ノエは王女の背後に控えた。
料理は質素だった。海の魚と根菜の煮込み、麦のパン、薄い赤葡萄酒。サフィリアという小国の祝宴は、王宮の祝宴と呼ぶには地味すぎる献立だったが、誠実な味わいがあった。
国王はアルトに自ら酒を注いだ。
「アルト卿。本日のお披露目、ご苦労であった」
「もったいなきお言葉でございます、陛下」
国王はそれ以上のことは言わなかった。ただアルトの目をじっと見つめてから、自分の席に戻った。
その視線の中に、感謝と、畏怖と、わずかな警戒。三つの色が混ざっていることをアルトは見て取った。
卓の遠く、長男ライム王子もまた、口数少なくアルトを観察していた。フィリス王子は終始アルトの方を緊張した目で見ていたが何も口にできずにいた。
リーシェリアだけがアルトに普段通りの声で何度か言葉をかけた。料理の感想を尋ね、サフィリアの祝宴の風習を説明し、それからガレオに「明日からの仕事の話を少しだけしてもよろしいですか」と微笑んだ。
ガレオはにやりと笑って茶碗に手を伸ばした。
「もちろん、殿下。少しと言わず、いくらでも」
その日の祝宴は夕方には静かに散会した。
アルトは王宮の客間に戻った。窓の外にはまだ広場の熱気がほのかに残っていた。
その日から王都シャレーヌの街はアルト・ヴェルナーの名で持ちきりになった。
*
アルトが王宮の客間で、その騒ぎを苦々しく聞いていたのはそれから二日が経った朝のことだった。
「だから言っただろう、騎士殿」
ガレオが茶を啜りながら笑った。
「あんたが力を使えば神様扱いだとな」
「俺は神ではない」
「そりゃそうだ。だが民にとっては希望が必要なんだよ。三百年、魔物に怯えて暮らしてきた連中にとって、あんたは初めて現れた『勝てる存在』だ」
アルトは窓の外を見た。
王宮の門前には朝から人々が集まっていた。一目でいいから、アルカディアの騎士を見たいと願う民衆だった。中には病気の子を抱えた母親や足の悪い老人の姿もあった。
彼らはアルトを神聖な治癒者か何かだと思い込んでいるらしかった。
「……ガレオ」
「ん?」
「あの人たちは何を求めて来ているんだ」
「奇跡さ」
ガレオの声が少し低くなった。
「あんたが砦を救ったように自分たちの暮らしも救ってくれるんじゃないか。そう期待してる」
アルトは門前の人々をじっと見つめていた。
俺の力は剣を振ることだけだ。
病を治すことも貧しさを救うこともできない。あの門の前にいる人々の誰一人として剣では救えない。
アルトの胸に奇妙な重さが落ちた。
喜びでも誇りでもない。あの期待の眼差しのひとつひとつが自分には返せない約束手形のように思えた。
砦で「アルカディアの剣がお前たちと共にある」と叫んだ自分の声がふと、耳の奥に蘇った。
あの声は戦場の兵に向けたものだった。けれど今、その声を戦場の外の民までが信じている。
剣で答えられないものを剣で約束してしまったのではないか。
けれど、アルトは思った。
俺には剣以外にもできることがあるかもしれない。
*
その日の午後、アルトはリーシェリア王女に面会を求めた。
王女は別館の応接間で彼を迎えた。
ヴェスタ砦から戻って以来、王女のアルトを見る目には以前とは違う信頼が宿るようになっていた。
「アルト卿。ヴェスタ砦での働き、改めて御礼申し上げます」
王女は深く頭を下げた。
「あなたのおかげで二千の民が救われました」
「殿下。礼は結構です。それよりご相談したいことがあります」
「何でしょう」
アルトは姿勢を正した。
「私は剣を振るうことしかできません。けれど私が眠っていたアルカディアには、剣以外のたくさんの技術が残されています。それらをこの国の復興のために使えないかと考えています」
王女の目がわずかに見開かれた。
「技術、ですか」
「はい。例えば」
アルトは指を折りながら説明を始めた。
「アルカディアには簡易的な結界発生装置があります。一定範囲に魔物を寄せ付けない波長を発するものです。これを海岸の村々に設置すれば、魔物の襲撃をかなり減らせるはずです」
「……まことですか」
「治療ポーションの製法もノエが記憶しています。今の時代の薬草学では治せない傷や病も、アルカディアの医療技術なら対処できるものがあります」
「……」
「さらに、農耕や造船に使える小型の魔導機関。これらの設計図もアルカディアの遺物の中に残されています。今の技術ですべてを再現するのは難しいでしょうが、ガレオのような学者がいれば、いくつかは再現できるかもしれません」
王女はしばらくの間、言葉を失っていた。
やがてゆっくりと息を吐いた。
「アルト卿。それは……素晴らしいお考えです」
「殿下」
「ですが」
王女は静かに続けた。
「それは簡単な道ではないでしょう」
「……」
「アルカディアの技術を地上に下ろす。三百年、誰もできなかったことです。技術ひとつを根付かせるには、それを受け入れる人々の暮らしを知ることが必要です。それは時間のかかる仕事でしょう」
王女の言葉にはアルトが想定していた以上の冷静さがあった。
ただ「素晴らしい」と頷くのではなく、その先の困難まで一瞬で見通した上での評価。
この方は本当に国の細部を見ている。
アルトは改めてそう思った。
アルトは王女の目をまっすぐに見た。
「殿下のおっしゃる通りでございます。けれど、それでもやらなければなりません」
「アルト卿?」
「ガレオが以前、私に言いました。『過去のアルカディアが地上に何もしてやらなかった。その埋め合わせを、今のお前ができる立場にいる』と」
「……」
「アルカディアは三百年前、地上を見下ろすだけで何もしませんでした。そして墜落して、地上を巻き添えにした。私はアルカディアの最後の住人としてその償いをしたいのです。剣だけでなく、知識でも、この時代の人々に貢献したい」
王女はアルトの顔を見つめていた。やがて、ふと微笑んだ。
「あなたがその難しさを背負って、それでもなお始めようとしてくださる。それが私にはありがたいのです」
王女はアルトの前にゆっくりと進み出た。そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、アルト卿」
顔を上げた王女の声にはこれまでの政務の場では聞いたことのない、確かな温かみが滲んでいた。
「サフィリアにとって何よりの希望にございます」
アルトは王女の言葉をしっかりと胸に受け止めた。
難しい道。時間のかかる仕事。
それを王女は最初から見抜いていた。それでもなお、共に歩むことを選んでくださった。
その重みを自分はまだ本当には分かっていないかもしれない。
応接間の窓から午後の光が差していた。
その光は穏やかで暖かかった。
けれどその暖かさの奥に、これから自分が踏み込む長い道の最初の影がもうかすかに伸び始めている気がした。




