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第5話 港の喧騒



 港は活気で満ちていた。


 漁から戻った漁船、商品の積み下ろしをする商船、出航準備をする小型船。様々な船がひしめき合っていた。


 アルトは船を降りる前に、外套のフードを深く被った。ガレオの提案だった。


「いきなりその装束のまま港に降りると騒ぎになる。まずは王宮に話を通してから、正式にお披露目だ」


 とガレオは説明した。アルトは頷いた。


 タラップを降りる時、アルトは初めてサフィリアの大地を踏んだ。木板の桟橋のしなる感触。三百年ぶりに踏んだ、人間の作った人間の道。アルトはしばしその感触を味わった。


 港の向こうに町並みが広がっていた。木と白い漆喰の家々。路地に人々が行き交っていた。子供が走っていた。商人が声を張り上げていた。老女が洗濯物を干していた。


 生きている。この世界は生きている。


 アルカディアという、もう動かなくなった巨大な遺物の中で三百年眠っていた自分の、すぐ外側で。こんなにもたくさんの人々が、こんなにも活発に生きている。


 アルトの目にふと、わずかに熱いものが滲んだ。自分でもその理由はよく分からなかった。


 ガレオが隣で軽く笑った。


「いい顔してるな、騎士殿」


「……そうか?」


「いい顔だ。三百年前のアルカディア人ってのは、こういう顔を知ってたんだろうかね」


 アルトは答えなかった。


 ノエはその背後で、静かに何度か瞬きをした。


挿絵(By みてみん) 


 三人は港から王都の中心部へと歩き始めた。


 王都シャレーヌは、予想していたよりも騒がしい街だった。港から中心部に向かう石畳の道は、商人と漁師と職人で混み合っていた。木と漆喰で組まれた二階建ての家々がびっしりと両側に並び、その隙間からはいくつもの煙突の煙が上がっている。屋台では魚を焼く香ばしい煙、香辛料を炒める鋭い匂い、そして焼き立てのパンの甘い匂いが混ざり合っていた。


 アルトは外套のフードを目深に被ったまま、ガレオの数歩後ろを歩いていた。ノエはさらにその後ろを、音もなく追ってくる。


「目立たないようにな、騎士殿」


 ガレオは振り返らずに小声で告げた。


「あんたの剣の鞘、布で巻いてあるとはいえ、よく見れば只者じゃないと分かる。歩き方を変えてくれ」


「歩き方?」


「もうちょっと、なんつーか、こう、よれっと。猫背気味で、視線は地面。あんたは騎士団の歩き方が抜けてない」


 アルトは少し考えてから、わずかに肩を落とした。歩幅を狭め、踵から接地する癖を抑えて爪先寄りに変える。三百年振りの市井の歩き方だったが、すぐに思い出した。十代の頃、姫の護衛任務で街中の偵察に出ることもあった。あの頃の歩き方だ。


「お、なかなか様になってる」


 ガレオは肩越しに笑った。


「あんた、本当に二十一かい? 立ち振る舞いが妙に手慣れてる」


「俺の時代では、姫の身辺を守る護衛は街中の動きも仕込まれた。賊の偵察、要人の警護、火急の連絡。剣だけ振っていればいいわけじゃない」


「ふぅん。そりゃ便利だ。これからしばらく頼りにさせてもらうかもな」


 屋台の前を通り過ぎる時、アルトの足がふと止まりかけた。


 大きな鉄板の上で、薄く切った魚の身が、橙色の香辛料に絡められて焼かれていた。香りが鋭く、それでいて甘い。アルカディアにはなかった種類の香辛料だ。


 屋台の主人は陽に焼けた中年の男だった。アルトの視線に気付いて、にっと笑った。


「お客さん、一本どうだい? 朝獲れの白身魚に、東方産の香辛料」


 アルトはわずかに戸惑った。三百年前のアルカディアでは、屋台の主人が客に声をかけることはなかった。すべての売買は店の中で、丁寧な言葉で行われた。


「……いくらだ」


「銅貨一枚」


 アルトは銅貨を持っていなかった。


 ガレオが横から銅貨を一枚出した。


「すまんな、店主。一本もらおう」


 ガレオが受け取った串を、アルトに渡した。


「食ってみな、騎士殿。あんたの時代にはない味だ」


 アルトはフードの陰で、その串を口に運んだ。


 鋭い香辛料の刺激が、舌の奥に走った。続いて魚の身の甘い脂。そして焼き目の香ばしい香り。


 奇妙な味だった。けれど、悪くはなかった。むしろ。


「……うまいな」


 アルトは小さく呟いた。


 ガレオがにやりと笑った。


「ようこそ、今の世界へ」


 その時だった。


 子供が一人、人混みを縫って駆けてきた。歳の頃は五つか六つ。母親を見失ったのか、半ばべそをかきかけている。子供はそのまま、ノエの脚に勢いよくぶつかった。


「あっ──」


 子供は尻もちをつきかけた。ノエが咄嗟に、その細い腕を支えた。


 子供は驚いた顔で、ノエを見上げた。


「ごめんなさい、おねえちゃん」


 ノエは、わずかに、応答が遅れた。


 ほんの半拍。けれど確かに遅れた。


「……いえ」


 とノエはようやく告げた。


「お怪我は、ございませんか」


 子供は不思議そうな顔で頷くと、雑踏の中へ駆け戻っていった。母親と思しき女が向こうから手を振っていた。


 ノエはその後ろ姿を、しばらく見つめていた。


 アルトはその横顔を、フードの陰から、そっと見た。


 三百年、無人の宮殿の廊下を歩き続けた機械が、久しく忘れていた、生身の人間の手の温もりに触れた瞬間だった。姫様がご存命の頃には、毎日のように触れていたはずの温もりだった。


 ノエは何も言わなかった。けれど、その瞳の中の光が、いつもよりほんの少しだけ、強かった。


 道の角を曲がると、視界が開けた。


 広場だった。中央に古い石造りの噴水。その周囲を、花売りや家畜商や占い師の小さな店が囲んでいる。子供たちが噴水の縁に座って、何かを食べていた。


 アルトはふと足を止めた。


「どうした?」


 ガレオが振り返る。


「いや」


 アルトは首を振った。


 こういう光景を、姫は見たかったのかもしれない。


 そう思った。アルカディアの空中庭園には、いつも整えられた人工の風景しかなかった。市井の人々が広場で笑い、子供が走り、噴水の縁にパンくずがこぼれている。そういう何でもない景色を、姫は知らないまま死んだ。


 アルトはふと、もう一つ、別の視線を背後に感じた。


 振り向かなかった。


 代わりにフードの中で、わずかに眉を寄せた。


 誰かがこちらを見ている。


 三百年眠っていた騎士の本能が、はっきりとそう告げていた。


 ガレオが歩を緩めて、アルトの隣に並んだ。


「気付いたか」


「ああ」


 アルトはささやくように応じた。


「広場の左、書店の路地。三人」


「俺もそう数えた」


 ガレオは肩を竦めた。


「武器の影はないが、ただの観光客でもないな」


「ガレオ。心当たりがあるのか」


「……まあ、無くはない」


 ガレオは口の中で言葉を選ぶようにしてから、続けた。


「この時代にも、いろいろと面倒な手合いはいる。王宮への帰り道で人を見張ってる連中なんざ、そう多くはない。詳しいことは、王女様の前で話そう。あんたにもこれから知ってもらわなきゃならん」


 アルトは視線を動かさないまま、ノエに小声で告げた。


「ノエ。俺のすぐ後ろを離れるな」


「はい」


 ノエの応答は静かだった。


 その時、ノエがふと、何でもないような所作で振り返った。


 花売りの店に何か用があるかのように、首だけを後ろへ向ける。けれどその視線は、店ではなく、その奥の書店の路地の方へ、まっすぐに伸びていた。


 書店の路地の影で、三人のうちの一人が、わずかに身を引いた。


 ノエはそれを確認すると、何事もなかったように向き直った。


「坊ちゃま」


 ノエは静かに告げた。


「あの方々は、こちらに敵意は持っておられないようでございます。ただ、確認したいことがおありの様子で。私どもがどちらへ向かうのか、見届けたいだけかと存じます」


「……ノエ、それはお前の戦闘演算からの判断か」


「はい」


 アルトはわずかに頷いた。


 ガレオが肩越しにノエを見た。眼鏡の奥の目が、軽く瞠られていた。


「家政の腕だけじゃなかったか、お前さん」


「恐れ入ります」


 ノエは型通り、深く頭を下げた。


「行こう」


 とアルトは告げた。


 三人は広場を抜けた。背後の視線は、ノエの言葉通り、ただ追ってくるだけで、近づいてはこなかった。



   *



 王宮への正門は、丘の中腹にあった。


 王都の中心部からゆるやかに上る坂道を登ると、白い石灰岩で組まれた城壁が現れる。城壁の上には等間隔で衛兵が立ち、城門の両脇では二人組の門番が槍を構えていた。アルカディアの王宮と比べれば素朴な作りだが、生きて運用されている城だった。


「ガレオ・ヴィント、宮廷考古学院所属。報告のため帰還した」


 ガレオが懐から青銅の認証牌を取り出して掲げる。門番は牌を一瞥して、すぐに姿勢を正した。


「ガレオ殿。本日は王女殿下より直接の伝言を承っております。お戻り次第、別館の応接間までお運びくださいと」


「直接の?」


「はい」


 ガレオはわずかに眉を上げた。


「お連れの方は、お一人と聞いておりましたが」


 門番がアルトとノエに視線を向ける。


 ガレオは咳払いをして、いつもの軽口の調子に戻した。


「ああ、こちらは現地で合流した同行者だ。本件にとって極めて重要な人物だが、まずは王女殿下と私の面談の場で改めて紹介する。今は身分を伏せたい。許可してくれ」


 門番はわずかに躊躇したが、やがて頷いた。


「ガレオ殿の保証であれば」


 門が開かれた。


 王宮の敷地に入った瞬間、アルトはふと懐かしさのようなものを覚えた。アルカディアの王宮とは規模も様式もまったく違う。けれど敷石の磨かれ方や衛兵の規律、庭園の整え方。王家を支える人間たちの息遣いには、共通したものがある。三百年経っても、人が王を頂く時の所作には共通の文法があるらしい。


 ガレオは慣れた足取りで本館を回り込み、敷地の北側にある小ぶりの別館へと向かった。


「ここは王族の私的な応接に使われる館だ。表向きの謁見ではなく、内々の面会の時に使われる」


 ガレオは小声で説明した。


「王女様が『お戻り次第』とおっしゃるってことは、よっぽど急ぎの用件か、よっぽど内密の話か。いずれにしてもこっちにとっては好都合だ。フードを取らずに済む場所で話せる」


 別館の玄関で、侍女が三人を出迎えた。年若い少女と、中年の婦人と、老年の女性。三人とも背筋が伸びて目元が涼やかで、王宮勤めの最上級の侍女と見て取れた。


 老年の侍女が深く礼をした。


「ガレオ様。王女殿下が応接間でお待ちです。お連れの方々もどうぞ」


 三人は廊下を進んだ。


 廊下の壁には、王家の歴代当主の肖像画が並んでいた。サフィリア王家の祖と思しき初代の肖像から始まり、二代、三代と続いていく。アルトは何気なく目を走らせていたが、ある一枚の前で足が止まりかけた。


 王妃エルマと記された肖像。十五年前に薨去したという、リーシェリア王女の母親。


 緑色の柔らかい目をした、控えめな美しさの女性だった。リーシェ姫とは似ていない。


 アルトの視線は、その肖像から、自然と下へと滑った。


 肖像の額の下には、リッセン伯爵家の家紋が小さく刻まれていた。


 そして、その紋章を目にした瞬間。


 アルトの足が、止まった。


 中央に、三日月と、一輪の薔薇。


 薔薇。


 アルトの脳裏に、三百年前の夜の声が、唐突に蘇った。


 庭園の薔薇の前に、来てくださいませ。


 ええ。あなたが好きな、白い薔薇。


 あの夜の声。


 そしてアルカディア出発前夜、茨に戻った薔薇園の中で、たった一輪だけ咲きかけていた、白く萎れかけた花。


 その薔薇の続きが、もしかしたら、ここに。


 アルトはフードの陰で、深く息を吸った。


 今は急がない。


 まだ、王女には会っていない。


 アルトはガレオの後を、再び歩き始めた。


 廊下の突き当たりが応接間だった。老侍女が扉を開ける。


「ガレオ・ヴィント様、ご一行をお連れいたしました」


「お通しして」


 その声が聞こえた。


 アルトの足が一瞬、止まった。


 細く澄んで、けれど芯のある声。


 姫様の声だ。


 三百年前にアルカディアの謁見の間で何度も聞いた、あの声。


 違う。


 似ているだけだ。


 違うはずだ。


 アルトは自分にそう言い聞かせて、ガレオの後に続いて応接間に入った。


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