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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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7/13

第7話 決勝

「それでは、始めてください」


 係の人の声がした。


 小春は一度だけ、盤の向こうから視線を外した。


 少し離れた保護者席に、母がいた。目が合った。母は何も言わなかった。ただ、いつもより少し真剣な顔でこちらを見ている。その近くには、ひなたと先生の姿もあった。


 小春は小さく頭を下げ、盤へ視線を戻した。


 凛はもう白石を握っていた。小春は黒石を二つ、盤へ置く。凛が手を開く。


 白石は六つ。


 小春の黒番になった。


 碁笥を入れ替える。


 持ち時間は、これまでと同じ三十分。ただし決勝だけは、使い切っても一手三十秒が残る。


 凛が小春を見る。小春も視線を返した。


「お願いします」

「お願いします」


 決勝が始まった。



◆◆◆



 序盤から、凛は速かった。


 黒が右上へ打つ。


 白が左上。


 黒。


 白。


 迷っているようには見えない。小春が一手打つたび、凛の視線はすぐに次の場所へ移る。


(やはり速いのう)


 教室で打った時にも分かっていた。だが、決勝の盤で向かい合うと、もっとよく分かる。


 ただ手が早いのではない。読むのが速い。こちらが打っている間に、自分の次の手、その次の変化まで進んでいる。


 黒が上辺へ伸びる。凛の白がすぐに押さえる。


 小春は一度、盤全体を見た。


 右上。


 左辺。


 中央。


 まだどこも決まっていない。


 ならば。


 黒石を置く。


 凛が、ほんの少しだけ眉を動かした。白が受ける。


 小春は受けない。別の場所へ回る。


 凛の視線が、一度だけ小春の打たなかった場所へ戻った。


 目の前だけを見れば、そこへ受けるのが自然に見える。白に好きなように打たせないための、分かりやすい一手だ。


 けれど小春は、その一手を使わなかった。


 似た形を、何度も見てきた。似た争いも。目の前を急いで、あとで困った碁。逆に、手を抜いてうまくいった碁。七十年近く打っていれば、同じ盤面など一局もなくても、似た景色はいくらでもある。


 小春は、その積み重ねの中から一つを選ぶ。


 凛が強く踏み込んできた。小春は正面から受けなかった。


 一度かわす。


 白が追う。


 黒は先に外へ出る。


 局地的には、白が気持ちよく見える。その代わり、黒は盤全体で先に回っている。


 凛の手が、初めて少し止まった。


 数秒。


 それだけだった。


 それでも、小春には分かった。目の前で得をしたはずなのに、盤を見渡すと黒のほうが広い。その気持ちの悪さに、今、気づいた顔だ。


(考えさせたか)


 わずかに口元が緩みそうになる。すぐに戻した。


 まだ何も決まっていない。


 凛が、盤ではなく小春の顔を見た。


 ほんの一瞬だけ。


 何かを確かめるような目だった。


 何を、とは聞かない。対局中だ。


 小春は黒石を一つ摘まんで、次の場所へ置いた。



◆◆◆



 四十手を過ぎても、黒が少し打ちやすかった。


 大きな差ではない。凛が一手間違えれば崩れる、というほどでもない。ただ、凛が何かを仕掛けるたび、小春の方がほんの少し先に形を知っている。


 押すなら、どこまで押すか。引くなら、いつ引くか。一見得に見える交換が、十手先でどこへ響くのか。


 昔、正しく打てたことだけではない。失敗したことも覚えている。


 欲張って潰れた碁。安全に打ちすぎて追いつかれた碁。勝っていたのに、一手でおかしくした碁。負けていたのに、相手の一手からひっくり返した碁。


 勝ちも負けも、全部残っている。それが今、十歳の頭の中にある。


(経験の厚さなら、こちらが上じゃ)


 そう思った。


 思ったのだが。


 凛は崩れなかった。


 黒が一歩先へ出る。白が追いつく。黒がかわす。白が別の場所から動く。


 何度小春が先回りしても、凛はそこで止まらない。知らないなら、その場で読む。読んで、追いつく。その速度が、異様に速い。


(……なるほど)


 小春は盤を見た。


 教室で打った時より、ずっと面白い。あの時は小春自身が疲れていて、それでも凛の強さは分かった。


 今は決勝。凛の手からは、最初から一歩も引く気配がない。こちらの経験を、正面から追いかけてくる。


 小春も読みを深くした。


 一手。


 二手。


 三手。


 その先。


 白が切る。


 黒がつなぐ。


 白が外から押さえる。


 黒は――。


「……」


 小春は瞬きをした。


 今、どこまで読んだ。


 もう一度。


 白が切る。黒がつなぐ。白が押さえる。そこから。


 見える。


 見えるが、さっきより遅い。


 頭の奥に、薄い膜が一枚かかったようだった。目が乾いている。


 小春は一度だけ強く瞬きをした。盤の線が、少しだけはっきりする。


(まだじゃ)


 黒石を置く。凛はすぐに返した。


 小春の時計が進む。凛の時計は止まる。また小春の時間が減っていく。


 ふと表示を見る。


 凛には、まだ十七分ほど残っていた。小春は十二分を切っている。


(五分か)


 大きくはない。だが、今の小春にはその五分が妙に重かった。


 前世なら、長い対局の中で五分など誤差のようなものだった。必要なら一時間でも二時間でも考えた。身体がそれについてきた。


 今は違う。考える時間そのものより、考え続けることに身体が耐えきれない。


 首の後ろが重い。肩が固い。指先へ力を入れると、ごくわずかに震えた。


 小春は右手を膝の上へ置く。


 握る。


 開く。


 もう一度、盤を見る。


 凛は変わらない。背筋を伸ばしたまま、盤全体を見ている。疲れていないわけではないだろう。それでも、少なくとも小春にはそう見えた。


(若いというのは、こういうことかのう)


 自分も十歳なのだが。


 今は笑えなかった。



◆◆◆



 七十手を越えた頃には、序盤の小さな差はほとんど消えていた。


 黒が悪いわけではない。白が明確に良いわけでもない。ただ、凛が追いついている。小春が経験で作った半歩の差を、読む速さと体力で削ってくる。


 一手ごとに。


 少しずつ。


 小春は焦りを感じていた。


 焦る必要はない。そう分かっていることが、余計に腹立たしい。焦れば読む筋が狭くなる。狭くなれば見落とす。前世で何度も経験した。


 だから落ち着けばいい。呼吸を整える。盤を見る。


 読む。


 ――途中で、変化が抜けた。


「……っ」


 声には出さなかった。


 もう一度読む。今度はつながる。だが、その数秒で時計が減る。


 一手。


 また一手。


 凛の白石は止まらない。小春が少し考えれば、その間に凛はもう次を読んでいるように見える。


 盤面だけを見れば、互角に近い。


 けれど。


 このまま同じ速さで打ち続ければ、先に崩れるのは自分だ。


 それが分かった。


(厄介じゃな)


 強い相手なら、何人も知っている。自分より読みの深い棋士もいた。速い棋士もいた。若い棋士に体力で負けることだって、晩年には珍しくなかった。


 だが今は、少し違う。


 頭の中には七十年分がある。身体だけが、それを最後まで引き出すことを許してくれない。


 知っているのに、間に合わない。


 読めるのに、続かない。


 その差が、一手ごとに盤の上へ出始めていた。


 小春は碁笥へ手を入れた。石を摘まむ。指が、またわずかに震えた。


 凛の視線が一瞬だけそこへ落ちた。何も言わない。小春も何も言わない。


 黒石を置いた。


 まだ打てる。


 まだ、読める。


 けれど、朝から六局目を戦う身体は、もう朝の身体ではなかった。



◆◆◆



 百手を越えた。


 盤上のあちこちで、黒と白がぶつかっている。序盤の静かな形はもうない。中央では白石がしっかりつながり、左辺では黒が先に場所を取っている。


 そして右上。


 黒石の一団が、白に圧迫され始めていた。


 小春の石だ。


 まだ危ないと決まったわけではない。外へ出る道もある。つなぐ手もある。一手戻れば、まだ十分に手をかけられる。


 小春はそこを確認してから、別の場所を読んだ。


 右上だけを見てはいけない。


 盤全体。


 中央。


 左辺。


 下辺。


 どこへ回るのが一番大きい。


 考える。


 凛も考える。


 小春が黒石を置いた。白が返す。右上の形が、また少し狭くなる。


 それでも、まだ助かる。


 小春には分かっていた。白が次にここなら、黒はこう。そこへ白が来ても、もう一手。


 まだ間に合う。


 まだ。


 凛が白石を置いた。


 百二十八手目。


 右上の黒石の逃げ道を、もう一つ狭める手だった。


 小春の視線が、右上へ止まる。


 黒石が並んでいる。完全には囲われていない。死んでもいない。


 今なら、まだ戻れる。一手使えばいい。


 ただし。


 盤の別の場所には、もっと大きな手が残っている。


 小春の指が、碁笥の中の黒石へ触れた。


 まだ摘ままない。


 凛が盤から目を離さないまま、小さく言った。


「そこ、守らないの?」


 小春は顔を上げた。


 凛と目が合う。


 悪意は感じなかった。挑発しているようにも見えない。ただ、盤を読んでいる顔だった。


 大会の対局中に、相手の手へ口を挟むのはマナー違反だ。凛ほど大会慣れしている子が、それを知らないはずはない。


 それでも凛は、もう一度右上を見た。


「今ならまだ助けられるよ」


挿絵(By みてみん)

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