第13話 さて、もう一局じゃ
大会のあとの、最初の日曜日。
教室の窓の外では、蝉が鳴いていた。
「ここ! ここに白が来たの」
ひなたが盤の上を指差す。
机の上に並んでいるのは、大会でひなたが負けた一局だった。並べ直してほしいと言い出したのは、ひなたのほうだ。
「次は?」
「ええと……ここ、だったかな」
「一路ずれています」
「えっ」
「その一つ右です」
ひなたが石を置き直す。小春は盤を見たまま、次の白石を置いた。
「なんで覚えてるの?」
「見ていたので」
「見てただけで?」
「見ていたので」
ひなたは納得したような、していないような顔で唸った。
盤の左下に、黒石の一団がある。
あの日、ひなたが助けに行った石だった。
「で、ここで助けに行ったの」
「はい」
「やっぱり、助けちゃだめだった?」
小春はすぐには答えなかった。
あの時、ひなたの後ろで自分が何を思ったかは、まだ覚えている。
碁笥から黒石を一つ摘まむ。
上辺。
あの日、白が先に回った場所。
そこへ置く。
パチン。
いつもの音だった。
「あ」
ひなたが声を上げる。
「そこ、白が打ったとこだ」
「先にここへ打っていたら、どうなっていたと思いますか」
「……白が、こっち来れない?」
「はい」
「じゃあ、左下は?」
「取られるかもしれません」
「えー」
ひなたが盤へ顔を寄せる。
そのまま、小春の肩へ少し寄りかかった。
ひなたの頭が、髪飾りに軽く当たる。今朝、気づいたら自分でつけてきたものだった。
小春は、そのまま盤を見ていた。
「じゃあ、助けちゃだめってこと?」
「助けてもいいんです」
ひなたが顔を上げる。
「ただ、助ける前に一度、盤全体を見てください。それでも助けると決めたなら、助ければいい」
「決めたなら?」
「はい」
「見ないで助けたら?」
「それは、だめです」
「厳しい!」
ひなたが笑う。
小春も、少し笑った。
言いながら、誰に言っているのか少しだけ分からなくなった。
◆◆◆
「まだ?」
反対側から声がした。
隣の机で、凛が腕を組んでいる。その盤の上には、もう碁笥が二つ並んでいた。
「黒川さん。いつから」
「さっきから」
凛の視線が、小春の肩に乗ったひなたの頭へ一瞬だけ動いた。
それから、ふいと逸れる。
なんとなく、機嫌が悪そうだった。
理由は、よく分からない。
「凛ちゃん、来てからずっとこっち見てたよ」
「見てない!」
即座に返ってきた。
凛は小春へ向き直る。
「…約束」
「約束?」
「次に会ったら、もう一局って言った」
「考えると言っただけです」
「会ったから」
「……そうですね」
会ってしまった。
ふと顔を上げると、教室の奥で先生がこちらを見ていた。
三人を順番に見て、何も言わずに、少しだけ笑った。
小春は立ち上がり、凛の向かいへ座る。
ひなたが椅子を引きずってきて、盤の横に陣取った。
「わたし、見てる!」
「見ていてもいいですけど、近すぎないように」
「はーい」
返事だけは素直だった。
凛が小春を見る。
「今度は負けないから」
「そうですか」
「……その言い方、腹立つ」
「普通に返事をしただけです」
「そういうところ」
ひなたが横で、くすくす笑っている。
凛は白石を握った。
小春は碁笥の蓋を外す。
黒石が並んでいる。
死ぬ間際。
最後に願ったことは、一つだけだった。
『もう一局、打ちたかったのう』
あの時は、一局でよかった。
今は。
一局が終われば、次がある。
その次を待っている相手までいる。
何百局。
何千局。
まだ、打てる。
小春は小さく笑った。
「さて」
黒石を二つ、摘まむ。
(もう一局じゃ)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
今回のお話で、第一部は完結となります。
小春が再び碁盤の前に戻り、ひなたや凛と出会い、少しずつ今の自分として囲碁を打つようになるところまでを書いてきました。
ここまで付き合ってくださった方がいることを、とても嬉しく思っています。
第二部では、今回よりも少し日常寄りのお話を増やす予定です。
大会ではあまり描けなかった三人の距離感や、少しずつ変わっていく関係も書いていければと思っています。
第二部でも三人を見守っていただければ嬉しいです。




