第9話 まだじゃ
負けるのか。
その言葉だけが、頭の芯に残っていた。
白石が置かれる。小春の時計が動き出す。
三十秒。
盤を見る。
中央。
左辺。
下辺。
白は厚い。黒は薄い。
右上へは、もう手を戻さない。
なら、残っている石で打つ。
黒石を摘まむ。
置く。
凛はすぐには返さなかった。盤を見る。小春の打った場所を見る。それから、白石を一つ摘まんだ。
凛には、まだ持ち時間が残っている。
黒の薄いところへ入ってくる。
(そこか)
嫌なところだった。受ければ遅れる。手を抜けば、次が厳しい。
前なら、もっと時間を使って読んだ。今は三十秒しかない。長く考えている暇はない。
けれど。
似た形なら、知っている。
何度も追われた。何度も苦しくなった。何度も、そこから手を探した。
二十二。
白が押すなら、こちら。
十七。
その先で切られたら。
十二。
黒石を置く。
凛の手が、少し止まった。
小春の時計も止まる。その間に、盤を見る。
次に来る場所。
その次。
白石が置かれた。
三十秒。
今度は、打たれた瞬間に一つ見えた。
(ここじゃ)
黒石を置く。凛が受ける。
また三十秒。
別の場所が見える。そこへ打つ。
一手。
また一手。
盤面は楽にならない。白の方が、まだ打ちやすそうに見える。
それでも。
小春の手は、止まらなかった。
◆◆◆
白が中央を厚くする。
その瞬間、端の薄いところが見えた。
黒石を置く。
白が黒石を追う。逃げる手もある。受ける手もある。
その隣に、もっと嫌な手が見えた。
そちらへ打つ。
凛の視線が動く。
今打たれた黒石。
その先。
盤の反対側。
数秒。
白石が置かれる。
三十秒。
また見える。
小春は石を摘まむ。
迷っている暇はない。だから、余計なものまで読む必要もない。
今、必要なところだけ。
相手が嫌がる場所。
少しでも得をする場所。
まだ手になる場所。
そこへ石を置く。
凛が受ける。
次。
また別のところへ触る。
白が止める。
なら、もう一つ。
凛の手が、さっきより長く止まった。
小春は盤を見た。
右上は見ない。もう、そこへ助けるための手は入れない。
残っている石。まだ弱い白。入り込める隙間。切れそうなつながり。
そこだけを見る。
白石が置かれる。
三十秒。
黒石を摘まむ。
(まだある)
置く。
凛がすぐに返す。
三十秒。
(こっちも)
置く。
今度は、凛が少し考えた。小春はその間に次を探す。
長考はできない。
けれど。
考える時間が短いからこそ、昔から何度も見てきた形だけが、先に浮かんでくる。
七十年近く打った。勝った碁も。負けた碁も。苦しくなった碁なら、なおさら覚えている。
似た景色はいくらでもあった。
その一つ一つが、今は時間の代わりになる。
盤面が悪くなってからの岩城宗一は、嫌な棋士だった。勝っている側からすれば、たまったものではない。
その嫌な棋士は、まだ盤の前に座っている。
白が打つ。
三十秒。
黒を置く。
また白。
また三十秒。
また黒。
細い。
まだ細い。
だが。
何もないわけではない。
◆◆◆
会場の空気が、少し変わっていた。
小春は盤から目を離さない。それでも分かる。
近くで見ていた子供たちの声が減った。盤の横を通りかかった係の人が、一度だけ足を止めた。少し離れたところで、誰かが息を吐いた。
終局が近い碁を見る時の空気だった。
覚えがある。何度も、その中心に座ったことがある。勝っている時も。負けている時も。
そして今。
盤の向こうの凛からも、同じものを感じた。
手が乱暴になったわけではない。むしろ逆だった。危ないことをしない。黒に余計な手段を与えない。白が厚いところでは無理をせず、黒の弱いところだけを順番に消していく。
勝ちをまとめる打ち方だった。
(……そうか)
小春は盤を見る。
凛は、もう終わらせに来ている。周りも、そう見ている。おそらく、かつての自分が向こう側に座っていたとしても、同じように考えただろう。
普通なら。
そろそろ終わる。
そういう碁だ。
白石が中央へ置かれた。黒の形が、また少し薄くなる。
三十秒。
時計の数字だけが、妙にはっきり見える。
二十六。
盤を見る。
右上。
中央。
左辺。
下辺。
二十一。
白が厚い。黒は苦しい。
十七。
それでも。
まだ打つ場所はある。
十三。
まだ使える石がある。
九。
まだ弱い白もある。
六。
黒石を摘まむ。
置く。
凛が、ほんの少しだけ目を細めた。
白石が返ってくる。
また三十秒。
小春は盤を見る。
終わっていない。
まだ。
まだ。
右上の石を、助けるのをやめた。それで勝てるわけではなかった。今までと違う手を打ったからといって、勝てるほど碁は都合よくできていない。
悪くなることもある。間違えることもある。苦しくなることもある。
だから何だ。
小春の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「……まだじゃ」
声に出ていた。
凛が、盤から目を上げた。
小春は盤から目を離さない。
「この程度で」
自分の声が、妙に低く聞こえた。
「わしが投げると思うたか」




