第4話 王女の名
異変は二日目の午後に起きた。
アルトは船尾の方でノエと共に空を眺めていた。海は穏やかだった。風は安定していた。すべてが平穏に見えた。
だがその瞬間、アルトの耳の奥に、奇妙な共鳴音のようなものが聞こえた。
アルトは咄嗟に剣の柄に手をかけた。護衛騎士団員の本能のような反応だった。三百年眠っていても、この勘は衰えていない。
ノエが彼の表情を見て、わずかに目を細めた。
「坊ちゃま、何か」
「分からない。ただ何か」
アルトは海面を見渡した。
そこにいる。言葉では説明できないが、何かが海面下にいる。
アルトの剣『月の鏡』が、淡く青い光を放ち始めた。近くに強い魔素を持つ生物がいる時、剣自体が反応して警告する機能だった。アルカディアの遺物としての、最も基本的な機能のひとつ。
「ガレオ!」
アルトは声を張った。
「船長を呼んでくれ! 何かが近くにいる!」
舳先で水筒を傾けていたガレオが、ぱっと顔を上げた。
「魔物か?」
「分からない。だが可能性は高い」
ガレオはすぐに船長室に走った。数十秒後、警鐘がけたたましく鳴り響いた。船員たちが一斉に、それぞれの戦闘配置に駆け出した。
アルトは剣の柄をしっかりと握った。
「ノエ」
「はい」
「船室に下がってくれ。お前を護衛できるほど、俺はまだこの船の構造を把握していない」
「……承知いたしました」
ノエは頷いて、すばやく船室の方へと下がっていった。
その瞬間、海面が揺れた。船の右舷側、水面下十メートルほど深くに、巨大な影。
アルトは剣を抜いた。銀の刀身が太陽の光を反射して、白く煌めいた。
「来るぞ!」
と船首の見張りが叫んだ。
直後、海面が爆発するように盛り上がった。巨大な水柱とともに、影が姿を現した。
大型の海蛇のような、しかし全身が硬質の鱗甲冑で覆われた生物。全長は船とほぼ同じか、わずかに大きい。長い、二股に分かれた尾を海面に叩きつけていた。頭は馬のように細長く、二対の発光する眼。口の周囲には無数の触手。
アルトは息を呑んだ。化け物。三百年前には確実にいなかった生物。
ガレオが後ろで叫んだ。
「中型の『裂顎』だ! こんな航路にゃ滅多に出ないはずだぞ……!」
「能書きは後だ!」
アルトは剣を構えた。
海蛇──『裂顎』は、巨大な頭部を船の右舷へと振り下ろした。衝撃と咆哮。船がぐらりと揺れた。船員の何人かが悲鳴をあげた。一人が揺れに耐えきれず海に投げ出されかけ、ガレオが咄嗟に腕を掴んで引き戻した。
アルトはその隙に、舳先の方へと駆けた。
護衛騎士団の足運び。三百年眠っても、肉体はまだ動く。舳先の張り出した先端まで、わずか二歩。そこを蹴って、宙へ跳んだ。
跳んだ瞬間、剣『月の鏡』が青白い光を纏った。刃を魔導で武装する、アルカディアの剣技。アルトが最も得意とするもののひとつだ。
ありがとう、姫様。
あなたの剣で、俺は戦います。
アルトは空中で身を翻した。そして振り下ろした。
一閃。青白い斬撃が、巨大な『裂顎』の頭部を上から下へと斜めに走った。
──届いた、と思った刹那、奇妙な手応えがあった。
硬い。鱗の奥に、もう一枚、別の硬い層がある。刃が、その層に一瞬だけ噛んで、弾かれかけた。アルトは思わず歯を食いしばり、押し切った。
鱗が、ようやく断ち切られた。厚い鱗の奥にあるはずの硬い骨さえも、まるで豆腐のように──いや、豆腐ではない。最後の一押しで、ようやく。
『裂顎』は声にならない呻きを漏らした。巨大な頭部がゆっくりと傾ぎ、やがてぐらりと海面へ崩れ落ちた。
海面に巨大な水柱が上がった。海面が赤く染まった。
アルトは舳先の手すりに片手で着地した。そのままふわりと甲板に降り立った。
沈黙が流れた。船員たちが息を呑んで、その光景を見ていた。ガレオは片手で自分の眼鏡の縁を軽く押さえた。
「……まったく」
と彼は呟いた。
「これはこれは。話には聞いていたがね」
アルトは剣を丁寧に鞘に戻した。そして振り返り、船長に軽く頭を下げた。
「全速で離れたほうがいい。死骸が他の魔物を呼ぶ」
船長エンドリックはぱくぱくと口を動かしていた。
が、すぐにはっと我に返って叫んだ。
「総員、進行を維持しろ! 推進装置最大! 死骸から距離を取れ!」
船員たちが慌てて動き始めた。
アルトはゆっくりと船尾の方へ歩いた。そこにノエが立っていた。
ノエは何も言わずに深く頭を下げた。
「お見事でございました、坊ちゃま」
と彼女は静かに言った。
「ご無事で何よりでございます」
「ありがとう」
アルトは軽く頷いた。そして自分の右手を見つめた。
まだ振れる。三百年経っても、俺の剣はまだ振れるんだな。それを確認できたことが、奇妙に嬉しかった。
自分にはまだ、できることがある。その実感。
ただ──と、アルトは無意識に右の指先を握り直した。あの最後の手応えだけが、奇妙に指の奥に残っていた。鱗の下のもう一枚。あれは何だったのか。三百年前の魔獣には、あんなものはなかった。
姫様。
俺はまだ生きてます。まだ戦えます。どうか見ていてください。
船は『裂顎』の死骸から急速に距離を取り始めた。
アルトはふと、自分の剣の鞘に視線を落とした。鞘に埋め込まれた青い宝玉が、まだほんのわずかに淡い光を残していた。
戦闘の余熱、と説明することもできる。アルカディアの剣は、強い魔素を解放したあと、しばらくの間こうして光を引きずる。
けれど、とアルトはふと別のことを考えた。
俺の力に、何かが反応している、ということはないだろうか。
海面下のずっと深いところに、まだもう一つの何かがいて、こちらをじっと見ている、ということは。
考えすぎだろう。
アルトは小さく頭を振った。
けれどその予感は、すぐには消えなかった。船尾の海面を見ても、もう影は何も見えなかった。それでも、海の底の深いところに何かがまだ確かにいる気がした。
*
その夜、船室の小さな机に向かって、アルトはガレオに改めて話を聞いていた。
ガレオはいくつかの紙を机の上に広げていた。
「これがサフィリア王国の現在の地図。これが王都シャレーヌの全景。これが王家の系図」
「系図」
「ああ。王家の」
ガレオは一枚の古びた羊皮紙をアルトの前に押し出した。そこにはサフィリア王国の歴代の王族の名前と、その血縁関係が、樹形図のように描かれていた。
アルトの視線が、何気なくその系図を辿った。
現国王の名。先代の名。さらにその上の系譜。
そして樹形図の一番下、現王家の三人の子女の欄に視線が落ちたとき──
時間が、止まった。
そこに、ひとつの名前があった。
リーシェリア。
アルトの指先が、わずかに震えた。机の縁を、無意識に強く掴んでいた。
ガレオは気づかずに、紙を指でなぞりながら解説を続けていた。
「現国王はエドガー三世。御年五十六歳。先代国王の崩御に伴い、二十二年前に即位。正妃はエルマ王妃。御年五十二歳。ただし十五年前にご病気で薨去。以降、国王は再婚していない。子女は三人。長男ライム王子、御年三十歳。長女リーシェリア王女、御年二十一歳。次男フィリス王子、御年十八歳──」
ガレオの声が、遠かった。
アルトは羊皮紙の上の、その四文字から目を離せないでいた。
偶然だろう。偶然似ているだけ。三百年も経って、たまたま似た名前の王女がいた。
けれど、その名はあまりにも近すぎた。
「アルト」
ガレオが顔を上げた。
「どうした。さっきから何も言わないが」
「……ガレオ」
アルトはようやく口を開いた。声がわずかに掠れていた。
「リーシェリア王女の、母方は」
「ん? ああ。それなら」
ガレオは紙の別の場所を指し示した。
「サフィリア王国の伝承では、現王妃エルマ様のご実家、リッセン伯爵家。その家系は口伝によれば、『遥か昔、海に沈んだ天空の国の最後の女王の血を引いている』とされる」
「……」
「もちろんこれは伝承だ。証拠はない。ただリッセン伯爵家の蔵にはアルカディア期と思しき家宝がいくつかある。中でも女王の指輪と呼ばれる銀の指輪が、家宝として伝わっている」
女王の指輪。
アルトは目を閉じた。
リーシェ姫。彼女には生涯、結ばれた相手はいなかったはずだ。アルトは騎士団員として彼女の身辺を知っていた。
けれど、三百年。三百年も経てば、何が起きていたとしても不思議はない。
姫様。
もしも、姫様の血が本当に今もこの世界に流れているのなら。そしてその血を引く人が、三百年後のサフィリアという国の王女として生きているのなら。
それは。
アルトはふと、あの最後の夜の庭園を思い出した。
白い薔薇の前で、いつまでも、待っております。
あの晩、姫が囁いた約束の声。
あの庭園の白い薔薇は、もう枯れて、ただの茨に戻ってしまった。けれど。
ふと、馬鹿げた、けれど振り払えない想念がアルトの胸を過ぎった。
もしも姫がご自身の代で結ばれることなく逝かれたとしても。リッセン伯爵家の系譜が、本当に姫の血を引いているのなら。
その流れは、いったいどこから始まったのか。
「アルト?」
ガレオの声が彼を現実に引き戻した。
「ああ、すまない」
アルトは目を開けた。そしてガレオの目を見た。
「リーシェリア王女はどんな方だ?」
ガレオはしばらく考えた。
「俺は宮廷出入りの考古学者だから、王女様にもお目通りはある。直接の会話はそう多くはないが」
「うん」
「聡明でお優しい方、というのが宮中での通り名だな」
ガレオはふっと笑った。
「ご病弱で、外にはあまり出られない。だが内政には熱心で、文書をよく読んでおられると聞く。庶民派でもある。王宮をよく抜け出して、町までお忍びで降りてこられるという噂もあるな」
「……」
「いま、サフィリアは苦しい時代だ。海の魔物の被害は年々増えている。隣国との小競り合いも絶えない。王家は難局をなんとか乗り切ろうとしている。リーシェリア王女はその難局を、誰よりも肌で感じておられるお方だと思う」
ガレオは紙を整理しながら続けた。
「『神の遺物』の調査も王女様の発案だと聞いた。アルカディアの技術をなんとかして取り戻し、国を救いたい、というのが王女様の悲願らしい」
アルトは頷いた。
その人が、俺を待っているのか。
アルトの中に、不思議な感慨が湧いた。
まだ会ってもいない、見たこともないその王女。けれど姫様の血を引いているかもしれない、その王女。そして姫様と同じく、自国を救おうとしている、その王女。
会いたい。
アルトは強くそう思った。
三百年経ってもなお、この世界の片隅で、彼女のような人が生きている。その事実を、自分の目で確かめたい。
それがすべての始まりになる。そんな予感がした。
机の上のランプの灯が、海風で小さく揺れた。
アルトは羊皮紙の系図を、もう一度じっと見つめた。
*
三日目の朝。
船がサフィリアの群島に近づいた。海上の霧が、ゆっくりと晴れていった。
そして霧の向こうに、島影が現れた。
それは見慣れない、けれど美しい光景だった。
大きな緑の島。島の中央には青々とした丘陵地帯。海岸線には点々と白い建物。そして最も高い丘の上に、白亜の城塞。
サフィリア王都『シャレーヌ』だった。
アルトは舳先に立って、その光景をじっと見つめた。
これが今の世界の、人々の暮らす場所。俺がこれから生きていく場所。
朝日が城塞の白い壁を淡く照らしていた。城塞のさらに上、最も高い塔の屋根には、青い王家の旗がたなびいていた。
「サフィリア王国・王都『シャレーヌ』」
とガレオは隣で軽く両手を広げた。
「ようこそ、騎士殿。新しい世界の玄関口に」
アルトは深く息を吸った。
潮の香り。木々の香り。そして人々の暮らしの香り。アルカディアでは決して嗅ぐことのなかった、生きた島の香り。
「……ああ」
とアルトは応じた。
「来たらしいな」
ノエがその背後にすでに控えていた。三人の影が、舳先に長く伸びていた。
船はゆっくりと港へと向かっていく。
白亜の城塞はまだ遠かった。けれど、もう確かに見えていた。
あの塔の、どこかに、リーシェリアという名の王女がいる。
アルトはそう思った。
彼女が姫様の血を引いているかどうかは、まだ分からない。けれどガレオが語ったその姿には、紛れもなく姫様と同じものがひとつだけあった。
自国を救いたい、と願う心。
それは、三百年前のリーシェ姫が、最期まで持ち続けていたものだった。
俺の剣には、まだ使い道があるかもしれない。
アルカディアの外縁部でガレオに告げた自分自身の言葉が、もう一度アルトの中で響いた。
白亜の城塞に向けて、船は静かに進んでいった。
海風が銀の髪を揺らした。
アルトは右手を剣の柄に軽く添えた。
昨夜、系図の上で名前を見つけたときに震えた指は、もう震えてはいなかった。




