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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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8/13

第8話 捨て石

「今ならまだ助けられるよ」


 凛の声が、静かに届いた。


 小春は答えなかった。


 右上を見る。


 黒石が九つ。白に押し込まれている。


 小春の指は、碁笥の中で止まったままだった。



◆◆◆



 読む。


 白が詰める。


 黒が応じる。


 白がさらに狭める。


 それでも、手はある。


 一手入れれば、右上は生きる。


 読むほどに、その結論だけがはっきりしていく。無理をする必要もない。奇跡を待つ必要もない。きちんと手を入れれば、助かる。


(……生きるのう)


 いつもの結論だった。


 前世で何度も見た。危ない石。まだ助かる石。少し手をかければ、生きられる石。


 そう見えた時には、もう指が動いていた。その先で盤全体がどうなるかも知っていた。


 何度も失敗した。


 何度も言われた。


『そこへ手をかけるから全体が遅れるんです』


 声だけが、記憶の底から浮かんだ。


 小春は右上から目を離す。盤全体を見る。


 中央。


 左辺。


 下辺。


 黒が先に回りたい場所がある。


 右上へ一手戻れば、その間に白が先へ回る。それでも右上は助かる。


 戻らなければ、黒は別の場所へ先に打てる。


 その代わり。


 右上は、今よりずっと苦しくなる。


 二つの道が、初めて指の前に並んだ。


 どちらも読める。どちらも分かる。


 なのに。


 小春の指は、まだ碁笥の中にあった。



◆◆◆



 どれくらい考えていたのか。


 ふと時計が目に入った。


 残り、四分。


「……」


 小春は視線を盤へ戻した。


 四分。前世なら、それほど長い時間ではない。終盤の難しい局面なら、もっと考えたことはいくらでもある。


 だが今は。


 頭の奥が重い。首の後ろが熱い。盤を見続けているだけで、目の焦点が少しずつずれる。


 一度瞬きをする。


 もう一度。


 右上を読む。


 まだ助かる。


 盤全体を読む。


 戻らない方が、大きな場所へ先に回れる。


 また右上を見る。


 助かる。


 その事実だけが、何度読んでも変わらない。


(困ったのう)


 無理なら、簡単だった。どうやっても生きない石なら、他へ行くしかない。


 だが、これは違う。


 一手あれば助かる。自分の手で助けられる。その一手を知っている。


 知っているのに。


 別の場所へ打つ。


 その形だけが、どうしても指になじまなかった。


 七十年近く。助かる石を前に、こんなふうに迷った記憶がほとんどない。


 正しい手が見えていなかったわけではない。


 見えていても。


 助かる方へ手が行った。


 それが自分だった。


 前世でも。


 今でも。


 だから今。


 こんなにも長く、手が動かない。


 小春は碁笥の中で黒石に触れた。摘まめばいい。右上へ戻るなら、打つ場所はもう決まっている。


 指先が石を挟みかける。


 その時。


『取らせればいいじゃん』


 凛の声が、頭の中で聞こえた。


 あの日、教室で聞いた、あまりにも軽い言葉。三つ取られても困らない。もっと大きな場所へ打てる。


 あの時は、分かっていると思った。


 それでも助けた。大会でも助けた。何度でも。


 小春は石を摘ままなかった。



◆◆◆



 時計の表示が、ゼロになった。


 持ち時間が尽きた。表示が切り替わる。


 三十秒。


 この一手を、三十秒で打つ。次の手も、また三十秒。


 小春は盤を見る。


 右上。


 別の場所。


 二つ。


 もう、それだけだった。


 長く考える時間はない。


 二十九。


 右上へ戻れば、九つは助かる。


 二十五。


 戻らなければ。


 その先は、まだ全部は分からない。


 二十。


 黒石に触れる。今度は摘まむ。指が少し震えた。


 十五。


 小春の目が、右上から離れる。盤の別の場所へ移る。


 十。


 右上が視界の端に残る。


 まだ戻れる。


 今なら。


 五。


 黒石を持つ。


 腕が動く。


 右上ではない。


 小春は、そこへ戻らなかった。


 黒石が盤へ触れた。


 音がした。


 昔の音でもない。


 十歳になって最初に聞いた、頼りない音でもない。


 今の自分の音だった。


 凛の目が、打たれた黒石へ動いた。しばらく、その一手を見ている。


「……」


 何も言わない。小春も言わなかった。


 ただ右手を膝へ戻す。指先には、まだ石を放した感触が残っていた。



◆◆◆



 そこから、右上へ手を戻さなかった。


 白が周囲を押さえる。黒は別の場所へ回る。白がさらに右上を狭める。黒は中央へ出る。


 右上の黒石は、盤の上に残っている。


 九つ。


 なくなってはいない。けれど、小春はそこへ助けるためだけの手を入れなかった。


 凛も何も言わない。


 白石を置く。


 黒石を置く。


 また白。


 小春は一手ごとに三十秒。凛には、まだ持ち時間が残っている。小春が読んでいる間にも、自分の秒は減っていく。


 凛は必要なら止まれる。考えられる。


 その差が、じわじわと重くなった。


 一手。


 読みが浅くなる。


 もう一手。


 見えていたはずの変化に、一拍遅れる。


 凛はそこを逃さない。


 白が切る。


 黒が受ける。


 白が先へ回る。


(しまった)


 小春は盤を見る。


 間違えたわけではない。少なくとも、すぐに悪手と分かるような手ではない。


 それでも。


 さっきまで黒にあったはずの余裕が、少しずつ消えている。


 右上へ戻らなかったからなのか。秒読みへ入ったからなのか。身体がもう追いついていないからなのか。その全部なのか。


 分からない。


 分からないまま、次の三十秒が始まる。



◆◆◆



 百五十一手目。


 小春は黒石を置いた。


 右上を見る。


挿絵(By みてみん)


 九つの黒石は、白の中に深く沈んでいる。まだ盤上にはある。けれど、もう最初のような形ではなかった。


 あの時、一手入れれば助かった。それは今でも分かる。


 小春は、その一手を使わなかった。代わりに盤全体へ回った。


 それなのに。


 盤を見る。


 白の方が、伸び伸びとして見えた。黒はあちこちで踏ん張っている。


 右上だけの問題ではない。身体が重い。頭の中で読んだ手が、指先へ届くまでに一拍かかる。一拍遅れるたび、凛が先へ行く。


(……悪くなったか)


 小春は唇を結んだ。


 今までと違う手を打った。


 右上へ戻らなかった。


 それなのに。


 その直後に。


 負けるのか。

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