第14話 ヴェルディ家
お披露目から十日が過ぎていた。
王宮の朝はゆっくりと動き始めていた。アルトはリーシェリアの執務室の隅で剣帯を整え、王女が机に向かって書類を捌くのを待っていた。窓の外で、薄い雲が王都の屋根の上を流れていた。
王女が顔を上げないまま告げた。
「アルト卿。今日は午後まで内政の用ばかりです。お暇でしたら、書架の方をご自由に」
「ご一緒に控えております」
「退屈ではございませんか」
「殿下のお側で退屈したことは、いまだございません」
王女の筆が一瞬、止まった。
それから、何事もなかったように再び動き出した。
筆先が紙の上を走る音だけが、しばらく室内に満ちた。
アルトはその音を聞きながら、自分のたった今の答えが、いつもより少しだけ前のめりだったことに気づいた。
気づいて、それきり考えないことにした。
そこへ侍従が銀の盆を捧げて入ってきた。
「殿下。お届け物でございます」
盆の上に、一通の書状。
封蝋は深い紺。中央に小さな船の意匠が浮かんでいた。
王女が筆を置いた。封を切る指がいつもよりわずかに丁寧だった。
読み進める王女の表情に、ふと驚きが走った。
「……ヴェルディ家」
「ヴェルディ、と申しますと」
「サフィリア最大の海運貴族です。王家を別とすれば、最も裕福な一族」
王女は書状を机に置いた。
「園遊会のお招き。私と、アルト卿に」
「私に、と」
「ええ。当主の自筆」
王女はわずかに考えてから続けた。
「ヴェルディ家は私が公の招きに応じた家ではありません。母が存命の頃に一度伺っただけ。あれから八年、こちらからのお運びはございません」
「……何かを、お持ちでいらっしゃるのですね」
「おそらく」
王女は書状の封蝋に指を置いた。船の意匠の縁を、ゆっくり辿った。
「当家には祖母の代より相伝の品がいくつかございます――そう書かれております。卿に、ご検分いただきたいと」
「アルカディアの遺物、と」
「名指しはしておりません。けれどそう読めます」
アルトはわずかに目を伏せた。
『相伝の品』という言葉の運び方。王女の語気にこもった慎重さ。それらが指し示すものは、ほぼひとつしかなかった。
「殿下」
「はい」
「お受けになりますか」
王女はすぐには答えなかった。
机の上の書状をもう一度、目だけで辿った。
「貴族の招きには、政治がつきものでございます」
王女は静かに告げた。
「ヴェルディ家は私を篭絡しようとなさるかもしれない。あるいは、卿を」
「ご懸念は」
「ええ」
王女は、しばし窓の外に視線を移した。雲がゆっくり王宮の塔の上を渡っていた。
「ですが、相伝の品が本当にアルカディアのものであるならば。それは、卿のお手に渡るべきものでございます」
「殿下」
「お受けいたします、と返信を」
王女は侍従に向かって告げた。それから、ようやくアルトに視線を戻した。
「ご足労をおかけいたします」
「足労ではございません」
アルトは短く応じた。
王女がほんのわずか、微笑んだ。
公の微笑みではなかった。けれどそれを名づける言葉をアルトはまだ持っていなかった。
*
夜、王宮の書斎にガレオがいた。
机の上に何枚かの羊皮紙。海図、家系図、それから古い港の見取り図。アルトが入っていくと、ガレオは眼鏡の縁を押し上げて顔を上げた。
「ヴェルディ家、ねぇ」
「殿下から伺ったか」
「侍従経由でな。明後日のお運び、俺も同行を仰せつかった」
「助かる」
「助かるのはこちらの方さ。学者として何年も前から覗いてみたい家だった」
ガレオは家系図の一枚をアルトの方へ滑らせた。
「ヴェルディは古い。サフィリア建国より前から海運をやってる家系だ。建国に資金を融通したのもこの家。だから王家はずっと、この一族に手出しできない」
「つまり敵に回したい家ではない、と」
「そういうこと」
ガレオは見取り図の隅を指で叩いた。
「ここ、王都の南東。私設の港を抱えてる。商船八隻。王立商船団より多い」
「八隻」
「ああ。しかも全部、自前で守る。海の魔物がよく出る海域でもこの家の船はめったに沈まない」
アルトは家系図をしばらく眺めた。当主の名の下に、子は一人だけ書かれていた。
「当主の娘」
「ああ。イリス・ヴェルディ。歳は二十そこそこのはずだ」
「どんな娘だ」
「噂は、いくつか」
ガレオは眼鏡の縁を軽く押した。
「社交の場には滅多に出ない。十二から十八まで、家の船に乗って各島を回っていたという話だ。貴族の娘らしくない貴族の娘――ってのが市井の評判さ」
「船に」
「ああ。それが本当なら、あの娘は商人の頭で物事を見る。貴族の婚姻政治には乗らんかもしれん。逆に、もっと厄介なものを差し出してくる可能性もある」
「厄介、というと」
「祖母の代から伝わるアルカディアの品、とかな」
ガレオはにやりと笑った。
「で。本気で渡すつもりの相手にしか見せない品ってのが世の中にはあるんだよ。騎士殿」
アルトは家系図から目を上げた。
窓の外で、夜風が王宮の松を撫でていた。
*
二日後の朝、馬車が王宮の南門を出た。
白い薔薇の生垣がもう何分も馬車の窓に流れていた。
並みの貴族の邸宅ではないと、アルトにも分かった。
向かいに座るリーシェリアは膝の上に薄い帳簿を開いていた。書類を確かめる手の動きが、王宮で見るときよりわずかに遅い。馬車の揺れのせいばかりでは、おそらくない。
「お思いごとがおありかと」
アルトが告げた。
「……」
「ご無理をなさいませんよう」
「ええ」
王女は帳簿を閉じた。膝の上で組んだ指が、いつもより少しだけ強かった。
「アルト卿」
「はい」
「もし、本当にアルカディアの書物や装置がございましたら」
「はい」
「お心のままにお確かめください」
「殿下」
「私の立場をお気になさいませんよう。卿のお手に渡るべきものは、卿の判断で」
アルトはしばし黙った。
王女のその言葉は、ヴェルディ家への配慮ではなかった。アルトに対しての――言ってしまえば、政治の道具に巻き込みたくない、という配慮だった。
「ありがとうございます」
アルトはそれだけ告げた。
王女の手がほんのわずか、ほどけた。
馬車が止まった。
車寄せの石畳に降り立つと、潮の香りがした。邸宅は丘の中腹にあり、眼下に私設の港が広がっていた。停泊する商船の白い帆が午後の光の中で点々と立っていた。
「お待ち申し上げておりました、殿下」
白髪の執事が深く頭を下げた。
「アルト卿。当家の園遊会にようこそお運びくださいました」
「世話になる」
執事の眼が一瞬だけアルトの胸の銀の薔薇章に注がれ、すぐに伏せられた。礼儀正しい人間特有の見たことを見ていないふりをする伏せ方だった。
「庭園にて、皆様がお待ちでございます」
*
薔薇の生垣の間を石畳の小道が抜けていた。
アルトは歩幅をリーシェリアに合わせた。三百年前の癖だった。姫様の隣を歩く時の歩幅。半歩前でもなく半歩後ろでもなく、ちょうど、隣で。
リーシェリアの淡い金の髪が午後の風に揺れた。アルトは前を向いたまま、視界の端でその色を捉えていた。
生垣を抜けた。
「――ほう」
誰かが声を漏らした。
庭園の中央に白い天幕が張られていた。卓と椅子。立食の銀盆。集まった人々の視線が一斉に、二人へ向いた。
四十人ほどか。
皆、上等な絹の上衣。年長の男たちは杖、夫人たちは扇。
その全員がアルトを見ていた。
お披露目の広場の数千の眼差しとは、別物だった。
広場のそれは、熱狂だった。
ここのそれは――観察だった。
値踏みする、静かな眼差し。
「アルト・ヴェルナー卿」
奥から声がした。
白髪を後ろに撫でつけた壮年の男が進み出た。海風に灼けた肌。深い銀の刺繍の入った濃紺の上衣。胸に小さな船の徽章。
「ヴェルディ家当主、エルセス・ヴェルディにございます。本日のご来駕、当家の誉れに」
「お招き、感謝する」
「リーシェリア殿下もようこそ」
王女が微笑んだ。お披露目で見せた、公の微笑みだった。
「エルセス。久しゅう」
「殿下のお運びは、何年ぶりでしょうな」
「八年でしょうか」
「左様でございました。あの折は亡き王妃様もご一緒で」
ヴェルディの声が、わずかに低くなった。
リーシェリアの目元が一瞬翳り、けれどすぐに王女の顔に戻った。
「本日は娘にもぜひお会いいただきたく」
ヴェルディが軽く片手を上げた。
天幕の奥から一人の若い女性が進み出てきた。
濃紺の絹のドレス。襟元に小さな銀の船。髪は黒に近い濃い栗色で、肩より少し下まで素直に流していた。背は王女より少し低い。
アルトの視線が、ふとその歩き方に留まった。
貴族の娘の歩き方ではなかった。
地面を見もせず、けれど確実に石畳の継ぎ目を踏まない。船の上で育った人間の揺れに馴染んだ歩幅だった。
女性は二人の前で立ち止まり、深く膝を折った。
「殿下。アルト卿」
「面を上げよ、イリス」
顔を上げた女の目を、アルトは初めて見た。
濃い灰色。落ち着いた眼差し。緊張も媚びもなかった。
ただ、何かを長く待っていた人間の眼差しだった。
「イリス・ヴェルディと申します。アルト卿、お会いできて、光栄でございます」
ありきたりの挨拶だった。
ただ「お会いできて」に、わずかな間があった。
*
園遊会は始まっていた。
最初の半刻は型通りだった。年長の貴族が次々に挨拶に来た。皆、アルトを「アルカディアの騎士殿」と呼び、適度な距離を保って下がっていった。求められていたのは会話ではなく、アルト・ヴェルナーに挨拶をしたという事実だった。
リーシェリアは時折アルトに視線を向けた。退屈ではないか、と問う眼差し。アルトは目で大丈夫だと返した。
ふた回り目の挨拶の波が引いた頃、イリス・ヴェルディが進み出てきた。
「アルト卿」
彼女は王女に深く一礼してから告げた。
「殿下のお許しをいただけましたら、少しだけ、お話を伺いとう存じます」
王女がアルトを見た。
「卿のお気持ち次第です」
「では」
イリスは王女に向き直った。
「殿下のすぐお側で、お話しさせていただきます」
その一言はアルトの予想を超えていた。
貴族の娘というのは、王族の連れている男と話す機会を、王族から少しでも引き離す方向に使うものだった。
けれどイリスは違った。
王女の隣で、と宣言した。
――王女の前で交わせる話しかいたしません。
そういう意思表明だった。
リーシェリアがわずかに目を見開いた。
「お好きなように、イリス」
「ありがとうございます」
イリスはアルトの正面に立った。
王女はその斜め後ろ、白い天幕の柱に近い椅子に腰を下ろした。アルトとイリスのやり取りが、王女の視界の中で繰り広げられる構図になった。
イリスは正面からアルトを見上げた。
「卿。私の祖母は私が幼い頃、よくアルカディアの話をしてくれました」
アルトは黙って聞いた。
「祖母の家には、アルカディアの遺物が幾つかございます。古い装置が三つ。書物が、五十冊ほど。書物は祖父の父の代から、商船の積荷の中で受け継いだものでございます」
アルトの視線が、わずかに鋭くなった。
「五十冊」
「はい」
「アルカディアの書物が、五十」
「左様でございます」
王立考古学院に残るアルカディア期の書物は、十冊に届かない。あとは断片と写本だった。
それが、五十。貴族の家に。
「拝見できるだろうか」
アルトの声がわずかに低くなった。
「いつでも、お好きな時に」
イリスは微笑んだ。穏やかな微笑みだった。獲物を釣り上げた者の顔ではなかった。
「祖母はずっと申しておりました。『この書物は、いつかそれを必要とする方の手に渡るべきものだ』と。祖母は数年前に亡くなりましたが、その言葉は私が引き継いでおります」
アルトは何も言えなかった。
「卿のような方が今、サフィリアにいらっしゃる」
イリスは続けた。
「祖母の言葉が本日、ようやく現実になります」
アルトは深く頭を下げた。
「ご厚意、痛み入る」
「いいえ。私の方が感謝しております」
「と、申されると」
「祖母の言葉を果たす機会を卿が下さいましたから」
アルトは顔を上げた。
イリスの濃い灰色の目が、まっすぐにアルトを見ていた。媚びはなかった。下心もなかった。ただ、長い間抱えてきた何かを今日ようやく渡せるという、安堵だけがそこにあった。
アルトはその眼差しから、すぐには目を逸らせなかった。
イリスがしばらく、何かを思い出すような顔をした。
それから声の調子をひとつ落とした。
これまでの貴族の娘の声ではなかった。書物の頁の奥にしまわれていたものを、初めて誰かに開いて見せる時の声だった。
「卿」
「はい」
「卿は、子どもの頃――アルカディアでお好きだった祭礼が、おありになったでしょうか」
アルトの動きが一瞬、止まった。
そんなことを尋ねられた覚えが目覚めて以来、なかった。
人々が聞きたがるのはいつも、アルカディアの華やかな話ばかりだった。空に浮かぶ街。銀の都。剣の技。
子どもの頃の祭礼の話を――誰一人として、尋ねなかった。
「お祖母様のご書物に祭礼の記述が」
「ええ。いくつかございます。けれど、実際に参加された方のお話を私は伺ったことがございません」
アルトはしばし黙った。
それから、口の端が少しだけ緩んだ。
「春告げの祭り、でございます」
「春告げ」
「春の初め、街中の門扉に色とりどりの絹のリボンを結ぶ祭礼で。子どもらは誰よりも高い場所に、誰よりも長いリボンを結ぼうと、夜明け前から走り回るのです」
「……」
「ただし、見つかってはなりません。見廻りの衛士や、大人の通行人に気づかれてしまえば、その日の結びは無効になります」
アルトの声が、わずかに緩んだ。
「私は六つの歳に王宮広場の鐘楼にリボンを結ぼうとして、半ば登った所で見廻りの衛士に見つかりました」
「まあ」
「見つかった上に降りる時に踏み外しまして、左の手首を折りました」
イリスが、思わず手で口元を押さえた。
笑いを堪えている顔だった。
アルトはもう一度笑った。
「母は、たいそう怒っておりました。リボンを結ぶ場所はもっと低い所でよいのだ、と」
「……それでリボンは」
「次の歳から、私は地面に近い所にしか結ばなくなりました」
「ご賢明なご判断でございますね」
「いいえ。あれは母を怒らせぬための判断でございます」
イリスがこらえきれずに、小さく声を上げて笑った。
アルトも、笑った。
天幕の柱の側で、リーシェリアがワインのグラスを口に運んでいた。
二人の声がずいぶん長くなっていた。
最初は書物の話だった。
それから――アルカディアの春の祭りの話。
王女はこのようなアルトの笑い方を、初めて見たことに気づいた。
ご公務でもなく。
剣を抜く時でもなく。
子どもの頃のリボンの話で、卿はあのような顔をなさるのか。
王女の指がほんのわずか、グラスの脚を強く握ったことに――王女自身、すぐには気づかなかった。
気づいた時、王女は自分の手元から目を逸らした。
気づかぬふりをした。




