第6話 王女の面影
応接間は思いの外、簡素な部屋だった。
暖炉の前に置かれた長椅子と、小ぶりの机と、いくつかの本棚。壁には地図と航海図。シャンデリアの代わりに、油の燭台がいくつか吊られている。王女の私室というよりは執務室に近い気配のある部屋だった。
そして長椅子の前に、一人の女性が立っていた。
アルトは自分の心臓が一度だけ強く跳ねたのを感じた。
髪の色は淡い金。結い方は王宮式ではなく、肩の少し下まで素直に垂らした自然な流し方。瞳は澄んだ碧。肌は色白で、頬にはほのかな赤み。身につけているのは薄い水色の昼の正装。胸元に銀の薔薇の刺繍。
そして顔立ち。
姫様。
アルトの脳裏に三百年前のリーシェの顔が鮮明に蘇った。
似ていた。ただ「似ている」という言葉では足りない。目元の形、鼻筋の通り方、唇の薄さ、小さな笑い皺の出方。それらすべてが、アルトの記憶にあるリーシェと寸分のずれもなかった。
違うのは髪の色だけだった。リーシェは銀色だった。この王女は金色。それだけ。
「ガレオ」
王女が口を開いた。やはり声まで同じだった。低くもなく高くもなく、どこか歌うような抑揚。三百年前にアルトの叙任を行ったあの声。
「お帰りなさい。長旅、ご苦労さま」
「ただいま戻りました、リーシェリア様」
ガレオが慇懃に頭を下げた。
「ご報告申し上げます。例の遺物『神の遺物』の調査は予定通り完遂いたしました。そして、その過程で一つの、極めて稀有な発見がございました」
「発見」
「はい。これより紹介させていただきます」
ガレオがアルトの方に手を向けた。
「フードを外していただいてよろしいですか、騎士殿」
アルトは、すぐには動けなかった。
心臓の鼓動が自分でも分かるほど大きく響いていた。
目の前にいるのは姫様ではない。リーシェリア王女という別の人だ。それは理屈で分かっている。けれど目に映る姿があまりにも姫様そのもので、頭がうまく整理されない。
ガレオが小さく咳払いをした。
アルトはようやく我に返り、ゆっくりとフードを外した。
三百年前のアルカディア王立護衛騎士団の正装が、燭台の光に晒された。銀の髪。灰青の瞳。胸の薔薇の銀章。
リーシェリア王女が息を呑んだ。
一歩、後ろに下がった。そのまま長椅子の背に手をかけた。言葉が出なかったらしい。
ガレオがアルトの隣で軽く笑った。
「驚かれましたか、王女様」
「ガレオ」
「はい」
「あなた、これは……」
「ご紹介申し上げます。アルト・ヴェルナー殿。アルカディア王立護衛騎士団第二席。三百年前、リーシェ姫の身辺護衛を務めておられた騎士で、極めて稀な事情により、本日まで治療睡眠の中で生き永らえてこられた、本物のアルカディア人でございます」
沈黙が落ちた。
リーシェリア王女はしばらくの間、ただアルトを見つめていた。アルトもまた視線を逸らせなかった。
やがて王女がそっと長椅子の背から手を離した。
「アルカディアの……騎士」
「はい」
ガレオが頷く。
「リーシェ姫の」
「お側でお仕えしていた方でございます」
王女の視線はアルトの胸の銀章に注がれていた。それから剣帯に。剣の柄に。柄頭の水色の宝玉に。最後にまたアルトの顔に。
「アルト・ヴェルナー卿」
王女が自分の唇でその名を確かめるように発音した。
アルトは姿勢を正した。三百年前と何も変わらない、護衛騎士団の正規の所作で、片膝をついた。
「アルト・ヴェルナー、王女殿下の御前に」
そう告げるのが精一杯だった。声が震えていないか、自分でも分からなかった。
*
リーシェリア王女はしばらく口を開けなかった。
やがてゆっくりと長椅子の前に進み出てアルトの前に立った。
アルトは片膝をついたまま頭を下げていた。
「アルト卿」
「はい」
「お顔をお上げくださいませ」
アルトは指示通りに顔を上げた。
真上から王女の碧い瞳が彼を見つめていた。至近距離で見てもなお似ていた。瞳の中の光の宿し方までリーシェ姫と同じだった。
王女の目元がわずかに揺れた。
「……信じがたいお話でございます」
王女は呟いた。
「ガレオが連れてきた方ですから、嘘ではないのでしょう。けれど、私の中で、まだ整理がついておりません」
「ご無理もないことでございます、殿下」
ガレオが横から穏やかに言った。
「私自身、彼を見つけた時、五日ほどかけてようやく信じました。三百年前の人間が目の前に立っている。これはすぐに飲み込める話ではございません」
王女は頷いた。それからもう一度アルトを見下ろした。
「アルト卿。ひとつ、不躾な問いをお許しくださいませ」
「何なりと」
「あなたはリーシェ姫を、よくご存じでしたか」
アルトの胸の奥が熱くなった。こらえて言葉を返した。
「私は姫君の身辺を、十七歳から二十一歳までの四年間、お守りしておりました。お茶のお好み、お休みになる時刻、お笑いになり方、苦手なお食べ物、書斎でお読みになる本の傾向、すべて存じ上げております」
「……」
「あの方は、ご自身より四つ年下の女官と本気で本の貸し借りをなさるような方でございました。庭園の薔薇の一輪一輪に名をお付けになり、毎朝、声をおかけになっておられました。雷がお苦手で、嵐の夜は侍女の手を握っておいでになりました。お父上である国王陛下を、誰よりも尊敬しておいででございました」
アルトは自分の声が思いのほかしっかりしていることに、自分で驚いた。
「……素晴らしい姫君でいらしたのですね」
王女が静かに呟いた。
「はい」
「そのような方を、四年もの間、お側でお守りしておられた」
「はい」
「……そう」
王女はそれきり、しばらく何も言わなかった。
やがて彼女はアルトにもう一度目を合わせた。
「アルト卿。お立ちいただけますか」
アルトは立ち上がった。王女はアルトとほぼ同じ高さの目線だった。リーシェ姫よりもわずかに背が高い。
王女は自分の手をゆっくりと伸ばした。そしてアルトの胸の銀の薔薇章に、ほんの一瞬だけ、触れた。アルカディア王立護衛騎士団第二席の徽章。
けれどすぐに、王女は指を引いた。触れてしまったことに自分で気付いて、慌てて引っ込めた、という手の動きだった。
「……失礼いたしました」
王女は静かに告げた。
「私の母は、私が幼い頃、よく、アルカディアの物語を聞かせてくれました。空に浮かぶ大きな国、銀の薔薇の紋章を胸に下げた騎士たち、そしてその騎士たちがお守りした姫君のお話を。母はその物語を語る時、決まって泣いておりました」
「……」
「あの物語の中の銀の紋章が今、目の前に本当の物としてある。それが私の中でまだ整理がついておりません」
王女はアルトの胸の銀章にもう一度だけ視線を落とした。けれど、今度は手は伸ばさなかった。
「失礼。これは、私のただの動揺でございます」
王女は姿勢を正した。
アルトは何も言えなかった。
心の中で姫様、と呼びかけた。
もしも、あなたの血が本当にこの方の家に流れているのなら──その糸は、いつ、どこから始まったのでしょうか。
王女は深く息を吸い、いつもの王女の声を取り戻した。
「アルト・ヴェルナー卿。改めまして、サフィリア王国第一王女、リーシェリア・ヴァン・サフィリアでございます。本日のご来訪を、心より歓迎いたします」
「光栄に存じます、殿下」
「お話ししたいことがたくさんございます。けれどその前に、私から折り入ってのお願いを、お聞きいただけますか」
王女は椅子に座らず、立ったままアルトを見つめた。
「サフィリア王国は、いま、危機にございます」
王女の口調がわずかに引き締まった。
「海の魔物による被害は年々増し、隣国レイラントとの国境では緊張が高まり、国内では古き神を奉ずる教団が信徒を増やしております。父王は最善を尽くしておりますが、我が国はもう長くは保たぬかもしれません」
「……」
「ガレオがアルカディアの調査に向かったのは、私の願いでございました。古代の知恵の中に、この危機を脱する糸口があるかもしれない。そう信じて」
王女の声は静かだったが、強かった。
「そして今、その願いの最も尊い結実として、あなたがここにいらっしゃいます」
王女は深く息を吸った。
「アルト卿。どうか、サフィリアをお救いくださいませ」
王女は頭を下げた。
王族が、外国人の、しかも何の身分の保証もない一人の青年に対して頭を下げる。ガレオがわずかに息を呑む音がした。
アルトはしばらくの間、動けなかった。
心臓の鼓動が奇妙に静かになっていた。
自分の足の裏でサフィリアの大地を踏みしめている感覚が、急に現実味を帯びた。
姫様。
心の中で彼は呟いた。
あなたの遺言を、今、果たします。
アルトは再び片膝をついた。そして剣帯から『月の鏡』をゆっくりと抜いた。銀の刃が燭台の光を受けて淡く煌めいた。アルトは剣の刃を下に、柄を王女の方に向けて両手で捧げた。三百年前と同じ、護衛騎士団の宣誓の儀式の構えだった。
「アルト・ヴェルナー」
彼は自分の名を口にした。
「アルカディア王立護衛騎士団第二席。リーシェ姫のご遺言により、今、この剣を、リーシェリア・ヴァン・サフィリア王女殿下に捧げます」
「……」
「殿下のご命のある限り、殿下と、殿下の御国を、お守り申し上げます。剣は殿下のものとして、命は殿下のものとして」
アルトはもう一度頭を下げた。
「どうか、お受け取りくださいませ」
王女はしばらくの間、その剣を見つめていた。
やがて彼女は震える指先を伸ばし、剣の柄頭の水色の宝玉に軽く触れた。
「……お受けいたします、アルト卿」
王女の声もわずかに震えていた。
「我が国を、お守りください」
「はい」
「私の剣として」
「はい」
アルトは剣を自分の元へと戻した。そして立ち上がった。
三百年の時を経て、再び彼は一人の姫君に剣を捧げる騎士になった。
不思議と、心は静かだった。
*
アルトたちが応接間を辞した後、リーシェリア王女は一人、長椅子の前に残された。
暖炉の小さな火の音だけが、室内に響いていた。
王女はゆっくりと長椅子に腰を下ろした。膝の上で両手を軽く組み、目を閉じた。
幼い頃、母が絵本のように語ってくれたアルカディアの物語が、瞼の裏に蘇った。空に浮かぶ大きな国。銀の塔と、白い薔薇の庭。その庭で笑っていた、銀の髪の姫君。そして姫君の傍らに、いつも控えていた、銀の薔薇章を胸に下げた騎士。
その騎士の名を、母は教えてくれなかった。物語は名前のないまま、ただ「姫君と騎士」として、何度も繰り返された。
その騎士に、今日、名前があった。
アルト・ヴェルナー。
王女は静かに、自分の口でその名を反復した。三百年前のアルカディアの謁見の間で、姫君の口から呼ばれたであろう、その名を。
不思議だった。
彼は三百年前の人だ。本来であれば、死者と呼んでもおかしくない人だ。けれど、その所作も、声音も、過去のものではなく、今この時のものとして、王女の前に確かにあった。剣を捧げる時の指の形、視線の伏せ方、声の震えの抑え方──全部が、絵本の中の人のものではなく、血と肉を持った人のものだった。
物語が、現実になった。
その衝撃を、王女は自分の中でどう整理すればよいのか、まだ分からなかった。
母の語ってくれた物語が真実だったと知った娘の動揺でもある。
そして母の家に伝わる、紋章の薔薇。三日月と、一輪の薔薇。あの紋様と、彼の胸の銀の薔薇章とは、明らかに、同じ意匠だった。
母の物語と、母の家紋と、彼の存在。それらが何を意味するのか、王女には、まだ判じかねた。
ただひとつ、確かなことがあった。
この方を、軽く扱ってはならない。
彼が三百年前の物語の人であろうと、なかろうと、この方は今、ここで、自分の剣を私に捧げてくださった。私はその剣をお受けした。それは、サフィリアの王女として決して軽くしてはならない約束だ。
王女は深く息を吸い、姿勢を正した。
夕食までの時間、自分はやはり、サフィリアの王女として、彼を迎えねばならない。それは、変わらない。
変わらないことを、自分に言い聞かせた。
言い聞かせる必要がわずかにあった、ということに、王女は気づかぬふりをした。




