第3話 海を渡る騎士
船は思いの外、原始的な作りをしていた。
木製の三本マスト、帆走主体、しかし船尾と船首には何やら錆びた金属製の装置が組み込まれている。後で分かったことだが、これは「アルカディアの遺物」を改修した簡易的な魔導推進装置らしい。
船員は五人。全員、日に焼けた肌の屈強な男たちだった。
ガレオが甲板に降り立つと、彼らはぱっと敬礼した。
「ガレオ先生! 御無事で何より!」
「いいタイミングだったろ?」
ガレオは軽く片手を振った。
「ええと、こちらの方は……」
船員のひとり、髭面の中年男──船長らしき男が、訝しげにアルトとノエに視線を向けた。
アルトは外套のフードを少し下ろした。
五人の船員が息を呑んだ。銀の髪、灰青の瞳、護衛騎士団の正装の襟。そして腰に下げた薔薇の紋章の銀の鞘。
髭面の船長は、しばらく言葉を失ったままだった。やがてぐらりと一歩後ろに下がった。
「これは……ガレオ先生、これはまさか」
「ああ、まあ、そのまさかだ」
ガレオはにっと笑った。
「諸君、紹介する。アルト・ヴェルナー殿。三百年前、アルカディアにてリーシェ姫の身辺護衛を務めておられた、本物の護衛騎士団員だ」
「な──」
「治療ポットで眠っておられたが、つい先日お目覚めになった。今後しばらくサフィリアにご滞在いただく」
船長は口をぱくぱくとさせて何かを言おうとした。けれど結局、声は出てこなかった。
アルトはわずかに頭を下げた。
「世話になる」
「は、ははっ!」
船長は慌てて深々と頭を下げた。
「と、とんでもないお言葉でございます……! こ、こちら、サフィリア王立調査船『シュト・カデーラ号』、船長のエンドリックと申します……!」
他の四人の船員も慌てて敬礼した。
アルトは彼らの様子をしばし観察した。
まるで神話の英雄か教皇でも見るような目つきで、彼らは自分を見ていた。アルカディアの住人、それだけでこれだけの反応か。三百年とは本当に長いのだと、アルトは改めて痛感した。
「ガレオ」
アルトは横の男に小声で囁いた。
「俺はそんなに大した者じゃない」
「いや、これは大した者なんだよ。あんたが大したかどうかじゃなく、あんたが『そういう存在』だってことが大したわけだ」
ガレオはにこやかに応じた。
「ま、追々慣れるさ。さあ、出発だ。さっさとここを離れよう」
船長エンドリックは慌てて指示を出し始めた。船員たちが機敏に帆を上げ、推進装置を起動する。
船はゆっくりとアルカディアの外壁から離れていった。
アルトは船尾に立った。ノエがその隣に来た。
三百年の故郷が、ゆっくりと夜の海の中で遠ざかっていく。月のない夜だったが、星明かりが辛うじて、アルカディアの輪郭を浮かび上がらせていた。巨大な、海の上の廃墟。
アルトはそれを見つめ続けた。ノエも無言で、同じ方向を見ていた。
「ノエ」
アルトはぽつりと呟いた。
「いつか戻ってこられるだろうか」
「はい」
ノエは間髪入れずに答えた。
「坊ちゃまがそうお望みであれば」
「……そうか」
アルカディアの影は徐々に小さくなり、やがて星空に紛れて見えなくなった。
アルトは船尾の手すりから視線を、進路の方向へと向け直した。そこからは、見たことのない海が広がっていた。
*
サフィリアまでの航海は、三日の予定だった。
アルトに与えられたのは、船長室の隣の小さな個室だった。本来は客用の高級な部屋ではない。けれど現代の船にとっては最も丁重な扱いの部屋なのだろう、と察せられた。
ノエは船員用の小部屋を断り、扉の外で待機すると申し出た。船員たちは戸惑ったが、アルトが「彼女のしたいようにさせてくれ」と告げると、彼らは恭しく従った。
出発の翌朝、アルトは甲板に出た。
海風が強かった。太陽は雲の合間から白い光を海面に落としている。波頭は銀色に砕けている。船は北東に向けて軽快に進んでいた。
甲板では船員たちがてきぱきと作業をしていた。アルトに気付くと、彼らはすぐに敬礼の姿勢を取った。アルトは軽く手を振ってそれを抑えた。
「気にしないでくれ」
「で、ですが」
「俺は今、お前たちの船の客に過ぎない。普通に扱ってくれ」
「は、はい!」
船員たちは戸惑いながらも作業に戻った。
アルトは舳先の方へと歩いていった。そこにはガレオが先に来ていた。朝の太陽を受けながら手すりにもたれ、何かを書き付けている。手帳と鉛筆。
「おはよう」
「おはよう、騎士殿」
ガレオはにこやかに彼を迎えた。
「ぐっすり眠れたかい?」
「ああ。久しぶりに揺れる場所で寝た」
「あんたが眠ってる間に空の上を漂ってたのに、揺れる場所が久しぶりっていうのは皮肉な話だな」
アルトはふっと笑った。確かに皮肉な話だった。
アルカディアは姿勢制御装置が常に働いていたため、まったく揺れなかった。一方、海上の船は絶えず揺れる。けれど不思議と、その揺れは悪いものではなかった。地面と違って、足の下に生き物がいるような感触がある。
アルトはガレオの隣に並んで海を見つめた。
「ガレオ。サフィリアという国について、もう少し教えてくれ」
「いいぜ。何が知りたい?」
「全部だ」
ガレオは笑った。
「全部ね。じゃ、簡単に」
そう言ってガレオは手帳のページを繰った。
「サフィリア王国。建国およそ百八十年前。アルカディア墜落の影響で世界中の海面が上昇し、地上の大陸の大半が水没した、その後に成立した海洋小国群のひとつだ」
「海洋小国群?」
「ああ。今の世界にはもう『大陸』はない。あるのはいくつかの『大島嶼』と無数の小島だけだ。海面が上がってかつての山脈や高地が、島として残った」
「……」
「サフィリアはその中の中規模の島嶼に成立した王国だ。総人口、推定三十万。首都『シャレーヌ』を中心に、十二の主要な町と無数の漁村で構成されている」
ガレオは手帳に小さな地図を描いて見せた。中央に大きな島。その周囲にいくつかの小さな衛星島。それらを点線で結んだ航路。
アルトはそれをじっと見た。
「文明レベルは?」
「あんたの時代でいうと、いや、難しいな。あんたの時代の最盛期で言えば、二段階か三段階落ちてる、と思ってもらえばいい」
「具体的には」
「魔導機関はほぼ失われた。残っているのはアルカディア期の遺物の一部の改修品のみ。動力は基本的に風と人力、家畜、そして限られた魔石」
「冶金は?」
「鉄器、青銅器、ある程度の鋼。だがアルカディア期のような特殊合金はほぼ作れない」
「医療は?」
「薬草学が中心。外科手術は簡単なものはできる。複雑なものはほぼ不可能。アルカディアの医療機器はもう、誰も使い方がわからない」
アルトはゆっくりと息を吐いた。
そういう時代になっているのか。
「魔法は」
「ほぼ消えた」
ガレオは肩を竦めた。
「使える人間はほんの一握り。それも簡単な治癒や点火、明かり、その程度。あんたみたいに剣に魔導を纏わせて戦える奴は、まあ一人もいない」
「……」
「だからまあ、あんたがサフィリアに行ったら、いきなり神様扱いされる」
ガレオはにやにや笑った。
「悪いけど心の準備はしておいてくれよ」
アルトは深い息を吐いた。
神様扱い、か。三百年前の自分に、誰がそう告げただろうか。護衛騎士団に所属するごく普通の青年。それなりに腕は立ったが、それ以上ではなかった。アルカディアには、自分よりずっと強い騎士がいくらでもいた。
その自分が、神様扱い。
「ガレオ」
「ん?」
「俺は何をすべきだと思う?」
ガレオはふと視線を海からアルトに移した。
「すべきこと、ねえ」
「ああ」
「そりゃ俺が決めることじゃないだろ、騎士殿」
「だが、知見はあるはずだ」
「ふぅん」
ガレオはしばらく考えた。それから空を見上げた。
「俺の意見、ってことならまあこう思うね」
「うん」
「アルカディアは三百年前、地上の人々を見下ろしていた空の都だ。豊かで美しく強かった。けれど地上には何もしてやらなかった。だから墜落した時、地上の人々を巻き添えにする形になっちまった」
「……」
「で、結果、地上の人々は今、苦しんでいる」
ガレオは視線を海に戻した。
「これは過去のアルカディアが出来なかったことを、今のあんたができる立場にいるってことだと思うんだ」
「……」
「アルカディアの最後の住人として。アルカディアが残した最後のひとかけらの良心として。あんたは地上の連中に手を貸す権利がある。そしてたぶん、義務もある」
ガレオは軽く片手を上げた。
「と、まあこんな具合の俺の意見だ。聞き流してくれて構わねえ」
アルトはしばし無言だった。
ガレオの語る「義務」という言葉が、不思議に彼の胸に染み込んだ。そして姫の遺言を思い出した。
もしも、この世界がいつかまた、誰かに守られるべきものになっていたら。その時はどうか、あなたの剣を、その誰かのために使ってあげて。
姫様も同じことをお考えだったのか。
俺の剣を、地上のために、と。
アルトは海に向かって深く息を吐いた。
「いい意見だ、ガレオ」
「お気に召して光栄だ」
「俺は姫の遺言を果たしたい。それはもう決めている」
ガレオはにこやかに頷いた。
しばらく二人は無言で海を見つめていた。朝の光が海面に銀の鱗を散らしていた。
舵輪の方で誰かが船員に何か指示を出していた。船首の方では別の船員が綱を結び直していた。船というものは、たくさんの小さな仕事の集積でできている。アルトはその様子を、しばらく眺めていた。
ふと、視界の端で、ノエが船員の一人と何かを話していた。
ノエは扉の外で待機すると言ったはずだったが、頼まれて何かを手伝っているらしい。船員は遠慮がちにノエに頼みごとをしていたが、ノエが手早く何かを片付けてみせると、もう一人別の船員が興味深そうに近寄ってきた。
アルトはふっと頬を緩めた。
ノエはすぐに居場所を見つけるだろう。三百年たった一人で都市を守ってきた彼女が、今度はたくさんの人間のいる場所で何かを始めようとしている。
それで、いい。
アルトはそう思った。
北東の彼方、まだ見ぬサフィリアの島影が、明日にはこの目に映るはずだった。




