第12話 見捨てない
対局が終わっても、しばらく指が動かなかった。
小春は膝の上で手を握る。
重い。
朝から何局打ったのだったか。数えようとして、やめた。
もう今日は、碁石を持たなくてもいい。そう思っただけで、身体の奥から一気に疲れが出てきた。
向かいでは、凛がまだ盤を見ている。さっきまで白石を置いていた右手は、膝の上にあった。目だけが、盤の右上へ向いている。
そこには、最後まで助けに戻らなかった黒石が並んでいた。
「ねえ」
凛が言った。
「なんで途中で、あの石に戻らなかったの?」
小春も右上を見る。
九つ。
あの時なら、まだ助けられた。一手戻ればよかった。それは今でも分かる。
「勝つためです」
「……それは分かるけど」
凛の眉が寄る。
「最初からそうすればよかったのに」
「……それができたら、苦労していません」
「何の苦労?」
「いえ。こちらの話です」
凛がじっと見てくる。小春は目を逸らした。
説明したところで、どう説明すればいいのか分からない。
助けられる石を見ると、手が伸びる。
昔から。
本当に、昔から。
それを一度止めるのに、ずいぶん長い時間がかかった。
「でも」
凛が盤へ目を戻した。
「あそこ、戻らなかった方が強かった」
「……そうですね」
素直に認めると、凛は少しだけ嫌そうな顔をした。
「自分で言うんだ」
「黒川さんが聞いたんでしょう」
「そうだけど」
まだ何か言いたそうだった。けれど、凛は口を閉じる。
右上。
中央。
下辺。
順番に盤を見ていく。
それから、小春を見た。
決勝が始まる前とは、少し違う目だった。
何が違うのか。
小春には、よく分からない。
「……次は」
「はい?」
「なんでもない」
凛はそっぽを向いた。
◆◆◆
「小春ー!」
表彰が終わって会場を出たところで、ひなたが駆けてきた。
そのまま勢いよく近づいてきたので、小春は半歩だけ身構える。けれど、逃げはしなかった。
「優勝おめでとう! 最後、全然分かんなかったけど、すごかった!」
「それは褒めているんですか?」
「褒めてるよ!」
ひなたは大きく頷いた。その横では、先生が苦笑している。
「でもさ」
ひなたの顔が、少しだけ曇った。
「あの右上、かわいそうじゃなかった?」
「そうですね」
即答すると、ひなたが目を丸くした。
「そうなの?」
「そうです」
かわいそうではあった。
助けられた。助けようと思えば、助けられた。
それでも戻らなかった。
小春は少し考える。頭の中に、さっきまでの盤面が浮かんだ。
「でも」
ひなたが首を傾げる。
「捨てることと、見捨てることは違うみたいです」
「……?」
ひなたが盛大に首を傾げた。
「ひなたさんには、まだ少し早かったかもしれません」
「同い年だよ!」
「そうでしたね」
「忘れないでよ!」
思わず、小春の口元が緩んだ。
◆◆◆
駅へ向かう道。
小春が母の少し前を歩いていると、ひなたが隣に並んだ。
「ねえ、小春」
「なんですか」
「また囲碁教えて」
小春は隣を見る。ひなたは、いつもの顔で笑っていた。
才能があるか。どこまで強くなるか。
そんなことは、もう考えなかった。
「仕方ありませんね」
「やった!」
「ただし、石を助ける前に一度は盤全体を見ること」
「えー」
「返事は?」
「はーい」
まったく。
人のことは言えないのだが。
「待って」
後ろから声が飛んできた。振り返ると、凛が少し早足で追いついてくる。
「小春」
「はい」
「今からもう一局打って」
「お断りします」
「なんで!?」
間髪入れず返すと、凛の声がひっくり返った。
「今日はもう十分打ちました。疲れています」
「一局だけ」
「お断りします」
「……ケチ」
「誰のせいで疲れたと思っているんですか」
「大会のせいでしょ」
「黒川さんとの決勝が一番疲れました」
凛が一瞬だけ黙った。それから、ほんの少しだけ口元を上げる。
「じゃあ、次」
「次?」
「次に会ったら、もう一局」
「……次なら考えます」
「絶対だからね!」
「考えると言っただけです」
「逃げないでよ!」
凛はむっとした顔のまま、先へ歩いていった。数歩先で止まる。
「凛ちゃん、待ってるよ」
ひなたが言った。
「待ってない!」
即座に返ってきた。
小春は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
◆◆◆
家に帰ると、身体が急に重くなった。
靴を脱いで、鞄を置く。母も荷物を置きながら、
「お疲れさま」
と言った。
「はい……」
返事まで弱くなる。母が笑った。
「今日は早く寝た方がよさそうね」
「そうします」
部屋へ戻る前に、鏡の横を通る。
大会用に整えてもらった髪。母が押し切って買った髪飾り。
少し前なら、鏡の中の自分を見るたびに妙な気分になっていた。今も、まったく何も感じないわけではない。
けれど。
今日一日、そのことを考えた時間はほとんどなかった。
ひなたがいて。
黒川さんがいて。
碁を打って。
負けたくないと思って。
また打つ約束までしてしまった。
碁を打てるだけで十分だと思っていた。
それなのに今は。
次に誰と打つのかまで、少し楽しみになっている。
「小春」
母に呼ばれて振り返る。
「最近、楽しそうね」
小春は少しだけ答えに詰まった。
それから。
今度は、迷わず頷いた。
「……はい!」




