第8話 決意
客間に戻った彼を、ノエが待っていた。
アルカディア時代と寸分変わらぬ仕草で、ノエは深く頭を下げた。
「お疲れさまでございました、坊ちゃま」
「ああ」
アルトは外套をノエに渡しながら応じた。
「侍女頭への顔合わせはどうだった」
「皆様、大変ご親切でございました。アルカディアの侍女として、改めてサフィリア王宮にお仕えする許可をいただきました」
「そうか。ご苦労」
ノエは外套を衣装掛けに丁寧に掛けた。
その手の動きが、いつもより少しだけゆっくりだった。
アルトは気付いた。
「ノエ」
「はい」
「疲れたか」
ノエはわずかに目を瞬いた。
機械の彼女に疲労はない。けれどそれは「身体の疲労」がない、というだけのことだ。
「……」
「答えなくていい」
アルトは寝台の縁に腰を下ろした。
「俺もな」
「坊ちゃま?」
「三百年ぶりに人の家に上がった。長い一日だった」
ノエはしばらく無言だった。やがて静かに口を開いた。
「サフィリアの侍女の皆様は、私のことを『不思議な方』と呼ばれました」
「うん」
「悪意ではございません。アルカディアの機械の侍女にお会いするのは初めてだから、と」
「ああ」
「私は」
ノエは衣装掛けの前で背を向けたまま続けた。
「自分が何であるかを、知らない方々に説明しなければならない場所に来てしまったのですね」
アルトはその背中をじっと見た。
三百年、アルカディアの中で「ノエ」は説明を必要としない存在だった。誰もが彼女を知っていた。家政オートマタA・XII・〇〇七。ヴェルナー家の家政を担う者。アルト坊ちゃまの世話係。
その全てを、今日からは一つひとつ、知らない人々の前で説明し直さなければならない。
ノエが己の存在を語る言葉を、ノエ自身が組み立て直さなければならない。三百年、誰にも問われなかった問いを、これから何度も問われ続けることになる。
「ノエ」
「はい」
「お前はノエだ」
アルトは静かに告げた。
「俺の知っているノエだ。サフィリアの誰が何と呼ぼうと、お前は変わらない。それだけは俺が保証する」
ノエはしばらく背を向けたままだった。
やがてゆっくりと振り返った。
その口元に、わずかな笑みのようなものがあった。
「……ありがとうございます、坊ちゃま」
「ああ」
「あの」
ノエは姿勢を正した。
「殿下とのお話は、いかがでしたか」
アルトはしばらく答えなかった。ノエは彼の動作を片付けながら、静かに待っていた。
「ノエ」
「はい」
「リーシェリア様は、姫様によく似ておられた」
「はい」
「血を引いている可能性は、高いのだろうか」
ノエは答えるまでに、少し時間を取った。
「私には断言できません。ですが、外見の類似は、偶然と呼ぶには強すぎます」
「……」
「リーシェ姫様が亡くなる前に、私的にお子をなされた可能性はゼロではないと考えております」
アルトは剣帯を外しながら頷いた。
三百年前、アルトは姫の身辺に最も近い護衛だった。けれど彼の知らない時間は確実に存在した。アルトが治療ポットに入った後、姫は四十年生きた。その四十年の間に何が起きたのか、それをアルトは知らない。
「ノエ。一つ教えてくれ」
「はい」
「姫様は、俺がポットに入った後、誰かをお側に置かれただろうか」
ノエはすぐには答えなかった。やがて慎重に口を開いた。
「私の記録には、姫様が特定の方を伴侶としてお選びになった事実はございません。姫様は生涯、独身でいらっしゃいました」
「……うん」
「ですが」
ノエはそこで一度、息を継ぐような間を置いた。機械の彼女に、本来そのような間は必要ない。
「ご病気が進行された晩年の数年、姫様は王宮の限られた方としか、お会いになりませんでした。その期間の姫様の私的な記録には、いくつかぼかされた箇所がございます」
「ぼかされた」
「私の管理下にあった公的な文書には、明確に書かれておりました。けれど姫様ご自身の日誌の、最後の数冊だけは」
ノエは続けた。
「私が、姫様のご遺言に従い、墜落前に封印いたしました」
「封印」
「はい」
「その封印は、今も」
「アルカディア王宮の、姫様の私室の隠し書庫の中にございます。三百年、誰も触れておりません」
アルトは剣を丁寧に台に置きながら考えた。
封印された、姫様の最後の日誌。
その中に、何が書かれているのか。姫様が最後の数年、誰をお側に置かれたのか。もしもその方が、姫様の血を未来へ繋いだのなら。その血が、今日、自分が剣を捧げた王女に流れているのなら。
「ノエ」
「はい」
「その日誌を、いつか読みたい」
「アルカディアに戻る機会があれば、お持ちいたします」
「ああ。頼む」
ノエは深く頷いた。
アルトは寝台の縁に深く腰を落とした。長い一日だった。
三百年前のリーシェ姫に剣を捧げた騎士が、三百年後の今日、リーシェリアという王女に再び剣を捧げた。
単なる偶然なのか。それとも、姫様が最期に紡いだ糸が遠い未来へ伸び、巡って自分の足元に戻ってきたのか。アルトにはまだ分からなかった。
ただ一つだけ、分かっていた。
自分はもう、この王女から目を逸らせない。リーシェリアを姫様の面影として見るのではない。リーシェリアという、その人として守りたい。
それが彼の新しい誓いだった。三百年の時を経て、生まれ直した誓いだった。
*
その夜、アルトはなかなか眠れなかった。
ノエが客間の隣室で、静かに待機の姿勢を取っていた。彼女は機械ゆえに睡眠を必要としない。けれどアルトのために、人間と同じ夜の時間帯は灯りを落として静かに過ごす習慣を、三百年続けていた。
アルトは寝台の上で何度か寝返りを打った。やがて起き上がり、窓辺に寄り、窓を開けた。
夜風が頬を撫でた。海をわずかに含んだ、夏のはじめの匂い。
窓の外は王宮の中庭だった。月が出ていた。三百年前と同じ、満ちかけの月。アルカディアの空に浮かんでいたものと、何ひとつ変わらない月。
アルトは月に向かって、低く呟いた。
「姫様」
「俺はまた、誰かに剣を捧げました」
月はただ白く輝いている。
「リーシェリアというお方です」
「あなたによく似た方です。あなたの血を引いているかもしれない方です」
やはり、月は答えない。
「俺はこの方をお守りします。あなたが最後に、俺にお願いしてくださったように」
アルトの目にふと、熱いものが滲んだ。けれど彼はそれを拭わなかった。そのまま月を見つめ続けた。夜風が銀の髪を、静かに揺らした。
ふと、視界の端に、何かが映った。
中庭を挟んだ向かいの建物。王宮別館の二階。その窓辺に誰かが立っていた。
淡い金の髪。薄い水色の寝衣。
リーシェリア。
王女もまた眠れずにいたらしかった。彼女はもう、こちらに気付いていた。月明かりの中で、目が確かに合った。
アルトは動けなかった。
夕刻、片膝をついて剣を捧げたあの方がいま、寝衣のままで自分と同じ夜風を浴びている。その光景に、心の整理が追いつかなかった。
王女が軽く手を振った。
アルトはようやく我に返り、わずかに頭を下げた。
王女が微笑んだ。
月光の下でその顔は姫様にそっくりで、けれど確かに姫様ではなかった。リーシェリアの顔だった。今日初めて出会った、ひとりの人の顔だった。
アルトはその瞬間、自分の中で何かが新しく芽吹くのを感じた。まだそれが何なのか、彼自身にも分からなかった。けれどそれは確かに芽吹いた。
三百年の眠りの果てに、王立護衛騎士アルト・ヴェルナーの心の中にもう一度、何かが生まれようとしていた。
月が淡く、二人の頭上を照らしていた。
その光の下で、アルトはふとノエの言葉を思い出した。
アルカディア王宮。姫様の私室。隠し書庫。三百年、誰も触れていない封印。
あの日誌の中に、おそらく答えがある。姫様が最期にお側に置かれた方の名前。その方が姫様の血を、どう未来へ繋いだのか。
いつか必ず、あれを読みに戻る。
アルトはそう月に誓った。
夜風の中で、王女の窓の灯りはまだ消えずにいた。




