第7話 決勝
「それでは、始めてください」
係の人の声がした。
小春は一度だけ、盤の向こうから視線を外した。
少し離れた保護者席に、母がいた。目が合った。母は何も言わなかった。ただ、いつもより少し真剣な顔でこちらを見ている。その近くには、ひなたと先生の姿もあった。
小春は小さく頭を下げ、盤へ視線を戻した。
凛はもう白石を握っていた。小春は黒石を二つ、盤へ置く。凛が手を開く。
白石は六つ。
小春の黒番になった。
碁笥を入れ替える。
持ち時間は、これまでと同じ三十分。ただし決勝だけは、使い切っても一手三十秒が残る。
凛が小春を見る。小春も視線を返した。
「お願いします」
「お願いします」
決勝が始まった。
◆◆◆
序盤から、凛は速かった。
黒が右上へ打つ。
白が左上。
黒。
白。
迷っているようには見えない。小春が一手打つたび、凛の視線はすぐに次の場所へ移る。
(やはり速いのう)
教室で打った時にも分かっていた。だが、決勝の盤で向かい合うと、もっとよく分かる。
ただ手が早いのではない。読むのが速い。こちらが打っている間に、自分の次の手、その次の変化まで進んでいる。
黒が上辺へ伸びる。凛の白がすぐに押さえる。
小春は一度、盤全体を見た。
右上。
左辺。
中央。
まだどこも決まっていない。
ならば。
黒石を置く。
凛が、ほんの少しだけ眉を動かした。白が受ける。
小春は受けない。別の場所へ回る。
凛の視線が、一度だけ小春の打たなかった場所へ戻った。
目の前だけを見れば、そこへ受けるのが自然に見える。白に好きなように打たせないための、分かりやすい一手だ。
けれど小春は、その一手を使わなかった。
似た形を、何度も見てきた。似た争いも。目の前を急いで、あとで困った碁。逆に、手を抜いてうまくいった碁。七十年近く打っていれば、同じ盤面など一局もなくても、似た景色はいくらでもある。
小春は、その積み重ねの中から一つを選ぶ。
凛が強く踏み込んできた。小春は正面から受けなかった。
一度かわす。
白が追う。
黒は先に外へ出る。
局地的には、白が気持ちよく見える。その代わり、黒は盤全体で先に回っている。
凛の手が、初めて少し止まった。
数秒。
それだけだった。
それでも、小春には分かった。目の前で得をしたはずなのに、盤を見渡すと黒のほうが広い。その気持ちの悪さに、今、気づいた顔だ。
(考えさせたか)
わずかに口元が緩みそうになる。すぐに戻した。
まだ何も決まっていない。
凛が、盤ではなく小春の顔を見た。
ほんの一瞬だけ。
何かを確かめるような目だった。
何を、とは聞かない。対局中だ。
小春は黒石を一つ摘まんで、次の場所へ置いた。
◆◆◆
四十手を過ぎても、黒が少し打ちやすかった。
大きな差ではない。凛が一手間違えれば崩れる、というほどでもない。ただ、凛が何かを仕掛けるたび、小春の方がほんの少し先に形を知っている。
押すなら、どこまで押すか。引くなら、いつ引くか。一見得に見える交換が、十手先でどこへ響くのか。
昔、正しく打てたことだけではない。失敗したことも覚えている。
欲張って潰れた碁。安全に打ちすぎて追いつかれた碁。勝っていたのに、一手でおかしくした碁。負けていたのに、相手の一手からひっくり返した碁。
勝ちも負けも、全部残っている。それが今、十歳の頭の中にある。
(経験の厚さなら、こちらが上じゃ)
そう思った。
思ったのだが。
凛は崩れなかった。
黒が一歩先へ出る。白が追いつく。黒がかわす。白が別の場所から動く。
何度小春が先回りしても、凛はそこで止まらない。知らないなら、その場で読む。読んで、追いつく。その速度が、異様に速い。
(……なるほど)
小春は盤を見た。
教室で打った時より、ずっと面白い。あの時は小春自身が疲れていて、それでも凛の強さは分かった。
今は決勝。凛の手からは、最初から一歩も引く気配がない。こちらの経験を、正面から追いかけてくる。
小春も読みを深くした。
一手。
二手。
三手。
その先。
白が切る。
黒がつなぐ。
白が外から押さえる。
黒は――。
「……」
小春は瞬きをした。
今、どこまで読んだ。
もう一度。
白が切る。黒がつなぐ。白が押さえる。そこから。
見える。
見えるが、さっきより遅い。
頭の奥に、薄い膜が一枚かかったようだった。目が乾いている。
小春は一度だけ強く瞬きをした。盤の線が、少しだけはっきりする。
(まだじゃ)
黒石を置く。凛はすぐに返した。
小春の時計が進む。凛の時計は止まる。また小春の時間が減っていく。
ふと表示を見る。
凛には、まだ十七分ほど残っていた。小春は十二分を切っている。
(五分か)
大きくはない。だが、今の小春にはその五分が妙に重かった。
前世なら、長い対局の中で五分など誤差のようなものだった。必要なら一時間でも二時間でも考えた。身体がそれについてきた。
今は違う。考える時間そのものより、考え続けることに身体が耐えきれない。
首の後ろが重い。肩が固い。指先へ力を入れると、ごくわずかに震えた。
小春は右手を膝の上へ置く。
握る。
開く。
もう一度、盤を見る。
凛は変わらない。背筋を伸ばしたまま、盤全体を見ている。疲れていないわけではないだろう。それでも、少なくとも小春にはそう見えた。
(若いというのは、こういうことかのう)
自分も十歳なのだが。
今は笑えなかった。
◆◆◆
七十手を越えた頃には、序盤の小さな差はほとんど消えていた。
黒が悪いわけではない。白が明確に良いわけでもない。ただ、凛が追いついている。小春が経験で作った半歩の差を、読む速さと体力で削ってくる。
一手ごとに。
少しずつ。
小春は焦りを感じていた。
焦る必要はない。そう分かっていることが、余計に腹立たしい。焦れば読む筋が狭くなる。狭くなれば見落とす。前世で何度も経験した。
だから落ち着けばいい。呼吸を整える。盤を見る。
読む。
――途中で、変化が抜けた。
「……っ」
声には出さなかった。
もう一度読む。今度はつながる。だが、その数秒で時計が減る。
一手。
また一手。
凛の白石は止まらない。小春が少し考えれば、その間に凛はもう次を読んでいるように見える。
盤面だけを見れば、互角に近い。
けれど。
このまま同じ速さで打ち続ければ、先に崩れるのは自分だ。
それが分かった。
(厄介じゃな)
強い相手なら、何人も知っている。自分より読みの深い棋士もいた。速い棋士もいた。若い棋士に体力で負けることだって、晩年には珍しくなかった。
だが今は、少し違う。
頭の中には七十年分がある。身体だけが、それを最後まで引き出すことを許してくれない。
知っているのに、間に合わない。
読めるのに、続かない。
その差が、一手ごとに盤の上へ出始めていた。
小春は碁笥へ手を入れた。石を摘まむ。指が、またわずかに震えた。
凛の視線が一瞬だけそこへ落ちた。何も言わない。小春も何も言わない。
黒石を置いた。
まだ打てる。
まだ、読める。
けれど、朝から六局目を戦う身体は、もう朝の身体ではなかった。
◆◆◆
百手を越えた。
盤上のあちこちで、黒と白がぶつかっている。序盤の静かな形はもうない。中央では白石がしっかりつながり、左辺では黒が先に場所を取っている。
そして右上。
黒石の一団が、白に圧迫され始めていた。
小春の石だ。
まだ危ないと決まったわけではない。外へ出る道もある。つなぐ手もある。一手戻れば、まだ十分に手をかけられる。
小春はそこを確認してから、別の場所を読んだ。
右上だけを見てはいけない。
盤全体。
中央。
左辺。
下辺。
どこへ回るのが一番大きい。
考える。
凛も考える。
小春が黒石を置いた。白が返す。右上の形が、また少し狭くなる。
それでも、まだ助かる。
小春には分かっていた。白が次にここなら、黒はこう。そこへ白が来ても、もう一手。
まだ間に合う。
まだ。
凛が白石を置いた。
百二十八手目。
右上の黒石の逃げ道を、もう一つ狭める手だった。
小春の視線が、右上へ止まる。
黒石が並んでいる。完全には囲われていない。死んでもいない。
今なら、まだ戻れる。一手使えばいい。
ただし。
盤の別の場所には、もっと大きな手が残っている。
小春の指が、碁笥の中の黒石へ触れた。
まだ摘ままない。
凛が盤から目を離さないまま、小さく言った。
「そこ、守らないの?」
小春は顔を上げた。
凛と目が合う。
悪意は感じなかった。挑発しているようにも見えない。ただ、盤を読んでいる顔だった。
大会の対局中に、相手の手へ口を挟むのはマナー違反だ。凛ほど大会慣れしている子が、それを知らないはずはない。
それでも凛は、もう一度右上を見た。
「今ならまだ助けられるよ」




