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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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12/13

第12話 見捨てない

 対局が終わっても、しばらく指が動かなかった。


 小春は膝の上で手を握る。


 重い。


 朝から何局打ったのだったか。数えようとして、やめた。


 もう今日は、碁石を持たなくてもいい。そう思っただけで、身体の奥から一気に疲れが出てきた。


 向かいでは、凛がまだ盤を見ている。さっきまで白石を置いていた右手は、膝の上にあった。目だけが、盤の右上へ向いている。


 そこには、最後まで助けに戻らなかった黒石が並んでいた。


「ねえ」


 凛が言った。


「なんで途中で、あの石に戻らなかったの?」


 小春も右上を見る。


 九つ。


 あの時なら、まだ助けられた。一手戻ればよかった。それは今でも分かる。


「勝つためです」

「……それは分かるけど」


 凛の眉が寄る。


「最初からそうすればよかったのに」

「……それができたら、苦労していません」

「何の苦労?」

「いえ。こちらの話です」


 凛がじっと見てくる。小春は目を逸らした。


 説明したところで、どう説明すればいいのか分からない。


 助けられる石を見ると、手が伸びる。


 昔から。


 本当に、昔から。


 それを一度止めるのに、ずいぶん長い時間がかかった。


「でも」


 凛が盤へ目を戻した。


「あそこ、戻らなかった方が強かった」

「……そうですね」


 素直に認めると、凛は少しだけ嫌そうな顔をした。


「自分で言うんだ」

「黒川さんが聞いたんでしょう」

「そうだけど」


 まだ何か言いたそうだった。けれど、凛は口を閉じる。


 右上。


 中央。


 下辺。


 順番に盤を見ていく。


 それから、小春を見た。


 決勝が始まる前とは、少し違う目だった。


 何が違うのか。


 小春には、よく分からない。


「……次は」

「はい?」

「なんでもない」


 凛はそっぽを向いた。



◆◆◆



「小春ー!」


 表彰が終わって会場を出たところで、ひなたが駆けてきた。


 そのまま勢いよく近づいてきたので、小春は半歩だけ身構える。けれど、逃げはしなかった。


「優勝おめでとう! 最後、全然分かんなかったけど、すごかった!」

「それは褒めているんですか?」

「褒めてるよ!」


 ひなたは大きく頷いた。その横では、先生が苦笑している。


「でもさ」


 ひなたの顔が、少しだけ曇った。


「あの右上、かわいそうじゃなかった?」

「そうですね」


 即答すると、ひなたが目を丸くした。


「そうなの?」

「そうです」


 かわいそうではあった。


 助けられた。助けようと思えば、助けられた。


 それでも戻らなかった。


 小春は少し考える。頭の中に、さっきまでの盤面が浮かんだ。


「でも」


 ひなたが首を傾げる。


「捨てることと、見捨てることは違うみたいです」

「……?」


 ひなたが盛大に首を傾げた。


「ひなたさんには、まだ少し早かったかもしれません」

「同い年だよ!」

「そうでしたね」

「忘れないでよ!」


 思わず、小春の口元が緩んだ。



◆◆◆



 駅へ向かう道。


 小春が母の少し前を歩いていると、ひなたが隣に並んだ。


「ねえ、小春」

「なんですか」

「また囲碁教えて」


 小春は隣を見る。ひなたは、いつもの顔で笑っていた。


 才能があるか。どこまで強くなるか。


 そんなことは、もう考えなかった。


「仕方ありませんね」

「やった!」

「ただし、石を助ける前に一度は盤全体を見ること」

「えー」

「返事は?」

「はーい」


 まったく。


 人のことは言えないのだが。


「待って」


 後ろから声が飛んできた。振り返ると、凛が少し早足で追いついてくる。


「小春」

「はい」

「今からもう一局打って」

「お断りします」

「なんで!?」


 間髪入れず返すと、凛の声がひっくり返った。


「今日はもう十分打ちました。疲れています」

「一局だけ」

「お断りします」

「……ケチ」

「誰のせいで疲れたと思っているんですか」

「大会のせいでしょ」

「黒川さんとの決勝が一番疲れました」


 凛が一瞬だけ黙った。それから、ほんの少しだけ口元を上げる。


「じゃあ、次」

「次?」

「次に会ったら、もう一局」

「……次なら考えます」

「絶対だからね!」

「考えると言っただけです」

「逃げないでよ!」


 凛はむっとした顔のまま、先へ歩いていった。数歩先で止まる。


「凛ちゃん、待ってるよ」


 ひなたが言った。


「待ってない!」


 即座に返ってきた。


 小春は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ笑った。



◆◆◆



 家に帰ると、身体が急に重くなった。


 靴を脱いで、鞄を置く。母も荷物を置きながら、


「お疲れさま」


 と言った。


「はい……」


 返事まで弱くなる。母が笑った。


「今日は早く寝た方がよさそうね」

「そうします」


 部屋へ戻る前に、鏡の横を通る。


 大会用に整えてもらった髪。母が押し切って買った髪飾り。


 少し前なら、鏡の中の自分を見るたびに妙な気分になっていた。今も、まったく何も感じないわけではない。


 けれど。


 今日一日、そのことを考えた時間はほとんどなかった。


 ひなたがいて。


 黒川さんがいて。


 碁を打って。


 負けたくないと思って。


 また打つ約束までしてしまった。


 碁を打てるだけで十分だと思っていた。


 それなのに今は。


 次に誰と打つのかまで、少し楽しみになっている。


「小春」


 母に呼ばれて振り返る。


「最近、楽しそうね」


 小春は少しだけ答えに詰まった。


 それから。


 今度は、迷わず頷いた。


「……はい!」

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