第15話 海を越えて
白い天幕の上を、夕暮れの光が斜めに走り始めた。
貴族たちはひとり、またひとり、当主に礼を残して馬車へと戻っていった。残る人影が減るたびに、薔薇の生垣に落ちる影が長くなった。
アルトとリーシェリアの前にエルセス・ヴェルディが進み出た。
「殿下。本日のお運び、当家の生涯の誉れに」
「こちらこそ、よき午後を」
「亡き王妃様もこの庭をよく歩いておいででした」
二度目だった。
リーシェリアの目元がほんの一瞬、翳る。すぐに王女の顔に戻った。
「覚えております。あの折は、薔薇がちょうど咲き初めの頃で」
「左様でございました」
当主は深く、頭を下げた。
傍らで、イリスがアルトの前に進み出てきた。
「アルト卿」
「はい」
「先ほどの書庫の件。お運びくださる日をお決めいただけましたら、当家まで使者を」
「承知した」
「お一人でも、お連れの方とご一緒でもご都合のよろしいように」
イリスは王女に向き直り、深く膝を折った。
「殿下にもお運びいただけましたら、家門の光栄でございます」
リーシェリアは穏やかに微笑んだ。
「お招き感謝いたします、イリス」
受けるとも断るとも告げぬまま――王女は美しい挨拶だけを残した。
*
帰路の馬車の中、リーシェリアは膝の上に薄い帳簿を開いていた。
車輪が石畳を打つ音が続いた。アルトは向かいの座席で剣帯を整え、王女の筆が紙の上を擦る音を聞いていた。
筆の音が行きよりわずかに速い。
やがて王女は筆を置いた。
「アルト卿」
「はい」
「書庫の件、お早めにお運びになるのがよろしいかと」
「殿下もご一緒に」
王女は窓の外に視線を移した。
「私が頻繁に伺う家にはなさらぬ方が」
「殿下」
「ヴェルディは大きな家でございます。私が幾度もお運びになれば――王家が何かを期待しているのだと、他家が読みます」
筋は通っていた。
通ってはいた。ただ――口にするまでの間が、いつもよりわずかに長かった。
「……承知いたしました」
「卿のお仕事でございます。お心のままに」
王女はもう一度、帳簿に視線を落とした。
アルトはしばし黙った。
「殿下」
「はい」
「何か、殿下にお見せしたきものを見つけましたなら――」
「……?」
「お持ち帰りいたします」
王女が顔を上げた。
目が合った。
唇の端がわずかに緩む。
それは――王女の微笑みではなかった。
「ええ。お待ちしております」
王女はそれだけ告げ、また帳簿に目を戻した。
馬車の振動だけが、二人の間を満たした。
*
五日後の朝、王宮の南門前にガレオがいた。
学者の上衣のまま書類の束を抱え、その場をうろうろしている。
「五十冊だぞ騎士殿。五十冊」
「聞いた」
「いいか、王立考古学院に残ってるアルカディア期の書物は十冊に届かんのだ。それが五十だ。家ひとつに五十だ」
「聞いている」
「今朝、何度か眼鏡を磨いたぞ俺は」
「お前にしては珍しい」
アルトは小さく笑った。
三百年眠った末にこんな男と並んでいる。
悪い気分ではなかった。
そこへ軽い足音が階段を降りてきた。
リーシェリアだった。
淡い水色の昼の上衣。髪は後ろで一本に束ねたまま、片手で軽く裾を掴んでいる。朝の執務を中座してきたのだと、一目で分かった。
「殿下」
「お見送りに参りました」
ガレオが慌てて、深く頭を下げた。
「殿下。何のお気遣いでございますか」
「お早いお発ちでしたから」
王女はそれだけ告げ、アルトの前まで進み出た。
「アルト卿」
「はい」
「ご無事に行ってらしてください」
「御意」
形式的な挨拶だった。
ただ王女はその場を離れなかった。
馬車が用意される間、門の脇の石段に小さく腰を下ろし、そのまま動かない。
アルトが乗り込もうとして、最後に振り返った時。
「アルト」
敬称が抜けていた。
「はい、殿下」
「後で――お話を聞かせてくださいませ」
王女の声は穏やかだった。
ただ、その穏やかさの底に――抑えた響きがあった。
アルトはそれを耳ではなく、胸で聞いた。
「必ず、お聞かせいたします」
馬車が動き出した。
アルトは窓越しに王女を見た。
王女はその場を立ち去らず、馬車が見えなくなるまで――石段に座っていた。
*
ヴェルディ家に着いた。
園遊会の日とは違う、奥の通用門だった。執事ではなく、イリス自身が出迎えた。
今日は濃紺のドレスではなかった。
灰色の地味な上衣に白いエプロン。古い書物に触れる者の装い。
社交の場の化粧を落とした顔は思ったより、
若かった。
朝の自然光の中で見ると――濃い灰色の瞳が、サフィリアの民とは少し違う色合いを確かに宿していた。
アルトはそれに気づいた。
けれど何も口にしなかった。
「アルト卿。ガレオ様。本日はようこそ」
「世話になる」
「本日は社交の場ではございません。家族の場としてお迎えいたします」
イリスは先に立って歩き始めた。
本館の裏手、使用人棟の一階。さらに奥の細い廊下を抜けると――地下へ降りる石の階段があった。
階段の壁が湿っていた。
海の匂いがした。
「こちらの書庫は海面より低い場所にございます」
イリスが説明した。
「湿気を防ぐため、壁を二重に。書物が傷まぬよう、祖父の代に改装いたしました」
「ご家系の本気の改装だな」
「祖父も祖母も書物を生涯の友としておりましたので」
階段の下に扉があった。
イリスが懐から鍵を取り出した。
「祖母が亡くなって、四年。この扉を開けたのは
私だけでございます」
錠が静かに回った。
扉が開いた。
中は思っていたより小さな部屋だった。
天井の小窓から、斜めに昼の光が落ちている。三方の壁が床から天井まですべて木の書架。書架には書物。
革表紙。金属の留め具。深い色の背表紙。
そして背の文字――サフィリア文字ではなかった。
ハイ・カディアン。
アルトは扉のすぐ内側で立ち止まった。
足が前に進まなかった。
一冊。アルトの目がまず一冊の背に吸い寄せられた。
深い緑の革表紙。金で押された題――『アルカディア宮廷儀礼録・下巻』。
三百年前、王宮の図書館で何度も背を見た書物だった。叙任の儀の前夜、姫様と並んで頁を繰ったことのある、書物だった。
膝が抜けた。
アルトは書架の前の椅子に引き寄せられるように
腰を下ろした。
ガレオもまた、扉のすぐ内側で立ちすくんでいた。
「……嘘だろ」
ガレオの声は掠れていた。
「これは……写本じゃない。原本だ。アルカディア王宮図書館の蔵書印が、ここに、ここに」
ガレオの指が一冊の背を辿った。
その手が震えていた。
イリスは扉の脇に立ったまま、二人を急かさなかった。
長くこの瞬間を待っていた者の静けさが、彼女の表情にあった。
「祖母は」
ようやくアルトが口を開いた。
「どのようなお方であったか、伺っても」
「海の人でございました」
イリスは静かに答えた。
「私と同じ色の瞳をしておりました」
「……」
「私と同じく、家の船で育ちました。十二の歳――嵐の中で、一冊の書物を海から拾い上げました。それが、この書庫の始まりでございます」
「海から、と」
「海で人が死にますと、その人の持ち物が海に流れます」
イリスの声は静かなままだった。
「祖母は――海から流れたものを拾い続ける家系の、生まれでございました」
アルトは書架の書物をもう一度、見た。
ハイ・カディアンの背文字が整然と並んでいた。
「アルカディアが墜落いたしまして、三百年。海はアルカディアの遺品で満ちております。けれど三百年も経ちますともう誰も拾いはいたしません」
「……」
「私の家だけがいまだに――拾い続けております」
アルトは唇を強く噛んだ。
拾い続けてきた。
三百年。
誰も覚えていない死者たちの遺品をただ一つの家系が。
「祖母が申しておりました。『海に流れたものを、また海に返してはならない。それは――誰かの形見である』と」
アルトの目に滲んだものをイリスは見ていた。
けれど見ていないふりをした。
ガレオもまた、自分の眼鏡の縁を強く押さえていた。
*
書物を一冊ずつ確認するのに半刻が過ぎた。
ガレオは床に座り込み、抱えてきた書類と書架の書物を一冊ずつ照合していた。
書物の数が確かに五十冊。
それぞれの題と推定される年代を震える手で
書き留めていた。
アルトは別の書架の前にいた。
そこには書物だけでなく、いくつかの小さな品も、並べてあった。錆びた銀の杯。半ば割れた懐中時計。封の解けた書簡の束。
そのひとつにアルトの目が留まった。
手のひら大の金属の円盤だった。
銀と黒銅の二色で組まれている。表面に細い唐草の彫り。中央に――淡い水色の小さな宝玉が嵌っていた。
アルトはそれを手に取った。
掌の上で重さを確かめた瞬間――指が止まった。
知っていた。
知っているどころではなかった。
三百年前――彼自身がこれと同じ形の品を懐に
下げていた。
「……イリス殿」
「はい」
「これはいつからこちらに」
「祖父の代と祖母は申しておりました。家伝の品で
ございます」
「ご祖父様はこれをどこで」
「存じません。気がついた時には家にあったと」
アルトは装置を裏返した。
裏面の中央に新しい刻印。ヴェルディ家の小さな船の紋。明らかに後の代の細工だった。
けれど装置そのものはもっと古い。
ハイ・カディアン銀細工。三百年前のアルカディアの貴族たちが、家族同士の通信に用いた品だった。
一対の組になっており、片方なくしては機能しない。
三百年前――アルトの父は出征の折、息子に同じ品の片割れを渡した。
アルトの方の片割れは眠っている間にアルカディアのどこかで失われた。
父の片割れは墜落の混乱の中で消えた。
二度と通じることのないただの金属の塊。
けれど。
アルトの掌の上で中央の宝玉がほんのわずかに、温かかった。
死んではいなかった。
ただ、独りでいるだけだった。
「ガレオ」
「ん?」
「こっちに来てくれ」
ガレオが書物の山から立ち上がり、アルトの方へ
歩いてきた。
アルトは装置を黙ってガレオに渡した。
ガレオは装置を一目見て、息を呑んだ。
「……対話石」
「ああ」
「実物を見るのは俺は初めてだ。文献でしか知らなかった」
ガレオは装置を慎重に掌の上で回した。
「対がないんだろうな」
「おそらく」
「じゃあ、ただの装飾品だ。動かん」
「ああ」
ガレオは装置をアルトに返した。
アルトは装置をもう一度、掌に乗せた。
中央の宝玉は変わらず、ほんのわずかに温かい。
イリスが進み出てきた。
「アルト卿」
「はい」
「その品、お持ち帰りに――お願い申し上げます」
アルトは顔を上げた。
「いや、それは」
「祖母が申しておりました」
イリスは穏やかに続けた。
「『この品はいつか海から渡ってきた人のもとへ、必 ず、返さねばならない』と」
「……」
「祖母は卿のことを見ていたのだと――私は今、思っ ております」
アルトは装置の宝玉を見つめた。
見も知らぬ祖母の手の温度が三百年の海を越え、
自分の掌の上に置かれていた。
「……お預かりいたします」
アルトはそれだけ告げた。
装置を自分の懐の奥深くにしまった。
*
ヴェルディ家を出る頃には夕暮れが近かった。
玄関先でイリスが深く、膝を折った。
「本日のお運び、心より感謝申し上げます」
「こちらこそ」
「アルト卿」
「はい」
「次のお運びの折は、ぜひ――殿下とご一緒に」
アルトは顔を上げた。
イリスが微笑んでいた。
媚びはなく、ただ――知っている人の微笑みだっ た。
「殿下にもこの書庫をお見せいたしとう存じます。 本日は卿のための日でございましたから」
アルトはしばし黙ったまま、深く頭を下げた。
「……殿下にお伝えいたします」
「お願い申し上げます」
馬車が動き出した。
車中、ガレオはしばらく無言だった。
書物の山と対話石が――彼を別人にしていた。
やがて、ガレオがぽつりと呟いた。
「あの娘、よく出来てる」
「ああ」
「敵じゃないな」
「ああ」
「殿下がなぜ今日同行なさらなかったのか――
よく、分かった」
アルトはガレオを見た。
「……」
「いや、悪い。学者の独り言だ」
ガレオは眼鏡を押し上げ、窓の外に視線を移した。
それきり、何も言わなかった。
*
アルトは懐の対話石にそっと片手を触れた。
布越しにわずかな温もり。
三百年前――父はこの装置の片割れを自分に渡し た。
「離れていても、お前の声が聞こえるように」
そう告げた父の声をアルトはまだ覚えていた。
父の声はもう聞こえない。
けれど――装置はまだ温かい。
アルトはふと、王宮の方角を見た。
夕暮れの屋根の海の向こうに白い王宮の塔が小さ く浮かんでいた。
あの塔の中でリーシェリアがまだ執務をしている はずだった。
お話を聞かせてください、と王女は告げた。
何を、どう、伝えるか。
書庫のこと。
五十冊のこと。
海の人の祖母のこと。
そして――この対話石のこと。
アルトは気づいた。
自分の中に知らぬ間にたくさんの言葉が
溜まっていた。
殿下のお顔を見たい、という言葉。
早くお伝えしたい、という言葉。
三百年前――姫様にお話ししたいと、そう思ったこ とがあった。
けれど今、それはもう姫様のことではなかった。
アルトはその思いから――目を逸らさなかった。




