第8話 捨て石
「今ならまだ助けられるよ」
凛の声が、静かに届いた。
小春は答えなかった。
右上を見る。
黒石が九つ。白に押し込まれている。
小春の指は、碁笥の中で止まったままだった。
◆◆◆
読む。
白が詰める。
黒が応じる。
白がさらに狭める。
それでも、手はある。
一手入れれば、右上は生きる。
読むほどに、その結論だけがはっきりしていく。無理をする必要もない。奇跡を待つ必要もない。きちんと手を入れれば、助かる。
(……生きるのう)
いつもの結論だった。
前世で何度も見た。危ない石。まだ助かる石。少し手をかければ、生きられる石。
そう見えた時には、もう指が動いていた。その先で盤全体がどうなるかも知っていた。
何度も失敗した。
何度も言われた。
『そこへ手をかけるから全体が遅れるんです』
声だけが、記憶の底から浮かんだ。
小春は右上から目を離す。盤全体を見る。
中央。
左辺。
下辺。
黒が先に回りたい場所がある。
右上へ一手戻れば、その間に白が先へ回る。それでも右上は助かる。
戻らなければ、黒は別の場所へ先に打てる。
その代わり。
右上は、今よりずっと苦しくなる。
二つの道が、初めて指の前に並んだ。
どちらも読める。どちらも分かる。
なのに。
小春の指は、まだ碁笥の中にあった。
◆◆◆
どれくらい考えていたのか。
ふと時計が目に入った。
残り、四分。
「……」
小春は視線を盤へ戻した。
四分。前世なら、それほど長い時間ではない。終盤の難しい局面なら、もっと考えたことはいくらでもある。
だが今は。
頭の奥が重い。首の後ろが熱い。盤を見続けているだけで、目の焦点が少しずつずれる。
一度瞬きをする。
もう一度。
右上を読む。
まだ助かる。
盤全体を読む。
戻らない方が、大きな場所へ先に回れる。
また右上を見る。
助かる。
その事実だけが、何度読んでも変わらない。
(困ったのう)
無理なら、簡単だった。どうやっても生きない石なら、他へ行くしかない。
だが、これは違う。
一手あれば助かる。自分の手で助けられる。その一手を知っている。
知っているのに。
別の場所へ打つ。
その形だけが、どうしても指になじまなかった。
七十年近く。助かる石を前に、こんなふうに迷った記憶がほとんどない。
正しい手が見えていなかったわけではない。
見えていても。
助かる方へ手が行った。
それが自分だった。
前世でも。
今でも。
だから今。
こんなにも長く、手が動かない。
小春は碁笥の中で黒石に触れた。摘まめばいい。右上へ戻るなら、打つ場所はもう決まっている。
指先が石を挟みかける。
その時。
『取らせればいいじゃん』
凛の声が、頭の中で聞こえた。
あの日、教室で聞いた、あまりにも軽い言葉。三つ取られても困らない。もっと大きな場所へ打てる。
あの時は、分かっていると思った。
それでも助けた。大会でも助けた。何度でも。
小春は石を摘ままなかった。
◆◆◆
時計の表示が、ゼロになった。
持ち時間が尽きた。表示が切り替わる。
三十秒。
この一手を、三十秒で打つ。次の手も、また三十秒。
小春は盤を見る。
右上。
別の場所。
二つ。
もう、それだけだった。
長く考える時間はない。
二十九。
右上へ戻れば、九つは助かる。
二十五。
戻らなければ。
その先は、まだ全部は分からない。
二十。
黒石に触れる。今度は摘まむ。指が少し震えた。
十五。
小春の目が、右上から離れる。盤の別の場所へ移る。
十。
右上が視界の端に残る。
まだ戻れる。
今なら。
五。
黒石を持つ。
腕が動く。
右上ではない。
小春は、そこへ戻らなかった。
黒石が盤へ触れた。
音がした。
昔の音でもない。
十歳になって最初に聞いた、頼りない音でもない。
今の自分の音だった。
凛の目が、打たれた黒石へ動いた。しばらく、その一手を見ている。
「……」
何も言わない。小春も言わなかった。
ただ右手を膝へ戻す。指先には、まだ石を放した感触が残っていた。
◆◆◆
そこから、右上へ手を戻さなかった。
白が周囲を押さえる。黒は別の場所へ回る。白がさらに右上を狭める。黒は中央へ出る。
右上の黒石は、盤の上に残っている。
九つ。
なくなってはいない。けれど、小春はそこへ助けるためだけの手を入れなかった。
凛も何も言わない。
白石を置く。
黒石を置く。
また白。
小春は一手ごとに三十秒。凛には、まだ持ち時間が残っている。小春が読んでいる間にも、自分の秒は減っていく。
凛は必要なら止まれる。考えられる。
その差が、じわじわと重くなった。
一手。
読みが浅くなる。
もう一手。
見えていたはずの変化に、一拍遅れる。
凛はそこを逃さない。
白が切る。
黒が受ける。
白が先へ回る。
(しまった)
小春は盤を見る。
間違えたわけではない。少なくとも、すぐに悪手と分かるような手ではない。
それでも。
さっきまで黒にあったはずの余裕が、少しずつ消えている。
右上へ戻らなかったからなのか。秒読みへ入ったからなのか。身体がもう追いついていないからなのか。その全部なのか。
分からない。
分からないまま、次の三十秒が始まる。
◆◆◆
百五十一手目。
小春は黒石を置いた。
右上を見る。
九つの黒石は、白の中に深く沈んでいる。まだ盤上にはある。けれど、もう最初のような形ではなかった。
あの時、一手入れれば助かった。それは今でも分かる。
小春は、その一手を使わなかった。代わりに盤全体へ回った。
それなのに。
盤を見る。
白の方が、伸び伸びとして見えた。黒はあちこちで踏ん張っている。
右上だけの問題ではない。身体が重い。頭の中で読んだ手が、指先へ届くまでに一拍かかる。一拍遅れるたび、凛が先へ行く。
(……悪くなったか)
小春は唇を結んだ。
今までと違う手を打った。
右上へ戻らなかった。
それなのに。
その直後に。
負けるのか。




