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第17話 銀の指輪

 

 その日の昼、アルトはノエに連れられて、王宮の図書室を訪れた。


 リーシェリアが自分の幼い頃の話を「文書を見ながら聞いていただきたい」と言ったためだった。


 サフィリア王宮の図書室は、アルカディアの大図書館と比べれば慎ましい規模だった。けれど整然と並んだ書架と、丁寧に保管された羊皮紙の山と、窓から差し込む昼の光が、この場所に静かな威厳を与えていた。


 古い紙の匂いがした。


 三百年前の大図書館と、同じ匂いだった。匂いだけは、国が変わっても、時代が変わっても、変わらないらしかった。


 リーシェリアは奥の小部屋に二人を案内した。


 王族専用の閲覧室。木の机と椅子、そして壁一面の書架。書架には王家に関する記録と、王女自身が読んだ膨大な書物が並んでいた。


「ここは、私の隠れ家のようなものです」


 リーシェリアは机に小さな羊皮紙の束を広げた。


「これは私が物心ついた頃からつけている日誌の一部です」


「殿下、それは私的なものでは」


「ええ。ですから一部だけお見せします」


 王女はそのうちの一冊を選び、ぱらりとめくった。そして九歳の頃のページを開いた。


「ここをご覧ください」


 アルトは机に身を寄せて文字を読んだ。子供の丸い文字で、こう書かれていた。


『今日もお母さまにご本を読んでいただいた。アルカディアという空の国のお話。空に浮かぶお城があって、王女さまがいて、その王女さまをお守りする騎士さまがいたという。お母さまはこの王女さまのお話をすると、よくないておられる。なぜ泣いておられるのか、わたしには、まだわからない』


 アルトは指先がわずかに震えるのを覚えた。


 王女さまをお守りする、騎士さま。


 子供の丸い文字が三百年前の彼自身を、知らずに指していた。


「……これは」


「私が九歳の時の日誌です」


 王女は静かに続けた。


「母はリッセン伯爵家の出でした。母の家には、女王の指輪と呼ばれる古い指輪が伝わっていました」


「ガレオから聞きました」


「ええ。母はその指輪を時折取り出して、私にアルカディアの物語を聞かせてくれました。空に浮かんだ豊かな国があり、そこには美しい姫がいて、彼女には誠実な騎士がいた。けれどその国は、ある時、海の底に沈んでしまった、と」


「……」


「母はその物語を語る時、必ず泣いていました」


 王女は別のページをめくった。もう少し年長になった頃の整った文字。


『お母さまが亡くなった。お母さまは最後にわたしに女王の指輪を渡してくださった。「リーシェリア。この指輪は、いつかあなたを助けてくれるかもしれません」とおっしゃった。わたしは何のことかわからなかった。けれど指輪を握って、わたしも、お母さまのように泣いた』


 アルトはその文字をじっと見つめていた。


 九歳の丸い文字と、十五歳の整った文字。


 同じ手が六年かけて、泣き方を覚えていた。


 王女が続けた。


「私は十五歳で母を亡くしました。母の遺言で、女王の指輪は私のもとに残されました」


 王女は自分の右手を机の上に置いた。そしてその薬指を見せた。


 そこには細く繊細な銀の指輪がはまっていた。


 アルトはその指輪をじっと見つめた。


 見覚えがある。


 アルトの記憶が三百年の隔たりを越えて、ある光景を呼び起こした。


 アルカディアの王宮、姫様の私室。姫様の鏡台の小さな宝石箱の中に、確かにこうした形の銀の指輪がひとつだけ転がっていた。


 姫様は時折それを取り出して、自分の薬指に試しにはめてみては、外して、また宝石箱に戻していた。


「これは、わたしのお母さまが残してくださったものです」


 と、姫様は笑いながらアルトに語ったことがあった。


「いつか結婚する時にはめましょう」


 その指輪が、三百年後の今、リーシェリアの薬指にはまっている。


 アルトはしばらく言葉を失った。


「アルト卿」


 リーシェリアが、彼の表情の変化に気付いた。


「この指輪にお心当たりが?」


「……はい」


 アルトはようやく言葉を絞り出した。


「姫様の鏡台にこれとよく似た指輪がございました」


「……」


「同じものかは私には判じかねます。ですが、形は寸分違いません」


 王女はゆっくりと自分の指から指輪を抜いた。そしてそれを机の上に置いた。


 銀の細い指輪。中央に小さな水色の宝玉。柄頭の刻印は、銀の薔薇。


 アルカディア王家の薔薇紋章。


 三百年の歳月を経て、傷ひとつない、銀の薔薇。


「……」


 アルトは指輪に手を伸ばしかけて、思いとどまった。触れる勇気が出なかった。


「どうぞ」


 リーシェリアが促した。


「お手に取ってください」


 アルトはその指輪を慎重に取り上げた。


 軽かった。


 こんなにも軽いものが三百年を渡ってきた。


 細い銀の輪。アルトの指の上で、銀の薔薇が、ランプの光に照らされて淡く煌めいた。


 三百年前、アルトはこの指輪を、まさにこうして指の上に乗せたことがある。姫様の私室の鏡台。「いつか結婚する時に、はめましょう」と、姫は笑っていた。


 姫様は、はめないまま逝った。


 その指輪が三百年の旅路を経て、今、別の女性の手にある。


 アルトは指輪を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 リーシェリアは、指輪を見つめるアルトの顔をじっと見ていた。やがて静かに言った。


「アルト卿。私は母から指輪を渡された時、こう思いました。『私はこの指輪のために生きるのではない』と」


「……」


「母も、母の母も、その前の代も、誰もが指輪を伝統として大切にしていました。けれど私はその伝統に押し潰されたくありませんでした。私は私の意思で、私の選んだ生き方をしたかったのです」


 王女はアルトから指輪を受け取った。そして自分の薬指に再び、はめ直した。


「私が指輪をはめているのは、伝統に従っているからではありません」


 王女は微笑んだ。


「これが私自身に何かを思い出させてくれるからです」


「思い出させる、と」


「ええ」


「私はリーシェ姫の血を引いているかもしれません」


 王女は、はめ直したばかりの指輪を静かに見つめた。


「けれど私はリーシェ姫の生まれ変わりでもなければ、その遺志を継ぐ道具でもありません」


 王女の声は静かだったが、確かだった。


「私はリーシェリアです」


「……」


「それ以上でも、それ以下でも、ありません」


 アルトはしばらく、その横顔を見つめていた。


 三百年前にアルトが守ろうとしたのは、姫様という一人の女性だった。


 いま目の前にいるのは、姫様にそっくりの顔をしながら、姫様ではない別の意思でここに座っている、リーシェリアという別の人間だった。同じ血の色をしているかもしれない。けれど――別の人だ。


「殿下」


 アルトは静かに口を開いた。


「はい」


「ご無礼を承知で、ひとつだけお話し申し上げてもよろしいでしょうか」


 王女はゆっくりと顔を上げた。


「はい」


「私が初めて殿下にお目通りしました時――殿下のお顔に、姫様の面影を見ておりました」


 王女の指がわずかに机の上で止まった。


「事実でございます。お詫び申し上げます」


「アルト卿。それは、お詫びになるようなことでは――」


「ですが、いまは違います」


 王女が顔を上げた。


 アルトは王女の目を、まっすぐに見た。


「いま、私が殿下のお側に控えておりますのは、姫様の面影のためでは、ございません」


「……」


「殿下ご自身のために、ここにございます」


 短い、けれど、揺るぎのない言葉だった。


 王女はしばらく何も言わなかった。


 膝の上で組まれた指が、わずかに白くなった。


 けれど、その表情は崩れなかった。崩さなかった。


 王女は、机の上の指輪に視線を落とした。三百年の銀の薔薇。母が残し、姫様が遺し、いま自分の薬指にある、ひとつの輪。


 その輪に、静かに息をかけるように告げた。


「……ありがとう存じます、アルト卿」


 アルトは深く頭を下げた。


 言葉はそれ以上、続けなかった。続ければ、片方が約束を口にし、片方がそれを受け取ってしまう。今は――まだ、そうしてはいけない場所だった。


 王女は息を整え、日誌の冊子を、ゆっくりと閉じた。


 子供の丸い文字も、十五歳の涙も、表紙の下に、静かに仕舞われた。


「では、今日の日誌の話は、ここまでにいたしましょう。今宵の夕食をお楽しみに」


「御意」


 アルトは閲覧室を辞した。


 廊下を歩きながら、彼は胸ポケットの深紅の薔薇に、軽く手を触れた。


 薔薇は、朝とおなじ場所でまだ咲いていた。


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