第7話 王女と騎士
簡素な会食が用意された。
王女は王宮の正餐の場ではなく、別館の隣室の小さな食堂で内々の夕食を共にすることを提案した。アルトとガレオは恭しく従った。ノエは給仕の侍女たちの邪魔にならない位置に控えていたが、王女がそれを見てこう告げた。
「ノエさんも、よろしければご一緒に」
ノエが深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉でございます、殿下。ですが、私はオートマタでございます。お食事は不要でございます」
「オートマタ」
王女の目がわずかに見開かれた。
「アルカディアの、機械の侍女、ですね」
「はい」
「文献では存じておりました。本物にお会いするのは、初めてでございます」
王女はノエの顔をしばらく見つめていた。
「お美しい方ですね」
ノエが目を瞬いた。
機械の彼女の表情は乏しい。けれどその瞬間、ノエの口元に、確かに笑みに似た何かが浮かんだ。
「……光栄でございます、殿下」
食事の間、王女は多くを尋ねなかった。
アルトの過去について深く問うこともなく、三百年前の出来事について興味本位の質問をすることもなく、ただ彼が話したいことを話したい速さで聞いた。
アルトは姫について、いくつかの逸話を語った。庭園での朝のお茶のこと。新年祭のこと。アルトが病に倒れて治療睡眠に入った後、姫様が病で立てなくなるその日まで毎日、治療ポットの前にお運びになり、目覚めを祈ってくださっていたこと。
ガレオが途中で軽く咳払いをして話題を切り替えた。
「殿下。話を現在の危機の方に戻させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
「先ほどの『教団』の件でございます。アルト卿は王宮に向かう途中の広場で、教団の見張りらしき集団を見ております」
王女の表情が、すっと引き締まった。
「広場で、でございますか」
「はい。広場の左の路地に、三人」
「……あの場所は、私が時折、市井の様子を見に降りる場所でございます」
アルトとガレオが揃って眉を寄せた。
「殿下、それは」
「お忍びで降りておられたと」
「はい。父には内緒で、年に何度か」
王女は静かに認めた。
「私の動きが、教団に知られているのかもしれません」
ガレオが机を軽く指で叩いた。
「これは対策を急ぐ必要がございますね。教団は今、何を企んでおりますのか」
「分かりません」
王女は首を振った。
「ただ、彼らは『真のアルカディアの再臨』を信奉しております。アルカディアを神の都として崇めている。そして彼らの教義の中に、いくつかの謎めいた予言がございます。中にはこういうものも」
王女は机の上で自分の指先を軽く組んだ。
「『天空の都が再び目覚める時、銀の血を引く乙女が、神の使徒を呼び戻す』」
ガレオが目を見開いた。
「……銀の血」
「そして」
王女は続けた。
「『使徒は乙女に剣を捧げ、世界を新たな海から救う』」
沈黙が落ちた。
アルトは自分の剣の柄にゆっくりと視線を落とした。
数刻前、自分が王女に剣を捧げた、まさにその構図だった。
ガレオが低く唸った。
「これは、まずいですね、殿下」
「はい」
「アルト卿の存在が教団に知れたら」
「私とアルト卿を、攫いに来るでしょう」
王女の表情に、初めてわずかな影が落ちた。
「私を彼らの『乙女』に仕立て、アルト卿を彼らの『使徒』に仕立てる。そうして王家から私を引き離し、教団による新たな『神政』を樹立する」
「……」
「彼らの過去の活動から、それは十分起こり得ます」
アルトは王女の言葉をじっと聞いていた。そして剣の柄をしっかりと握り直した。
「殿下」
「はい」
「私の身分は、しばらくの間、伏せていただいた方がよろしいかもしれません」
「アルト卿」
「私が『使徒』として教団に知られる前に、教団の動きとその中枢を、こちらが把握する必要がございます。私はまだこの時代のことを何も存じません。動くのは、もう少し情報を集めてからでも遅くないと存じます」
王女はしばらく考えていた。やがて頷いた。
「分かりました。あなたのご提案を、お受けいたします」
「ありがとうございます」
「ですが、いつまでもお隠しすることはできません。サフィリアの民は、いずれあなたを必要といたします。海の魔物の脅威は、今この瞬間も海岸の村々を襲っております」
「はい」
「適切な時に、適切な形で、あなたを民の前にお披露目いたしましょう。それまでは王宮の客人として、私の宮廷考古学院の特別顧問という名目で、ご滞在いただきます」
「承知いたしました」
「ノエさんも、私付きの侍女頭としてご活躍いただけますか」
ノエが深く頭を下げた。
「光栄でございます、殿下」
王女はふっと微笑んだ。
その微笑みが、リーシェ姫のそれと寸分違わなかった。アルトの胸が、また小さく痛んだ。
*
食事が終わり、ガレオは別件で王立考古学院の本部に出向くために席を立った。ノエは王女の侍女頭への顔合わせのため、老侍女と共に下がった。
応接間には王女とアルトの二人だけが残された。
燭台の油がわずかに爆ぜた。窓の外はもう夜だった。
王女は長椅子に腰を下ろし、アルトに向かいの椅子を勧めた。アルトは一瞬躊躇ったが、王女の指示に従った。
「アルト卿」
「はい」
「お疲れではございませんか」
王女は自分の膝の上で両手を軽く組んでいた。
「お目覚めから、まだほんの数日と、ガレオから伺いました。それなのに私は、お会いして一刻も経たぬうちに、国の命運をお願いし、剣をお受けいたしました。性急であったと思っております」
「殿下、それは──」
「いいえ」
王女は静かに首を振った。
「あなたのご決断を、軽く扱っているわけではございません。ただ、急いだのは私だ、ということだけは、忘れずにおきたいのです」
アルトはわずかに視線を伏せた。
それから、静かに告げた。
「目覚めてからの数日、私の足の裏には、まだこの世の地面の感触がございませんでした」
「……」
「けれど今宵、殿下に剣をお受け取りいただいた瞬間、その感触が戻ってまいりました」
「……」
「お守りすべき方が目の前にいらっしゃる。それが、私を再びこの世に繋ぎ止めてくださっております」
「……」
「殿下が下さったのは、負担ではなく、足場でございます」
王女はしばらくの間、アルトの顔を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、アルト卿」
「殿下」
王女は静かに姿勢を戻した。それから、燭台の炎にそっと目を落とした。
「とは申せ、私たちはまだ、互いを知りません。これから、少しずつ、お知り申し上げてまいりましょう」
「……はい」
「ですから、急がなくてもよいのです」
王女の横顔が、燭台の光に淡く染まった。
その横顔が、リーシェ姫の横顔と重なった。
けれどアルトはその瞬間、初めてはっきりと気付いた。
この方は、リーシェ姫ではない。
顔は同じでも、声は同じでも、面影は同じでも。この方はリーシェリアという別の方だ。三百年の時を経てサフィリアという小さな海洋国の王女として生まれ、自国を救うために必死に考え、動いている。そういう一人の人だ。
姫様の面影を、この方に重ねてはいけない。この方は、この方としてお守りしなければ。
アルトはそう自分に言い聞かせた。
けれど。
心の底で誰かが囁いた。
本当にそれでいいのか。
この方の中に、本当に姫様はいないのか。
「アルト卿」
王女の声が彼を現実に引き戻した。
「はい」
「今宵はお疲れでございましょう。客間にお下がりください」
「殿下も、どうぞお休みを」
「ええ。明朝、またお話しいたしましょう」
アルトは立ち上がった。そして最後にもう一度片膝をついた。
「お休みなさいませ、殿下」
王女が穏やかに頷いた。
「お休みなさいませ、アルト卿」
アルトは扉に向かった。扉を閉める直前、もう一度振り返った。燭台の前に座る王女の姿が、燭台の炎に、ゆらゆらと揺れていた。
姫様。俺はここで新しい誓いを立てました。どうか、これでよろしかったでしょうか。
アルトは扉を静かに閉めた。




