第6話 捨てろ
小春が五局目を終えた時、会場の時計はだいぶ進んでいた。
朝から何局も打っている。合間には休んでいるつもりでも、頭の奥には薄い重さが残っていた。
それでも、まだ読める。
まだ打てる。
係の人に次の対局まで少し待つよう言われ、小春は水を一口飲んだ。
その時、少し離れたところに人が集まっているのが見えた。
子供が数人。その後ろに保護者。盤を覗き込む先生。
そして。
「あ」
見慣れた髪が見えた。
ひなただった。まだ対局が続いている。
小春は紙コップを片づけ、邪魔にならないようひなたの斜め後ろへ回った。
◆◆◆
盤を見た瞬間、形勢は分かった。
(苦しいな)
ひなたは黒。
盤の左下で、黒石の一団が白に追われている。
まだ逃げられる。手を入れれば助かる。
ただ、そのためには何手か必要になる。その間に、白はもっと大きな場所へ先に回れる。
盤全体で見れば。
あの黒石は――。
(捨てろ)
言葉が浮かんだ。
(そこは捨てれば――)
そこで、小春の思考が止まった。
自分で思った言葉が、自分の中へそのまま返ってくる。
捨てろ。
何度言われた。前世で。若い頃から、何十年も。
『その石はもう役目を終えています』
『岩城先生は石を捨てなさすぎる』
『もっと早く捨てていたら……まだ分からなかったと思います』
そのたびに、分かっていると思った。実際、分かっていた。理屈だけなら。
それでも盤の上で助かる石が見えれば、指はそちらへ動いた。
ついさっきだって、同じことをした。助けなくてもよかった石を助けて、自分から苦しくなった。
なのに今。
ひなたの碁を見て、
(捨てろ)
そう思った。
「……」
小春は口を閉じた。
もともと、対局中のひなたへ声をかけるつもりなどない。
それでも、さっきまでなら終局後に言えたかもしれない。そこは助けなくてよかった。別の場所へ回る方が大きかった。
前世で何度も後輩へ言ったように。
今は、その言葉が喉の奥に引っかかった。
ひなたの手が碁笥へ入る。黒石を摘まむ。
小春には分かった。
(そこへ行くか)
黒石が左下へ置かれた。
逃げる手。
やはり、助けた。
白は追わなかった。上辺へ回る。
大きい。
ひなたの黒石は、ひとまず助かりそうだった。その代わり、盤全体では黒が遅れた。
ひなたが盤を見る。眉が寄る。
次の手に迷う時間が、少しずつ長くなっていった。
助けた石をどう使うか。どこで追いつくか。
差を取り戻そうとして、さらに踏み込む。白に受けられる。また追う。また受けられる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
勝負の逃げ道が、少しずつ減っていった。
(違う)
小春には分かる。今はそこではない。焦って取り返そうとするほど、盤全体が狭くなる。
けれど、何も言えない。言ってはいけない。
そして。
言えたとしても。
今の小春には、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて、ひなたの手が止まった。
盤を見る。碁笥を見る。もう一度、盤を見る。
それから、小さく頭を下げた。
「……負けました」
向かいの子も頭を下げる。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
対局が終わった。
◆◆◆
「負けちゃった」
会場の端。人の少ない壁際で、ひなたはそう言った。
「はい」
「そこは『惜しかったね』とかじゃないの?」
「……惜しいところもありました」
「今考えたでしょ」
「少し」
「小春、正直すぎ」
ひなたが笑った。いつもの笑い方だった。
けれど、長くは続かなかった。
視線が下がる。膝の上で、指が絡む。
「……ねえ、小春」
「はい」
「わたし、才能ないのかな」
小春は答えなかった。
ひなたの目に、涙が溜まっている。笑おうとしているのに、声が少し震えていた。
「小春みたいに全然見えないし。凛ちゃんみたいにすぐ分かんないし」
「ひなたさん」
「いっぱい打ってるのに、今日も途中から何していいか分かんなくなった」
目元を袖で拭う。
「わたし、向いてないのかな」
簡単だった。言うだけなら。
大丈夫です。絶対に強くなれます。才能なんて関係ありません。
十歳の友達が泣いているのだから、そう言えばいい。
けれど、小春には言えなかった。
才能の差がある世界を知っている。努力すれば、必ず同じ場所へ届くわけではない。何十年努力しても、届かない場所はある。人一倍勉強しても、勝てない相手はいる。
前世の自分が、そうだった。タイトルには一度も届かなかった。
だから。
「分かりません」
ひなたが顔を上げた。
「そこは慰めてよ!」
「すみません」
「ひどい!」
「嘘をつくのも違うかと」
「今は嘘でもいいところ!」
「そういうものですか」
「そういうもの!」
涙声のまま怒られた。
小春は少し困る。それから、ひなたの隣の空いた椅子へ座った。
膝の上で絡んでいたひなたの手へ、自分の手を重ねる。
一瞬だけ迷って。
ぎゅっと握った。
「強くなれるかは、私には分かりません」
「二回言わなくていいよ……」
「ですが」
ひなたが、小春を見る。
「好きなら、打てばいいと思います」
「……好きなら?」
「はい」
「才能なくても?」
小春は少し考えた。
「才能があるかどうかと、打っていいかどうかは別でしょう」
ひなたが瞬きをする。
「勝てなかったら、悔しいですよ」
「うん」
「向いていないと思う日もあるかもしれません」
「うん……」
「それでも打ちたいなら、打てばいいと思います」
それ以上は、小春にも分からなかった。
強くなれる保証などできない。才能があるとも、ないとも言えない。
ただ。
七十年近く打って。
死ぬ時に、もう一局打ちたいと思った人間として。
打ちたいのなら打てばいい。
それだけは、言えた。
ひなたはしばらく黙っていた。それから鼻をすすり、少しだけ笑った。
「小春って、慰めるの下手だね」
「申し訳ありません」
「でも、まあいいや」
「いいんですか」
「うん」
ひなたは袖で目元を拭う。
「だって、囲碁は好きだもん」
「……そうですか」
「うん」
今度の笑顔は、さっきより少しだけいつものひなたに近かった。
小春も小さく息を吐く。
けれど。
胸の奥には、まだ残っている。
(捨てろ)
ひなたの石を見て、自分がそう思ったこと。
自分では何十年もできなかったことを、ひなたには簡単に求めかけたこと。
答えは、まだ出なかった。
◆◆◆
決勝の組み合わせが呼ばれたのは、それから少ししてだった。
小春は対局表の前に立つ。
自分の名前。その隣にある名前を見る。
黒川凛。
(やはり、黒川さんか)
驚きはなかった。
教室で聞いた話では、凛は全国規模の大会でも何度も上位に入っているらしい。
プロを目指す子供たちが集まる院生。その院生入りを強く勧められている、とも。
小学生としては、明らかに別格。
あの日、初めて打った時から分かっていた。
強い。ここまで大会で打ってきた相手とは違う。
「小春」
呼ばれて振り返る。
凛がいた。
「行くよ」
「はい」
「疲れた?」
「少し」
「そう」
凛はそれ以上聞かなかった。
先に歩き出す。小春も隣へ並んだ。
決勝の盤は、会場の少し奥に用意されていた。
さっきまでと同じ十九路盤。同じ黒石と白石。同じ時計。
特別なものなど、何もない。
なのに。
椅子へ座り、盤を挟んで凛と向かい合った瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
盤を挟んだだけで、相手の最初の一手が楽しみになる。
どこへ打つ。どう返す。どこまで読んでいる。こちらの手に、どう食いついてくる。
知りたい。
そして。
それだけではなかった。
凛がこちらを見る。鋭い目。静かな顔。
小春は、少しだけ可笑しくなった。
七十年近く碁を打って。
一度死んで。
十歳の少女になって。
それでも、強い相手を前にすると。
(……勝ちたいのう)
次回いよいよ凛戦です




