第2話 別れの五日間
アルカディアを発つまでの五日間を、アルトは奇妙で厳粛な時間として過ごした。
ガレオが調査を続ける間、アルトはノエを伴って都市の各所を見て回った。別れの儀式のようなものだった。
王宮の謁見の間。先王とリーシェが座った玉座は、半分朽ちて雨ざらしになっていた。天井の一部が崩落し、そこから差し込む光が、玉座の脚元に積もった砂粒の山を淡く照らしていた。
アルトは玉座の前でしばし無言で立ち尽くした。
ここでアルトは初めてリーシェに護衛騎士としての叙任を受けた。十七歳の春のことだ。リーシェは当時十六歳。彼女は緊張で頬を紅潮させながら、それでもまっすぐにアルトの肩に剣を置いた。
「アルト・ヴェルナー」
と彼女の細い声が玉座の上から降ってきた。
「あなたを、わたしの剣に任じます」
三百年前の声。もう誰にも聞かれることのない声。
アルトはゆっくりと玉座に向かって片膝をついた。そして長い間、頭を垂れていた。
ノエはその背後で両手を前で組んで控えていた。機械の彼女には、その光景がどんな意味を持つかは本当の意味では理解できないだろう。けれど彼女もまた、長い時間、声を発さなかった。
やがてアルトは立ち上がり、玉座に背を向けた。
「行こう、ノエ」
「はい」
もう振り返らなかった。振り返らないのが、彼なりの別れ方だった。
*
続いてアルトは騎士団の詰所を訪れた。
ここはもうほとんどが瓦礫と化していた。屋根の半分が落ち、訓練場には海風が吹き抜けていた。けれどロッカールームの扉だけは、なぜか残っていた。
アルトは自分のロッカーを開けた。
中には予備の制服、剣の手入れ道具、そして一冊の手帳が入っていた。革表紙の小さな日誌。もう紙はぼろぼろで、開いた途端に何枚かが粉々になりかけた。けれど最後のページに、辛うじて読める文字が残っていた。
『姫様、本日もご健康にて。庭園にて茶会。ハーブティーをご所望。アルカディア産の蜂蜜が品薄。次回までに調達。』
自分の字だった。病に倒れるほんの数週間前の、何でもない業務日誌の一文。
姫様、本日もご健康にて。
アルトはその文字をしばらく見つめた。それから手帳をそっと閉じ、内ポケットに収めた。
持ち出すべきものは、これだけだった。
アルトは、王宮の西側の庭園に立ち寄った。
ここに来るつもりは、当初なかった。けれど足が自然とその方向に向いた。
白い薔薇の畝があった。あったはずだった。
今はただ、茨の塊が不規則に伸び広がっているだけだった。手入れを失った薔薇は三百年の間に元の野生に近いものに戻り、白い花弁を結ぶ力すらほとんど失っていた。それでもよく見ると、茨の合間の小さな枝の先端に一つだけ、白く萎れかけた花が咲きかけていた。
アルトはその花を、じっと見つめた。
ノエが少し離れて控えていた。
「ノエ」
「はい」
「庭師は、いつまでいた?」
「リーシェ姫様がご崩御なさるまで、私の同型機が一体、専属で務めておりました」
「姫がいなくなってからは」
「庭師を続ける意味を、誰も持てなくなりました」
アルトは頷いた。
花に手を触れることはしなかった。ただ視線でその一輪をじっと辿ってから、踵を返した。
アルカディア下層区。
ここはもう海面下に水没している区画だ。だがいくつかの区画は、緊急防水扉によって辛うじて空気が保たれていた。アルトはノエの先導で、そのうちのひとつ──王立図書館の地下分室に降りた。
地下分室は半ば水没していた。
階段の途中までは歩けたが、その先は腰まで海水が満ちていた。アルトはそこで立ち止まった。
「ここに何があるんだ?」
ノエはわずかに視線を伏せた。
「リーシェ姫様が最後にお過ごしになった場所でございます」
「……?」
「姫様は晩年、図書館にお籠りになることが多くございました。アルト坊ちゃまの治療ポットを安置していたのは、当時のこの分室の隣でございました」
「──」
「ご病気が進行されてからも、姫様はご自身の足でこちらまで通い、坊ちゃまの『お見舞い』を続けておられました」
アルトは海水に没した階段の先を見つめた。水面は静かで、わずかに揺れていた。そこに自分の顔が映った。
姫がここを毎日降りてきた。俺はその隣で何百年も眠っていた。
アルトはしばらくそこを動けなかった。
やがて剣帯から短剣を一本抜いた。そしてその短剣を海水の中に静かに滑り落とした。ぽちゃん、と小さな音がして、銀の刃はゆっくりと水底へと沈んでいった。
「……」
ノエは何も問わなかった。
アルトは踵を返した。
「もう十分だ。行こう」
「はい」
ノエは深く頷いた。
護衛騎士は別れの代わりに武器を遺すことがある。古いアルカディアの伝統に、それはあった。「ここに私の剣を一振、置いていきます」と。「あなたを守れなかった代わりに」と。
ノエはその意味を知っていた。
階段を上りながら、ノエはほんのわずか、自分の足音を意識した。
三百年の間に、彼女が宮殿の床を踏んだ足音は、もう数えきれない。けれどその足音が「外に向かって運ばれる」のは、初めてだった。
お別れですね。
誰に対する別れなのかは、彼女自身にも分からなかった。
*
五日目の夜。アルカディアの外縁部。
月のない、星だけが冴え冴えと光る夜だった。
アルトはガレオと共に、岩場のような外壁の張り出しに腰を下ろし、海面を見つめていた。ノエは二人の少し後ろで控えるように立っていた。
旅装は整っていた。アルトは護衛騎士団の正装の上に、ガレオが用意してくれた地味な外套を羽織っていた。あまり目立つと地上の人間を驚かせる、という配慮だった。剣帯には姫から託された『月の鏡』。
ノエはメイド服のままだった。彼女に旅装は必要ない。服装は彼女の存在そのものの一部だ。ただ目立たないように、上から旅外套を一枚羽織っていた。
ガレオはリュックの中身を最後に確認しながら、軽口を叩いていた。
「迎えの船はたぶんあと半刻ほどで来る。海上ランプを灯すのは船の影が見えてからだ。早く灯すと近くの魔物を寄せちまうかもしれん」
「魔物か」
「ああ」
アルトは暗い海面を見つめた。
「どんな見た目だ?」
「いろいろさ」
ガレオは肩を竦めた。
「海蛇みたいなのもいれば、巨大な甲殻類みたいなのもいる。蛸の足が一本だけで全身、みたいなのもな。共通してるのはひとつ。どれも馬鹿でかい」
「……」
「俺たちがサフィリアから乗ってきた船で全長二十メートルほど。海の魔物の小型のやつでも、それと同じくらいはあるな」
「小型で?」
「うん、小型で」
ガレオはにやりと笑った。
「中型でその三倍。大型でその十倍。『主』っていう各海域の特大個体になると、もう化け物だ。出くわせば、船が一隻丸呑みされる」
アルトはしばし無言だった。やがて低く呟いた。
「俺の時代にはいなかったぞ、そんなものは」
「だろうな」
「海の生物が、ある日突然ああなったのか」
「諸説あるが、有力なのは『魔導機関の暴走説』だ」
ガレオはリュックを閉じながら続けた。
「アルカディア墜落の際、浮遊機構の魔導機関が暴走して、莫大な量の魔素が海中にぶちまけられた。そこに棲んでいた魚や貝がそれを取り込んで肥大化・凶暴化したんじゃないか。それが俺たち学者の有力な仮説さ」
「ただな。これは俺の与太話だと思って聞いてくれ。自然にこうなったにしては、でかい個体ほど、まるで誰かが造ったみたいに形が整ってる。そう言う学者もいるにはいるんだ」
アルトの胸の奥に、鋭く苦いものが走った。
アルカディアの墜落が原因。ならば三百年後の地上を脅かすこの「魔物」も、元を辿ればアルトの故郷が撒き散らしたものということになる。でかい個体ほど造られたみたいに整っている──さっきのガレオの言葉が、妙に耳に残った。
「責任、感じるかい?」
ガレオはふと横目でアルトを見た。
アルトは何も答えなかった。
ガレオは苦笑した。
「冗談だ、騎士殿。あんた個人の責任じゃない。アルカディアっていう国の責任さ。そしてそのアルカディアはもうない。誰も責任なんて取れねえ」
「……」
「でも今、目の前で苦しんでる人間がいるってのは別の話だ」
ガレオは海を見つめた。
「あんたが今、剣を握れるってのは、それだけで十分な意味がある」
ガレオの軽口の中に、ふと芯のある声音が混じった。
アルトはその横顔を見た。軽薄に見えるこの男も、何かを背負って、こうしてこんな辺境まで来ているのだろう。そう思った。
「ガレオ」
「ん?」
「お前はなぜ考古学者になった?」
ガレオはしばらく目を瞬かせて、それからぐっと伸びをした。
「ふぅん、興味湧いた?」
「ああ」
「俺はね、サフィリアの首都郊外で生まれたんだ。漁師町の出さ。子どもの頃、村のすぐ近くに古い遺跡があってね。みんな近寄っちゃいけない、って言ってた」
「……」
「でも俺は気になって入った。中に古い装置があった。何を動かすのかも分からない、訳の分からない銀色の機械。光が点いたり消えたりしてた」
ガレオは薄く笑った。
「俺はそれに惚れちまった。なぜかわかんない。けどその時、俺は決めた。これを作った連中のことをいつか知る、って」
「……」
「で、考古学者になった、というわけさ。あんたみたいなアルカディアの本物に会えるなんて、夢にも思わなかったがね」
アルトはふっと笑った。三百年の時を経て、自分のかつての故郷を「作った連中」と呼ばれる時代に、自分は生きている。不思議な気分だった。
不意にガレオが立ち上がった。
「来たな」
アルトも海面を見た。
遠く、闇の中に小さな船影が浮かんでいた。灯火は灯していない。ガレオの言っていた通り、魔物を警戒した潜航のような航行。船はゆっくりと、しかし確実に、アルカディアに近づいてきていた。
「あれがサフィリアの船か」
「ああ」
ガレオはリュックから特殊なランプを取り出した。
「魔導式の信号灯だ。アルカディアの遺物だがな。ほら、こうやって」
ガレオがランプを起動すると、青白い光が三度規則的に瞬いた。船から同じパターンの光が返ってきた。
「合図成立。あとは向こうがこっちに横付けするのを待つだけだ」
ガレオはランプをしまった。
アルトはふと、後ろに立つノエを振り返った。
彼女は自分の旅外套をしっかりと身に着けて、いつもと変わらない穏やかな顔で立っていた。
「ノエ」
「はい」
「いいんだな」
アルトの問いの意味を、ノエはすぐに悟った。
三百年、自分が「守り続けた」アルカディアを置いていくことに、迷いはないか。そういう問いだった。
ノエはすぐには答えなかった。
やがてまっすぐに海の彼方を見た。
「……アルカディアは」
とノエは静かに口を開いた。
「私が三百年、守ってまいりました。住人のいなくなった都市を、私は守るに値する場所だと思って守ってまいりました」
「……」
「ですが坊ちゃま。私はわかっていたのです」
ノエは視線を海からアルトに移した。
「都市はただの器でございます。アルカディアの本体は、もうずっと前に失われていたのだと」
「……」
「それをいま改めて、思い知りました」
ノエの機械の瞳に、ほのかに何かが宿った。
「都市は、人がいて初めて都市でございます。坊ちゃまがお目覚めになったいま、私の守るべきものは、もうここではございません」
ノエは丁寧に頭を下げた。
「お供させていただきます。世界の果てまで」
アルトは彼女の頭頂をじっと見つめた。
三百年、ひとりでこの廃墟を守ってきたお前のことを、俺は想像することしかできない。けれど。
「ありがとう」
とアルトは短く言った。
ノエは深く頷いて姿勢を戻した。
やがて船がアルカディアの外縁部に、ゆっくりと横付けされた。
三百年眠っていた騎士の、地上への旅が、いま、始まろうとしていた。




