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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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第10話 わし?

「……わし?」


 凛は、思わず聞き返していた。


 小春は答えない。こちらを見もしない。黒石を一つ摘まみ、盤だけを見ている。


 時計の数字が減っていく。それでも、小春の指は急いでいるようには見えなかった。


 黒石が置かれる。


 凛は盤へ視線を戻した。


 今の言葉は何だったのか。


 少なくとも、凛の周りに「わし」なんて言う五年生はいない。


 けれど。


 変なのは、今に始まったことではなかった。



◆◆◆



 最初に打った時から、変な子だと思っていた。


 強い。


 それはすぐに分かった。読みも、形の見方も、盤全体を見る速さも、教室にいる普通の小学生とは違った。


 なのに、いらない石まで助けようとする。助ければ遅れると分かっているように見えるのに、それでも戻る。


 凛には、それが分からなかった。


 前の対局でも同じだった。自分で碁を悪くして。それでも、最後には勝っていた。


 その時も、変だと思った。


 この対局は、もっと変だった。


 序盤。


 凛は、小春がそこへ受けると思っていた。目の前の白を止める、普通の一手。教室で見た小春なら、なおさら受けると思った。


 けれど、小春は受けなかった。


 別の場所へ回った。


 目の前では白が得をした。


 そのはずなのに。


 盤全体を見ると、黒の方が広かった。


 気持ちが悪かった。


 だから、盤ではなく小春を見た。何を考えているのか、確かめたくなった。


 小春は何も言わなかった。いつもの静かな顔で、次の黒石を置いただけだった。


 強い子ならいる。自分だって、そう言われてきた。年齢より強いことくらい、別におかしくない。


 そう思っていた。



◆◆◆



 白が黒を追う。


 黒が受ける。


 次も受ける。


 そう思ったところで、小春は別の場所へ打った。


「……」


 凛は盤を見る。


 無視できる。


 そう読んで。


 もう一度見る。


 無視した先も読む。


 結局、白石を置いた。


 黒が先へ回る。


 まただった。


 逃げるだけなら、捕まえられる。守るだけなら、その分だけ白が先へ行ける。


 さっきまでは、そうだった。


 なのに小春は、逃げながら別の場所へ触る。守りながら白の弱いところを突く。一手受けさせてから、自分の石へ戻る。


 追っているのは白のはずなのに。


 気づけば、凛の方が行き先を決められていた。


(なんで)


 白石を置く。


 小春はすぐに黒石を返す。


 三十秒しかない。それなのに、返ってくる。


 一手。


 また一手。


 読み切ってから打っているようには見えない。迷っていないわけでもない。なのに、白が嫌なところだけは外さない。


 凛は盤の右上を見た。


 黒石が九つ。


 あの石を守りに、小春はもう戻ってこない。


 途中までなら、絶対に戻ってくると思っていた。だから聞いた。守らないのか。まだ助けられるのに、と。


 それでも、小春は戻らなかった。


 それから一度も右上を助けるための手を打っていない。


 その一手ぶん黒は、ずっと別の場所へ来る。


(……変わった?)


 違う。


 それだけではない。


 前から持っていた嫌なところが、急に盤いっぱいへ広がったように見えた。


 苦しくなってから、手が止まらない。


 追えば逃げる。逃げながら、こちらへ触る。こちらが受ければ、その一手でまた先へ回る。


 白が得をしているはずなのに、その得が少しずつ削られていく。


 凛は自分が少し前に打った一手を思い出した。


 盤の端。小さく見えた黒の手。


 受けなくてもよかった。少なくとも、そう読んでいた。


 それでも受けた。


 勝っていたから。危ないことをしなくても、そのまま終わらせられると思ったから。


 それに。


 小春に、そこから何かされるのが嫌だった。


 たったそれだけだった。


 その一手で、小春は大きいところへ先に回った。


 そこから。


 ずっと、黒の手が途切れない。


(あたしが、受けたから?)


 それだけでひっくり返るような差ではなかった。分かっている。


 だから余計に、分からなかった。



◆◆◆



 会場の声が聞こえなくなっていた。


 静かになったわけではない。周りには人がいる。ひなたも、先生も、小春のお母さんもいる。それでも凛の耳には、盤の近くの音しか入ってこなかった。


 石が置かれる。時計が切り替わる。小春が次の石を摘まむ。


 白が攻める。


 黒は全部を守らない。弱い石を一つだけ動かす。白が追えば、別の場所へ打つ。無視しようとすると、その先が思ったより大きい。受ければ、黒がまた先へ行く。


 少しずつ。


 本当に、少しずつだった。


 だから最初は気づかなかった。


 白の打ちたい場所が減っている。黒を追い込める場所も減っている。


 ここへ打てば苦しいはず。


 そう思って打つ。


 返ってくる。


 次。


 これなら。


 返ってくる。


 その次。


 返ってくる。


(なんで、全部あるの)


 小春は苦しそうな顔をしない。余裕がある顔でもない。


 ただ盤を見ている。


 三十秒ごとに。


 ずっと。


 凛は時計を見る。


 自分には、まだ時間がある。考えられる。読める。小春より長く。


 それなのに。


 先に答えをなくしているのは、凛の方だった。


 また白石を置く。小春の時計が動く。黒石が返ってくる。


 速い。


 凛は盤を見る。


 右辺。


 中央。


 下辺。


 どこへ打っても、何かが残る。


 さっきまで。


 白は、勝ちをまとめればよかったはずなのに。


 いつから。


 追いつかれた。


 違う。


 追い越された。


 五年生。


 自分より一つ下。


 さっきは、「わし」と言った。


 それでいて、この碁だ。


(……ほんとに小学生なの?)



◆◆◆



 二百手目。


 凛は白石を置いた。小春の時計が動き始める。その間に、盤全体を見る。


 数える。


 右上。


 白の地。


 黒の地。


 中央。


 下辺。


 もう一度。


(……足りない)


 凛の指先が、碁笥の縁へ触れた。


 白が。


 足りない。


 少し前まで、反対だった。右上の黒を押し込み、小春の形を薄くして、あとは危ないことをしなければよかった。


 周りも、そう思っていた。凛にも分かっていた。


 なのに今。


 普通に打ったら、届かない。


 顔を上げる。


 小春は盤を見ていた。さっきと同じ。何を考えているのか、分からない。


「……」


 凛は唇を結んだ。


 嫌だった。


 このまま終わるのは。勝っていたはずなのに、と言い訳するのも。相手が変だったから、で済ませるのも。


 何より。


 小春に、このまま負けるのが嫌だった。


 黒石が置かれる。


 二百一手目。


 凛はすぐに白石を持たなかった。盤を見る。


 普通の手では届かない。大きいところを打っても、小春は受ける。薄いところを狙っても、たぶん返してくる。


 なら。


 正しく返されたら、白が損をする。


 それでも。


 間違えれば、盤面が大きく動く場所。


 一手だけ。


 残っている。


 下辺中央。


 凛は白石を摘まんだ。


 こんな手は、普段なら打たない。損だと分かっている手を、わざわざ選ばない。


 でも。


 普通に打って届かないなら。


 普通じゃないことをするしかない。


 白石を置く。


 二百二手目。


 指を離す。


 凛は、小春を見た。

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