第1話 世界の海の片隅で
病室の窓から、夜のアルカディアが見えた。
眼下に広がるのは雲海。整えられた庭園の灯火が、白い霧の上に薄く浮かんで揺れていた。アルトの守ってきた風景。三百年後にはもう存在しない、と彼自身は知らない風景。
「アルト。聞こえていますか」
ベッドの傍らから、リーシェ姫の声がした。
アルトは枕の上で、ゆっくりと顔をそちらに向けた。寝間着の襟が肌に擦れるだけで皮膚が痛む。魔導毒は彼の血の流れの隅々まで、すでに行き渡っていた。
「……はい、姫様」
声は掠れていた。
「医師団から、決定の報告を受けました」
姫はベッドの脇に膝をついて、アルトの手を取った。
「明日の朝、治療ポットに、お入りいただきます」
「……」
アルトは何かを言おうとして、咳き込んだ。
その間、姫は彼の手をじっと握り続けていた。十六歳の春から見続けてきた、白く細い指。けれどその指の関節に、いつの間にか、わずかな疲れの色が滲んでいた。気のせいか、見間違いか。アルトの薄れかけた意識では、判じようがなかった。
「目覚めるのは、長くても一年後、と医師団は申しております」
「……はい」
「短ければ、一週間後」
「はい」
「ですから、ほんの少しの間、お別れです」
姫はそう告げて、微笑んだ。
それは、いつもの彼女の微笑みだった。アルトが幼い頃から、何度となく向けられてきた微笑み。けれどその夜の微笑みには、どこか、ふっと息を抜くような気配が混じっていた。
「姫様」
「はい」
「目覚めましたら、まずどちらに参ればよろしいでしょうか」
アルトは熱に浮かされた声で問うた。仕事の話だった。三百年前、二人の間ではそうした話ばかりが交わされてきた。
「そうですね」
姫は少し考えてから、答えた。
「庭園の薔薇の前に、来てくださいませ」
「庭園の、薔薇」
「ええ。あなたが好きな、白い薔薇」
アルトは目を閉じた。瞼の裏に、王宮西側の庭園が浮かんだ。手入れの行き届いた白い薔薇の畝。姫が幼い頃から大切にしてきた一画。
「……承知いたしました」
「待っております」
姫の声は、子守唄のようだった。
「いつまでも、待っております」
その言葉の意味を、アルトはその時、深く考えなかった。
ただ、姫が握り続けてくれる指の温度だけが、彼の意識の最後の岸辺に、長く、長く、残っていた。
翌朝、アルトが治療ポットに入ったことを、アルトの意識はもう知らなかった。
姫が、ポットの蓋が閉じられた後も、長い間、その傍らから立ち去らなかったことも。
目覚めの感覚は、水の底から浮き上がるそれによく似ていた。
まず音が戻ってきた。低く規則正しく、何かを吐き出すような音。空気弁が緩む音だ。それから薄い液体が引いていく感触。皮膚を伝って流れ落ちる温い水が、足の裏から床へと吸い込まれていく。
そして光が来た。
まぶたの裏を貫く、青白く澄んだ光。記憶にある「アルカディアの夜明け」とよく似ていた。けれどどこか色が違う。本物の朝のような暖かみがない。冷たく、静かで、まるで死人の額に当てた手のような光だった。
アルト・ヴェルナーは目を開けた。
視界はぼやけていて、しばらくの間、自分が誰なのかも判然としなかった。ただ喉の奥に張り付くような違和感と、関節の節々に走る鈍い痛みだけが、自分という身体の輪郭を教えてくれる。
治療ポット。半球形の透明な蓋。その内側に、自分の顔がぼんやりと映り込んでいるのが見えた。蒼白い肌。乱れた銀の髪。淡い灰青色の瞳には、まだ夢の残滓のような虚ろさが滲んでいる。
「……」
声を出そうとして、咳き込んだ。
喉が裂けるように痛む。何百年もの間、使われなかった楽器のように、音の出し方を忘れている。アルトは何度か息を整えてから、ゆっくりと身を起こした。
ポットの蓋はすでに半分ほど開いている。
いつ、誰が開けたのか。
そう思った時、ようやく意識の表層に現実が戻ってきた。
俺はリーシェ姫を守る護衛騎士だ。
そう、そうだ。自分は王立護衛騎士団第二席。アルカディア王国の姫君リーシェに仕える、ただ一人の。
病に倒れた。重い、魔導毒による呪詛性の病。命の灯は数週間と保たないと診断された。だから――。
「……ポットに、入った」
掠れた声でアルトは自分自身に確認するように呟いた。
治療ポット。アルカディアの医療技術の粋を集めた装置。長期間の冷凍睡眠に近い状態で身体を保ち、その間に魔導毒を中和していく。目覚めるのは、最短で一週間後。長くとも、一年後。そのはずだった。
視線を上げて、アルトは初めて自分が放り込まれた光景に気が付いた。
部屋全体に薄く埃が積もっていた。
治療ポットの周りを囲む計器類。淡く光るホロディスプレイ。それらは今も動いている。けれどその表面には灰色の膜が張っていて、長い時間が経過したことを物語っていた。
壁際に並んでいるはずの治療用備品の棚。そこにあったはずの薬瓶や注射器の類は、半分以上が中身を失って、瓶だけが整然と並んでいた。残った薬液は、底に沈殿し、変色している。
部屋の隅の、観葉植物用の鉢。そこに植えられていたはずのアルカディア銀葉樹の苗木は、もう存在していなかった。土だけが、乾ききって割れていた。
アルトはポットの中からゆっくりと足を下ろした。
床に触れた瞬間、踵が冷たい何かを踏んだ。見ると、それは小さなネジだった。緑色の錆びに覆われた、小さな螺子。装置から落ちて、何年も、誰にも拾われずに、そこに転がっていたのだろうネジ。
不意に心臓が跳ねた。
「……時間は」
アルトは弾かれたようにポットの操作盤に視線を走らせた。
表示装置はまだ生きていた。アルカディアの神聖文字で、何かが書かれている。
経過時間。
そう書かれた文字の隣に、数字が並んでいた。
五桁の数字。いや、六桁か。
アルトは数字を読み取って、しばらくの間、その意味を理解することができなかった。
三回、瞬きをしてから、ようやく彼は声を漏らした。
「……うそ、だろ」
経過時間、おおよそ三百二十年。
三世紀以上。アルトが眠っていた間に、世界はそれだけの時を刻んでいた。
「……は」
笑い声が漏れた。引きつったような、自嘲のような、それでいて泣いているような、奇妙な笑い声だった。
「冗談だろ……一週間か、せいぜい一年って、医者は言ってたじゃないか……」
けれど表示装置は嘘をつかない。
数字は変わらない。三百二十年。
アルトは自分の手のひらを見つめた。
二十一歳の手。ポットに入る前と、まったく同じ手のひら。剣の柄を握り続けてきた指。掌の真ん中に走る一筋の傷は、姫の馬車を護衛していた時に刺客の刃を素手で受け止めた跡だった。
何も変わっていない。自分は、何一つ変わっていない。ただ世界だけが、三百年以上、彼を置いて勝手に進んでしまった。
治療室を出ると、廊下は薄暗かった。
天井の照明は半分以上が消えており、残った照明も、点滅したり、ジリジリと不安定な音を立てたりしている。床の絨毯は色褪せ、所々が虫に食われていた。
アルトは近くのロッカーから自分の服を取り出した。
護衛騎士団の正装、白を基調とした上衣、黒のトラウザーズ、銀の肩章、剣帯。それらは、防腐処理されたケースの中に保管されていた。
服を身に着けると、不思議と、心が少し落ち着いた。
鏡の前で、髪を整える。
ポットに入る前と何も変わらない、二十一歳の青年の顔がそこにあった。けれどその目の奥にだけ、何か空ろなものが映っているのを、アルト自身、気付かないわけにはいかなかった。
廊下を歩く。ブーツの底が、埃の積もった床を踏むたびに、靴音が鈍く反響した。
治療棟は、アルカディア中央宮殿に隣接した区画にある。ここから王宮の本館までは、空中回廊で繋がっているはずだった。
アルトは迷うことなくその方向へ進んだ。三百年たっていようと、五百年たっていようと、自分が幼い頃から走り回ってきたこの宮殿の構造を、忘れるはずがない。
やがて長い廊下の先に、空中回廊への扉が見えた。
扉の認証装置に手をかざす。反応はない。もう一度別の角度で。やはり応答はなかった。
アルトは小さく舌打ちすると、剣帯から短剣を抜き、装置の継ぎ目に差し込んだ。テコの原理で、軽くこじる。アルカディアの精緻な技術も、機構が劣化していれば、こうした原始的な手段に屈する。
がしゃん、と扉が無理やり開いた。
そして、アルトはその光景に息を呑んだ。
空中回廊のガラスの天井。そこから見えるはずの、雲海。そこから見えるはずの、紺碧の空。そこから見えるはずの、はるか地上の、緑の絨毯。
何もなかった。
代わりに、そこに広がっていたのは、果てしない青の海だった。どこまで続くのか、終わりも見えない、ただ広大な海。鈍く銀色に輝く波頭。点々と浮かぶ小さな雲。低く渡る潮風。
アルカディアは、空に浮かんでいなかった。浮かんでいなかったどころではない。海の上にいた。
アルトはよろめきながら、ガラスの壁に手をついた。
視線を下ろす。
浮遊都市の外縁部。かつて、はるか地上を見下ろしていた展望台。そこに白い波しぶきが、何度も打ち寄せているのが見えた。都市の下部は、もはや海面下に没していた。
重い、鉛のような感覚が、胃の底に落ちてきた。
アルカディアが墜落していた。浮遊機構を失って、地上に。いや、地上ですらない。海の上に。
三百二十年の間に、それが起きた。起きたうえで、まだ都市の一部は機能していて、自分は治療ポットの中で眠り続けていたということになる。
だとすれば、姫は。リーシェ姫は。王宮は。ノエは。護衛騎士団の仲間たちは。父さんは。
思考が、ぐるぐると渦巻いた。
アルトはガラス壁から離れ、もう一度足を進めた。
確かめなければ。自分の目で、確かめなければ。何が起きたのか、何が起きてしまったのか。
空中回廊の終わりに、王宮本館の通用門があった。
そこを通り抜けると、聞き慣れた音がアルトの耳に届いた。
かちん、かちん。
何かを叩いている音。それから規則正しく床を踏むブーツの音。誰かが歩いている。
アルトは思わず剣の柄に手をかけて、声を張った。
「――誰か、いるのか」
自分の声が誰もいないと思っていた廊下にこだまする。
一瞬の沈黙ののち、答えが返ってきた。
「……お客様、でいらっしゃいますか」
静かな、女性の声だった。やわらかく、丁寧で、抑揚は控えめ。けれどアルトはその声をほとんど反射的に知っていた。
廊下の角から、人影が現れた。
黒のロングドレス、白いエプロン。淡いミルクティー色の長い髪を、頭の後ろで一つに結っている。両手には、銀のトレーを抱えている。トレーの上には、ティーポットとカップ。湯気が上がっている。
表情はあまり動かない。けれど瞳は澄んだアンバー色で、優しい。
「……ノエ?」
アルトは思わずその名を口にしていた。
メイド服の女性は、銀のトレーをそっと脇のサイドテーブルに置き、深々と頭を下げた。
「申し遅れました。第三世代家政オートマタ、識別番号A・XII・〇〇七。皆様より、『ノエ』とお呼びいただいておりました」
「俺の声、覚えてないか?」
アルトは震える声で問うた。
ノエ。家政オートマタの一体。アルカディアの大半の機械人形と同じく、人と見分けがつかないほど精巧に作られた人型機械。だが人形ではない。れっきとした自意識を持つ、機械生命体。そしてアルトが幼少の頃から、彼の身辺の世話をしてきた、家族にも等しい存在。
ノエは軽く首を傾げてから、ふと、目を見開いた。
「……アルト、坊ちゃま」
声音が変わった。
静かで丁寧な応対用の声から、もう少し柔らかく、親密な響きを帯びた声へ。
「アルト坊ちゃま」
ノエはもう一度その名を呼んだ。そして銀のトレーを完全に脇に置くと、両手を口元に当てた。
「……ご無事、で」
普段、表情の乏しい彼女の口元がふっと震えた。
機械の身体には涙腺はない。けれどその瞳の輝きには、明らかに人間の感情と寸分違わない何かが宿っていた。
「ノエ……ノエか、本当に」
アルトは廊下を駆け抜けて、彼女の前に立った。触れるべきかどうか一瞬、躊躇った。けれどノエの方が、先に手を伸ばした。
細い指先が、アルトの頬に触れる。機械の手のはずなのに、その温度は、不思議なほど人間のそれと近かった。
「……お元気そうで、安心いたしました」
ノエは静かに微笑んだ。
けれどその微笑みの奥に、どこか拭いきれない悲哀が漂っているのを、アルトは見てとった。
「ノエ。何が起きたんだ」
言葉に出さずにはいられなかった。
「俺はいったい、どれだけ眠っていたんだ。アルカディアは、なぜ、海の上にある。リーシェ姫は……父上は、皆は、どこに……?」
ノエは答えなかった。ただ自分の手をアルトの頬から離した。そして両手を前で組み、いつもの彼女らしい仕草で、深く頭を下げた。
「全てお話しいたします。ですが、坊ちゃま――その前に、どうかお茶を一杯」
ノエの声はいつもの彼女の声だった。
「三百年ぶりの、お茶でございます」
王宮の応接間に通された。
ここもまた、半ば朽ちかけていた。壁の絹張りは色褪せ、ところどころ剥がれていた。シャンデリアの水晶は半分ほど落下しており、絨毯の上に散らばっていた。それでもノエは応接間の中央のテーブルだけを、生前(という言い方は変だが)のまま、丁寧に維持していたらしい。
白いテーブルクロスは染み一つない。銀のティーポットには湯気が立っている。
アルトは勧められた椅子に腰を下ろし、出された紅茶を口に運んだ。
懐かしい味がした。
アルカディア王宮特製の月光茶。高地でしか採れない茶葉を、銀月の光に晒して発酵させたもの。リーシェ姫が好んで飲んでいた。
アルトの目頭がわずかに熱くなった。けれどそれを悟られないように、彼はあえて軽く息を吐いて、ティーカップを置いた。
「……話してくれ、ノエ」
ノエは自分のための椅子を引かなかった。主の前で座らない、というのが、彼女の長年の信条だった。三百年経っても、その振る舞いは変わらない。
「……どこから、お話しすれば、よろしいでしょうか」
ノエは躊躇うように口を開いた。
「全部だ。最初から、最後まで」
「では、結論から申し上げます」
ノエの瞳がわずかに揺れた。
「アルカディアは、アルト坊ちゃまが治療ポットにお入りになってからおよそ四十年後、墜落いたしました。原因は、浮遊機構中枢の制御暴走。長年蓄積した魔導機関の歪みが、限界を超えました」
「……四十年後」
「はい」
「……」
アルトはティーカップを握る指に力を込めた。
「リーシェ姫は」
そう尋ねるのに、声がほんの少しだけ震えた。
ノエはまっすぐにアルトを見つめた。機械の瞳。けれど彼女の瞳には、人間が誰かに死を伝える時に浮かべるのと同じ、深い悲しみが滲んでいた。
「リーシェ姫様は、墜落の十二年前にお亡くなりになっております」
「――」
「ご病気でございました。お父君である国王陛下も、その八年前にお亡くなりに。リーシェ姫はご即位ののち、王として国を二十年お治めになりました。けれどもアルカディア王家は、姫様の代を最後に絶えました」
アルトはティーカップに視線を落とした。
自分の顔が紅茶の表面に映っている。静かな、何の感情も浮かべていない、二十一歳の青年の顔。
姫はもういない。
当然のことだ。三百二十年も眠っていた。たとえ姫が長命の血統だったとしても、生きているわけがない。わかっていたことのはずだ。けれどそれが他人の口から告げられた瞬間、心の中で、何か大切な柱のようなものが、ゆっくりと折れていく音がした。
「ご病気は、何だった」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
「魔導毒でございます」
「――」
「アルト坊ちゃまが召されたものと、おそらく同種のものと推察されます。アルカディア王家の血筋には、稀に発症する血統病があり、姫様の場合はそれでございました」
アルトは目を閉じた。
リーシェの白い顔がまぶたの裏に浮かんだ。自分が病に倒れた時、彼女はベッドの傍らで、毎晩のように本を読み聞かせてくれた。「治ったら、また庭に出ましょう」と、笑いながら。彼女自身の身体にも、すでにその種が宿っていたことを、誰も知らなかったのだ。
「……治療ポットは、姫には、使えなかったのか」
「アルト坊ちゃまの治療ポットは、当時、王宮に残された最後の一つでございました。他のポットは、墜落の予兆を察した先王陛下が、住民の避難用に使い尽くしておりました」
「……」
「リーシェ姫様は」
ノエの声がほんのわずか、震えた。
「最後のひとつのポットを、ご自身ではなく――アルト坊ちゃまのために、お使いになりました」
アルトは長い、長い息を吐いた。
椅子の背にゆっくりと身を預ける。天井を見上げた。朽ちかけたシャンデリアの破片が、彼の視界の中で、淡く光った。
そう、か。
そういう、ことだったのか。
自分は、姫に守られていたのか。
「……姫は何か、言っていたか」
「最期に、いくつかの言葉を遺されました。アルト坊ちゃまへのご伝言も、ございます」
「……聞かせて、くれ」
「『アルト。私の代わりに、世界を見て。空でも海でも地上でも。あなたが、私の見られなかったものを、全部、見てきて』」
ノエは姫の声真似はしなかった。ただ自分の言葉として、その遺言を伝えた。
「……」
「『そしてもしも、この世界が、いつかまた、誰かに守られるべきものになっていたら。その時はどうか、あなたの剣を、その誰かのために、使ってあげて』」
「……」
「『あなたの剣は、私だけのものではないから』」
アルトはしばらくの間、何も言えなかった。
ティーカップの中の月光茶が薄く波打っているのが見えた。自分の手が震えているのだと、そこで初めて気が付いた。
ノエはアルトに最低限の情報を伝えた。
アルカディアが墜落して、およそ二百八十年。都市は奇跡的に、海上にそのまま不時着した形となった。完全に水没したのは下層と外縁部のみで、王宮を含む中央区画は、今もかろうじて海面上にある。
墜落の衝撃と、その後の数十年に及ぶ混乱で、アルカディアの住民の大半は地上(海上の島嶼)へと脱出した。残ったのは、自力で動けないオートマタたちと、彼女らを管理する数体の上級個体。そしてノエはその上級個体の一体だった。
地上の文明は、アルカディア墜落と前後して、急速に衰退した。アルカディアが各国に供給していた高度な魔導技術が一気に失われたこと。世界規模の気象変動。原因不明の魔物の発生。
三百年が経った今、人類は中世程度の文明レベルに後退している。海面はかつてより高くなり、地上のほとんどは海となっていた。
そして海には。
「魔物が、出るのか」
「はい」
ノエは頷いた。
「人間たちは、海の魔物を非常に恐れております。中でも特定の海域を縄張りとする『主』と呼ばれる大型個体は、彼らの脅威の最たるものです」
「魔物は、いつから?」
「墜落直後から、確認されております。海の生物が、何らかの理由で巨大化・凶暴化したものと、見られております」
アルトは紅茶を一口、含んだ。
自分が眠っている間に、世界は何もかも変わってしまった。何もかも。
けれどアルトは奇妙なほど冷静だった。大切な人を失った悲しみと、世界が変わってしまった衝撃と。それらは内側に確かに存在している。けれど表に出てきていなかった。まるで感情の出入り口に、薄い氷が張っているかのように。
三百年。三百年もの空白を、一度に処理することなど、できはしない。だからこそ、目の前にある「今」を、ひとつずつ見ていくしかない。
アルトはティーカップをソーサーに置いた。そして立ち上がった。
「ノエ」
「はい」
「都市の境界を、見に行く。外壁の方だ。今のアルカディアが、どんなふうに浮かんでいるのか、自分の目で確かめておきたい」
ノエは深く頷いた。
「お供いたします」
「いや」
アルトはわずかに首を振った。
「お前にもこれまで都市を守っていた仕事があるんだろう。今はひとりで歩きたい。……整理する時間が、欲しいんだ」
ノエはしばらく逡巡してから、頭を下げた。
「では、何かあれば、これでお呼びくださいませ」
そう言って、ノエはエプロンのポケットから、小さな銀のロケットを取り出した。アルカディア式の通信端末。手のひらに収まる、薄く軽い装置。ノエは慣れた手つきで設定を行い、それをアルトの手に押し付けた。
「ありがとう」
アルトはそれを胸ポケットにしまうと、応接間を出た。
ノエは彼の背中を見送りながら、そっと口元に両手を当てた。
「……お帰りなさいませ、アルト坊ちゃま」
三百年ぶりに口にした言葉は、奇妙なほどしっくりと、彼女の音声合成回路に馴染んだ。
アルカディアの外壁。
かつてここは、空に張り出した、半円形の展望テラスだった。アルトは幼い頃、リーシェと一緒に、よくここから雲海を見下ろした。リーシェは怖がりで、いつもアルトの腕にしがみついていた。
その展望テラスが、今は半ば海水に呑まれていた。
テラスの三分の二は水没し、残った三分の一だけが、辛うじて海面上に突き出している。鉄柵は錆び付き、所々が折れていた。
アルトは慎重に、その残った部分まで歩を進めた。
ブーツの底に、ザリッ、と何かが触れた。砂だった。海風が運んできたのだろう、白い砂粒が、テラスの石床に薄く積もっていた。
空気を深く吸い込んだ。
潮の香り。アルカディアでは決して嗅ぐことのなかった香り。海。本物の海だ。
アルトはテラスの先端まで進み、錆びた手すりに手を置いた。
眼下、というには、もはや距離が近すぎる場所に、青い海面が広がっていた。アルカディアの外壁が、白い泡を立てている。浮遊都市はゆっくりと海流のままに、漂っているらしい。
視線を上げると、遠く、水平線が見える。真っ平らで、何の凹凸もない、水平線。地上の輪郭はどこにも見えない。
アルトは長い間、その水平線を見つめていた。
自分の中の感情が、整理されるのを、ただ待っていた。
悲しみは確かにあった。けれどそれ以上に強かったのは、不思議な、空虚感だった。
自分の生きた時代は、もうない。自分の守るべきものも、もうない。では、これから自分は、何のために生きるのか。何のために、姫が遺してくれた命を、使うのか。
答えは、出ない。
答えは出ないまま、アルトはじっと海を見つめていた。
そしてそのとき、ふと視界の隅に、何かが動いた。
アルトはぴくりと肩を反応させた。騎士としての本能だった。三百年経っていようと、染み付いたものは抜けない。
ゆっくりと視線だけを動かす。
動いたのは、テラスの反対側――三十メートルほど離れた、別の崩れかけた建造物の物陰。そこに人影があった。
黒い外套を頭からすっぽりと被った、長身の人物。こちらの様子を、明らかに、覗っていた。
アルトは剣の柄に、そっと手を伸ばした。
相手はこちらが気付いたことに気付いた。ばつが悪そうに、外套の中で、肩を竦めるような仕草。それから観念したのか、ゆっくりと両手を上げた。
「……いやはや。バレちまったか」
軽い、男の声だった。三十代の半ば、といったところだろうか。気の抜けたような、けれどどこか芯のある声音。
「驚かさないでくれよ、お兄さん。俺は怪しい者じゃない――いや、まあ、今のこの状況だと、十分怪しいか」
外套のフードがゆっくりと外された。
中から現れたのは、薄茶色の癖のある髪を無造作に流した、痩身の男だった。頬には、軽く笑い皺。顎には、無精髭。眼鏡をかけている。
服装は旅装。革のベスト、丈夫そうなシャツ、ベルトには小ぶりのナイフと、書物のような厚みのある革のホルダー。背中には、大きめのリュック。
「で?」
男はこちらに歩を進めながら、しかし剣を抜かれてもいいよう、両手は上げたままで言った。
「あんた、何者だ?」
アルトの返事は、当然、剣を抜きかけたまま、警戒の姿勢を解かないものだった。
「それはこちらの台詞だ」
「ふむ、もっともだ」
男はふっと笑った。それは敵意のない、奇妙に親しげな笑みだった。
「俺はガレオ。ガレオ・ヴィント。仕事は……まあ、考古学者、っていうのが一番近いかな」
「考古学者」
「そう。古代の遺物を調べたり、文書を解読したり、運が良ければ持ち帰ったり。今はここ、『神の遺物』の調査で潜入中、というところさ」
「神の、遺物?」
アルトは眉をひそめた。
「ああ、悪い悪い。あんたの方は、ご存じないか。地上の連中はね、この、海に浮かんでる得体の知れない巨大な漂流物を、そう呼んでるんだ」
ガレオと名乗った男は、ぐるりとアルカディアの方を見渡した。
「世界中の人間が、近づくのを恐れている、伝説の遺物。神々の天空都市。海の主が住むという、呪われた島」
そう言ってから、男は再びアルトに視線を戻した。
「あんたは……どう見ても、地上の人間じゃないな。装束も、髪の色も、目の色も。何よりその剣帯」
ガレオの視線が、アルトの腰の剣に注がれる。
「アルカディアの、護衛騎士団第二席。間違いない」
アルトは剣の柄から、ゆっくりと手を離した。
この男は知っている。三百年前の、アルカディアの、ことを。
ガレオはにやりと笑った。
「ようこそ、お目覚めの世界へ、騎士殿。ずいぶん長い間、お眠りだったみたいだな」
ガレオ・ヴィントは、不思議な男だった。
アルトが「アルカディア最後の生き残り」かもしれない、という推測を口にしても、彼は驚かなかった。むしろ、彼の方が、嬉々として情報を提供してきた。
「治療ポット、ね。なるほど。記録に残ってるよ、最後の患者の話。アルカディア墜落の四十年前、王宮の若き護衛が一人、原因不明の魔導毒に倒れ、王女が最後の医療ポットに彼を入れた、と」
ガレオはアルトの隣に腰を下ろし、テラスの端に足を投げ出しながら、続けた。
「俺はね、専門が『アルカディア後期』なんだ。あんたが眠ってた、墜落前の最後の四十年。あんたの名前も、覚えがあるよ。確か、リーシェ姫の身辺護衛だった、アルト・ヴェルナー、だろ?」
アルトはガレオの隣に立ったまま、頷いた。
「いや、しかしまさか、本人と会えるとは。歴史好きとしては、最大の僥倖だな、これは」
ガレオはリュックから水筒を取り出して、ぐいと飲んだ。それから別の容器に水を注いで、アルトに差し出した。
「飲むかい? 真水だ。海水じゃない」
「……ありがとう」
アルトはそれを受け取り、口をつけた。確かに真水だった。少し金属の味がしたが、清潔だった。
「俺はね、サフィリア王国っていう、近隣の島国の宮廷考古学者なんだ」
ガレオは続けた。
「サフィリア。聞いたことのない国名だな」
「だろうな。あんたの時代には、影も形もなかった国だ。アルカディア墜落後にできた、新しい国だよ。北東に三日ほど行ったところに、群島がある。その中の一番大きな島だ」
ガレオはアルトの問いに答えるように、続けた。
「サフィリアの上層部はずっと前から、『神の遺物』――アルカディアの調査を行いたがってた。今この時代、文明の遺産は、何よりも喉から手が出るほど欲しいものだからな。だが近づこうとした調査隊は、いつも、海の魔物にやられて、戻ってこなかった」
「……」
「で、今回は、密航さ。俺は別の調査名目の小型船からこっそりこっちに渡ってきた。海流のタイミングをひたすら計ってな。命懸けの旅だったが、今それが報われたよ」
ガレオはにっと笑った。
「歴史上、誰一人として再会できなかった『アルカディアの住人』に、こうして話を聞ける。学者として、これほどの僥倖はない」
アルトはガレオの饒舌に苦笑しかけて、けれどすぐに、表情を引き締めた。
この男の言葉が、嘘でないという証は、まだない。
けれどノエの遺してくれた、姫の遺言が、頭の中に蘇った。
『もしもこの世界が、いつかまた、誰かに守られるべきものになっていたら――あなたの剣を、その誰かのために』
サフィリア。三百年後の世界に、新しく生まれた国。海の魔物に脅かされ、しかし必死に生きている、人間たちの国。
「ガレオ・ヴィント」
アルトは男の名を、もう一度口にした。
「ん?」
「お前はこれからどうするつもりだった?」
「ん? 俺かい?」
ガレオは海に視線を流した。
「もう少しここでいくつか遺物を調べる。一週間ほど。それから迎えの船と落ち合って、サフィリアに帰る。本当はもっと長居したかったが、補給がな」
「迎えの船はいつ来る?」
「ちょうど、五日後の夜だ」
アルトはしばらく考えた。そして決めた。
決して衝動ではなかった。あるいは、衝動ですらあったかもしれない。けれどもう彼は、自分を止める何物も持っていなかった。
「ガレオ。俺をサフィリアに連れて行ってくれないか」
ガレオはゆっくりと顔をアルトに向けた。眼鏡の奥の目が、面白がるように軽く細められた。
「お? 居心地のいい古巣を捨てて、外の世界に出てこようっていうのか、お騎士様」
「居心地は、もうここにはない」
アルトは海を見つめた。
「俺の主は、もういない。守るべき民も、もういない。けれど――姫は俺に見てこいと言ってくれた。世界を見てこいと。だから見てくる」
「ふぅん」
「それに」
アルトはガレオに視線を戻した。
「海の魔物に脅かされて、滅びかけている国があるなら――俺の剣には、まだ使い道があるかもしれない」
ガレオはしばらくの間、無言だった。それからゆっくりと立ち上がった。
「歓迎するよ、騎士殿」
ガレオは軽くおどけたように、片手を胸に当ててお辞儀をした。
「ようこそ、サフィリア王国へ。――ま、まだ船には乗ってないけどな」
アルトはふっと口元を緩めた。三百年ぶりに、笑った気がした。
海風が強く、彼の銀の髪を揺らした。太陽の光が波頭に砕けて、何千、何万もの輝きを、その海面に散らしていた。
新しい世界の音が、アルト・ヴェルナーの耳の奥に、確かに響いた。
その夜、アルトはノエに自分の決断を伝えた。
ノエは長い間、無言だった。けれど最後に、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。アルト坊ちゃまの、お決めになったことであれば、私から申し上げることは、何もございません」
「ノエ」
「はい」
「お前も一緒に来てくれないか」
ノエはわずかに目を瞠った。
「私が、ですか」
「ああ。お前がいないと、俺は心細い。それに、三百年もこの都市を一人で守ってきたんだ。お前にも、外の世界を見る権利が、あるだろう」
ノエはしばらくの間、何かを考えるように、自分の手を見つめていた。
その沈黙は、いつもの彼女の応答の間合いより、少しだけ長かった。
アルカディアの応接間。三百年、彼女が一人で磨き続けてきた銀のティーポット。色褪せた絨毯の縁。剥がれかけた絹張りの壁。彼女の身体が記憶しているすべての細部が、彼女の沈黙の中で、おそらく、一斉に立ち上がっていた。
やがてノエは顔を上げた。
微笑、というよりも、安堵に近い表情だった。
「お供させていただきます」
「ありがとう」
「ですが、その前に」
ノエは姿勢を正した。
「アルト坊ちゃまにお渡しすべきものが、ございます」
そう言って、彼女は応接間を出ると、すぐに戻ってきた。手には、長く細い、布に包まれた何かを抱えていた。テーブルの上に、そっと置かれる。布が解かれる。
中から現れたのは、一振りの剣だった。
銀の鞘。淡い水色の宝玉が、柄頭に埋め込まれている。鍔には、繊細な銀細工で、薔薇の紋章が彫り込まれていた。
「これは……」
アルトはその剣を知っていた。
アルカディア王家の宝剣『月の鏡』。王が即位する時に護衛騎士団の長に下賜される、儀礼用の剣。けれどこれはただの儀礼剣ではない。アルカディアの古い魔導機関と結びついた、強力な魔導兵器でもあった。
「リーシェ姫様が最期の時に、私に託されたものでございます」
ノエは静かに言った。
「『もしもアルトが目を覚ました時に、世界が彼の剣を必要としていたら、これを渡してほしい』と」
「……」
「『私の代わりに、彼を守ってほしい』とも」
アルトは剣の柄に、ゆっくりと手をかけた。鞘から、すらりと引き抜く。
銀の刀身に、ランプの光が反射した。三百年前と、一切変わらない煌めき。
姫が最後まで、自分のことを想ってくれていた。その証が、ここにある。
アルトの目から、一筋の涙が零れた。自分でも止められなかった。
ノエはそれを見ても、何も言わなかった。ただいつものように両手を前で組み、深く頭を下げた。
坊ちゃまがお泣きになるのを見るのは、もう何百年ぶりでしょうか。
そう、心の中で彼女は呟いた。
アルカディアの夜は静かだった。海の波の音が、遠く、近く、響いていた。
浮遊都市は、三百年の眠りの果てに、その最後の住人を、新しい世界へと送り出そうとしていた。
かくして、アルト・ヴェルナーの第二の物語が、始まる。




