第16話 深紅の薔薇
ヴェスタ砦の戦いから二週間が過ぎた。
サフィリア王国はゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。
王都シャレーヌの朝。アルトは王宮の客間の窓辺に立ち、街を見下ろしていた。
眼下に広がる屋根の海。煙突から立ち上る朝餉の煙。荷車を引く馬の足音。市場に向かう人々の声。
二週間前まで、この街には漠然とした諦めが漂っていた。海の魔物に追われ、教団に揺さぶられ、それでも誰も声を上げなかった。
けれどヴェスタ砦の勝利とファネア村の出来事の後、人々の歩き方が、少し変わった。
まだ希望と呼ぶには、遠い。
けれど絶望ではない、何か。
アルトは窓辺から離れた。机の上には王立考古学院から届いた数枚の書類が広げられていた。北部地域の灌漑機関の試作報告。ガレオが昨夜遅くまでかけて取りまとめたものだった。
部屋の扉が控えめに叩かれた。
「坊ちゃま。お時間でございます」
ノエの声だった。
「ああ」
アルトは正装の襟元を整え、剣帯を腰に下げた。
「会議は別館の応接間でございます。殿下と、ガレオ様と財務官様がお揃いです」
「分かった」
ノエが扉を開けた。アルトは廊下に出た。
ノエは三百年前と何ら変わらぬ仕草で深く頭を下げてから、彼の後ろに従った。
*
別館の応接間ではすでに会議が始まっていた。
リーシェリア王女、ガレオ、王立考古学院の若い書記、そして財務官の老人。机の上には北部地域の地図が広げられていた。
アルトが入室すると、皆が立ち上がろうとした。
リーシェリアが軽く手で制した。
「お座りなさい。アルト卿は今や、私たちの仕事仲間です」
「アルト卿、お早うございます」
ガレオが朝から元気な声で迎えた。眼鏡の奥の目だけが、徹夜の色をしていた。
「ガレオ。寝ていないな」
「いやはや、北部の灌漑案を仕上げるのに夢中でね。眠るのを忘れちまった」
「身体を壊すぞ」
「身体を壊しても俺の代わりはいるが、この発見の興奮は今しか味わえねえ」
リーシェリアが小さく笑った。
「ガレオは本当に研究の虫ですね」
「光栄ですよ、殿下」
会議が始まった。
北部の三つの村に、灌漑用の小型魔導機関を導入する案。ガレオが設計図を広げ、施工計画を説明した。財務官の老人が予算の懸念を述べ、それをリーシェリアが整理し、最終案をまとめていく。
アルトはほとんど発言しなかった。
ただ時折、ガレオの説明にアルカディア時代の知識から補足を加えた。「その部分の魔導回路は冷却が必要だ。常に水に浸す構造にしないと焼き切れる」とか、「動力源の魔石はそのままだと寿命が短い。緩衝層を一枚噛ませろ」とか。
そういう短い助言を、アルトはぽつりぽつりと差し挟んだ。
ガレオは目を輝かせてそれを書き留めた。
老財務官は最初、アルトに対しても少し警戒の色を見せていた。
会議が進むにつれ、その警戒は薄らいでいった。アルトが派手な口を利かず、ただ実務的な助言だけを淡々と提供することに、安心したらしかった。
「アルト卿」
会議の終盤、リーシェリアが彼に向き直った。
「灌漑機関の試運転に、北部の村まで同行していただけますか」
「もちろんです」
「実は、私もご一緒したく思っております」
老財務官がぴくりと顔を上げた。
「殿下、それは」
「危険ですか」
「危険でなくとも、王族が直々に村まで足を運ばれるのは、前例が」
「前例は、作るものです」
リーシェリアの声には反論を許さない響きがあった。
けれどそれは命令ではなく、確信だった。
「灌漑機関は、サフィリア王国にとって、ヴェスタ砦の防衛と同じくらい重要な事業です。私はそれを民の前で、私自身の目で見ていなければなりません」
「殿下のお身体は」
「年に何度か風邪を引く程度です。北部までの旅程は、整えれば耐えられます」
老財務官はしばらく口を閉じた。やがて深く息を吐いた。
「……承知いたしました。日程と警護を、こちらで整えさせていただきます」
リーシェリアが微笑んだ。それからアルトに視線を向けた。
「アルト卿。よろしくお願いいたします」
「御意」
アルトは短く頭を下げた。
ガレオが机の上で軽く図面を整理しながら、視線だけで二人を見比べていた。口の端に、ほんのわずか、面白がるような笑みが浮かんでいた。
アルトはそれに気付いていたが、何も言わなかった。
*
会議の後、アルトは別館の庭園に出た。
王宮の中で、彼が最も気に入っている場所だった。
別館の南側にあるその庭園は、それほど広くない。薔薇の生垣に囲まれた小さな噴水と、白い石の小道、それから木陰のベンチが二つあるだけの、簡素で美しい場所だった。
三百年前のアルカディアの庭園とはまるで様式が違う。アルカディアの庭園は幾何学的で、計算されつくしていた。
サフィリアの庭園は、自然のままに咲く花を、最低限の手入れで整えているだけだった。
不思議とその不揃いさが、アルトには心地よかった。
「アルト卿」
声が背後から聞こえた。振り返ると、リーシェリアが立っていた。
朝の正装ではなく、薄手の昼の上衣に着替えていた。髪も結い上げず、後ろで一本に束ねただけ。手には小さな籠を持っている。
「ご無礼を、殿下」
アルトは立ち上がろうとした。
「いえ、座っていてください」
リーシェリアが軽く手で制した。
「私が押しかけたのですから」
王女は籠から小さな鋏を取り出した。
「お庭の薔薇を、少し切って室内に飾ろうと思いまして」
「侍女に任せられないのですか」
「ええ。これは私の趣味ですから」
王女は薔薇の生垣に近づき、慎重に枝を選び始めた。
アルトはしばし、その姿を眺めていた。
三百年前のアルカディアの庭園で、リーシェ姫もまた自分の手で薔薇を切って室内に飾るのを好んでいた。「侍女には任せられないのです。薔薇には、それぞれ気持ちがあるのですから」と笑いながら。
けれど――似ているのは、そこまでだった。
リーシェ姫は、決まった種類の薔薇――白と淡い桃色――だけを切っていた。
リーシェリアは、深紅も、黄色も、選り分けずに鋏を入れていく。
リーシェ姫は、鋏を使う時、必ず手袋をしていた。
リーシェリアは、素手だった。
リーシェ姫は、薔薇に話しかけていた。
リーシェリアは、黙々と切っていた。
同じ姿勢で、まったく別の所作。
アルトはそれを、静かに見つめていた。
見つめながら、気付いた。
いつの間にか自分は、姫様との違いを数えるためではなく――ただ、彼女の手元を見るために、見ていた。
「アルト卿」
リーシェリアが手を止めずに声をかけた。
「はい」
「私の顔を、じっと見ておられましたね」
「……失礼いたしました」
「いえ。お訊きしてもよろしいですか」
「何なりと」
「私の顔は、リーシェ姫にどれくらい似ているのですか」
アルトはしばらく黙っていた。
王女は手を止めて、振り返った。その目には責めるような色はなかった。
ただ静かに、答えを待つ目だった。
「……たいへんよく、似ておられます」
アルトはようやく答えた。
「髪の色を除けば、ほとんど同じです」
「そうですか」
「ですが」
アルトは続けた。
「殿下と姫様は、別人でございます」
「ええ」
「私はそれを、毎日、自分に言い聞かせております」
王女はしばらくの間、何も言わずアルトを見つめていた。やがてゆっくりと、ベンチの隣に腰を下ろした。薔薇の籠を膝の上に置いた。
鋏が、籠の中で小さく鳴った。
「言い聞かせなければならないほど、似ているのですね」
「はい」
「……お辛いですか」
「最初は、辛うございました」
アルトは正直に答えた。
「殿下を初めて見た時、私は姫様の幻を見ているのかと思いました。三百年眠った末に、ようやく目覚めて――姫様のもとに帰れたのかと」
「……」
「けれどすぐに分かりました。殿下は姫様ではない。殿下には、殿下の声があり、殿下の意思があり、殿下のなさり方がある」
アルトは王女に視線を向けた。
「最近の私は、もう殿下に姫様を重ねておりません」
「本当に?」
「ええ」
「無理をしておられませんか」
「無理は、しております」
アルトは小さく笑った。
「ですが、無理をしているというその実感が、ある時から薄れてまいりました」
王女もまた、静かに笑った。
「面白いお答えですね」
「失礼いたしました」
「いえ。とても正直なお答えだと思います」
王女は籠から一輪の白い薔薇を取り、それをアルトの方へ差し出した。
「これは、リーシェ姫がお好きだった色ですか」
アルトはその白い薔薇を見つめた。
三百年前の庭園の色。手袋越しに摘まれ、話しかけられていた色。
「……はい」
「では」
王女はその白い薔薇を、引っ込めた。
籠に、そっと戻した。
そして代わりに、深紅の薔薇を一輪、取り出した。
「これは――私が好きな色です」
王女はそれをアルトの胸ポケットに、軽く差した。
その指が、胸ポケットから離れる時、わずかに躊躇いを見せた。
布の上から、彼の鼓動に、一瞬だけ指先が触れているような――そんな間だった。
王女自身、その躊躇に気付かなかったふりをして、すっと手を引いた。
アルトは胸ポケットに差された深紅の薔薇を、見下ろした。
その色が、白の正装の胸の上で、まるで小さな心臓のように、鮮やかに咲いていた。
アルトは静かに頭を下げた。
頭を下げながら、自分の鼓動がその薔薇のすぐ下で、わずかに速くなっていることに気付いていた。
王女が立ち上がり、籠を抱え直した。
「アルト卿。今夜の夕食、私のお部屋でご一緒しませんか。父にも兄にも内緒で」
「殿下のお部屋で?」
「ええ。たまには、お仕事の話を離れて」
王女は悪戯めいた目で、付け加えた。
「ノエさんもご一緒にお招きいたしますから、ご心配にはおよびません」
「……御意、殿下」
王女は身を翻し、薔薇の籠を抱えたまま、別館の方へと戻っていった。
アルトはしばらく、一人でベンチに座っていた。
胸ポケットの深紅の薔薇が、朝の光の中で、確かに咲いていた。
それは三百年前の庭園には、咲いていなかった色だった。




