第11話 そこ?
白二百二手目。
小春の視線は、凛が置いた白石へ落ちた。
下辺中央。
普通に受ければ、白にもまだ動かせる場所がある。間違えれば、もっと大きく動く。そのために打った。
勝つためというより。
間違えてもらうための一手だった。
小春の時計が動いている。
三十秒。
小春は盤を見る。
白の勝負手。
その周り。
少し離れた場所。
そして。
黒石を一つ摘まんだ。
(来る)
凛は下辺を見た。受ける場所は、いくつかある。強く来るなら、ここ。軽くかわすなら、こっち。その先も読んである。
黒石が盤へ触れた。
音は、下辺からしなかった。
「……え?」
凛の目が動く。
白の二百二手目から遠く離れた、右下。
そこに黒石があった。
「……そこ?」
思わず声が出た。
小春は答えない。もう次の盤面を見ている。
凛は右下の黒石を見る。
意味が分からなかった。
今、そこなのか。
白は下辺へ仕掛けた。受け方を間違えれば、手になる。そう読んでいた。だから打った。
なのに。
小春は受けなかった。
もう一度、下辺を読む。白から続ける。黒が返す。その先。もう一手。
そこでようやく分かった。
(……受けなくていい)
白の仕掛けは、黒が今すぐ付き合わなければならないほどではない。それより、右下の一手の方が価値がある。
小春は、白の狙いを無視したのではない。
分かったうえで。
もっと価値のある場所を先に打った。
凛は唇を噛んだ。
まただ。
目の前へ打ったのに。
小春は、盤全体を見ている。
◆◆◆
まだ何かある。
凛は白石を摘まんだ。下辺へ続ける。
黒が応じる。
次。
(これなら)
別の場所へ打つ。
小春は時計を見ることもなく、盤へ視線を落としたままだった。
数秒。
黒石が置かれる。
白の狙いだけを消す手。余計なことはしない。そのくせ、こちらにも得をさせない。
凛は読む。もう一度。別の筋。
まだある。
白石を置く。
黒が返す。
また白。
また黒。
一手ごとに。
白が盤を動かせる幅だけが、狭くなっていく。
(お願いだから)
次の白石を持つ。
(間違えて)
置く。
小春は盤を見る。すぐには打たない。必要なだけ考える。けれど、迷わない。
黒石が置かれる。
凛は息を止めた。
違う。
そこでもない。
こっちでもない。
白が欲しかった崩れ方を、黒は一度もしてくれない。
派手な手ではなかった。驚くような切り返しでもない。
ただ。
必要な場所に、必要な手が来る。
一つずつ。
逃げ道を塞ぐように。
凛は盤を見る。
右辺。
中央。
下辺。
まだ打てるところはある。白石を置ける場所なら、いくらでもある。
でも。
(……動かない)
もう、どこへ打っても。
勝負そのものが動かない。
◆◆◆
それでも、凛は石を持った。
投げたくなかった。
まだ一手ある。次もある。小春だって三十秒しかない。
一度くらい。
一度くらいは。
白石を置く。
黒石が返る。
また置く。
また返る。
小春は何も言わない。あの「わし」が嘘だったみたいに、静かな顔で盤だけを見ている。
凛には、それが余計に腹立たしかった。
自分はこんなに必死なのに。
向こうは。
向こうは――。
違う。
小春だって必死だ。余裕があるわけではない。
ただ。
最後まで、盤から目を逸らさないだけだ。
それが、分かってしまった。
だから。
余計に悔しかった。
黒石が置かれる。
二百十一手目。
凛は盤を見た。
まだ打てる場所はある。白石を置く場所もある。少し得をする手も。少し損を減らす手も。
ある。
けれど。
勝負を動かせる場所がない。
黒二百三手目から。
ずっと。
自分は、それを確かめていただけだった。
凛の指が、碁笥へ伸びる。
止まる。
白石に触れない。
盤が滲んだ。
(……やだ)
負ける。
分かっていた。全国大会でも負けたことはある。自分より強い相手だっていた。
それなのに。
こんなに嫌なのは、初めてだった。
少し前まで、名前すら知らなかった子だった。変な碁を打つ子だと思っていた。石を助けて、自分で苦しくなる子。
そんな打ち方では強い人に勝てないと。
自分で言った。
小春は、右上を捨てた。
その小春に。
負けるのは、自分だった。
視界の端から、何かが落ちた。
盤の縁に、小さな雫が一つだけ残った。
凛は俯いた。声を出したら、もっと崩れそうだった。
だから。
息を整える。
一度。
もう一度。
それでも声は、少し震えた。
「……ありません」
白投了。
小春が、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございました」
凛も、頭を下げた。
声は、出なかった。




