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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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6/13

第6話 捨てろ

 小春が五局目を終えた時、会場の時計はだいぶ進んでいた。


 朝から何局も打っている。合間には休んでいるつもりでも、頭の奥には薄い重さが残っていた。


 それでも、まだ読める。


 まだ打てる。


 係の人に次の対局まで少し待つよう言われ、小春は水を一口飲んだ。


 その時、少し離れたところに人が集まっているのが見えた。


 子供が数人。その後ろに保護者。盤を覗き込む先生。


 そして。


「あ」


 見慣れた髪が見えた。


 ひなただった。まだ対局が続いている。


 小春は紙コップを片づけ、邪魔にならないようひなたの斜め後ろへ回った。



◆◆◆



 盤を見た瞬間、形勢は分かった。


(苦しいな)


 ひなたは黒。


 盤の左下で、黒石の一団が白に追われている。


 まだ逃げられる。手を入れれば助かる。


 ただ、そのためには何手か必要になる。その間に、白はもっと大きな場所へ先に回れる。


 盤全体で見れば。


 あの黒石は――。


(捨てろ)


 言葉が浮かんだ。


(そこは捨てれば――)


 そこで、小春の思考が止まった。


 自分で思った言葉が、自分の中へそのまま返ってくる。


 捨てろ。


 何度言われた。前世で。若い頃から、何十年も。


『その石はもう役目を終えています』


『岩城先生は石を捨てなさすぎる』


『もっと早く捨てていたら……まだ分からなかったと思います』


 そのたびに、分かっていると思った。実際、分かっていた。理屈だけなら。


 それでも盤の上で助かる石が見えれば、指はそちらへ動いた。


 ついさっきだって、同じことをした。助けなくてもよかった石を助けて、自分から苦しくなった。


 なのに今。


 ひなたの碁を見て、


(捨てろ)


 そう思った。


「……」


 小春は口を閉じた。


 もともと、対局中のひなたへ声をかけるつもりなどない。


 それでも、さっきまでなら終局後に言えたかもしれない。そこは助けなくてよかった。別の場所へ回る方が大きかった。


 前世で何度も後輩へ言ったように。


 今は、その言葉が喉の奥に引っかかった。


 ひなたの手が碁笥へ入る。黒石を摘まむ。


 小春には分かった。


(そこへ行くか)


 黒石が左下へ置かれた。


 逃げる手。


 やはり、助けた。


 白は追わなかった。上辺へ回る。


 大きい。


 ひなたの黒石は、ひとまず助かりそうだった。その代わり、盤全体では黒が遅れた。


 ひなたが盤を見る。眉が寄る。


 次の手に迷う時間が、少しずつ長くなっていった。


 助けた石をどう使うか。どこで追いつくか。


 差を取り戻そうとして、さらに踏み込む。白に受けられる。また追う。また受けられる。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 勝負の逃げ道が、少しずつ減っていった。


(違う)


 小春には分かる。今はそこではない。焦って取り返そうとするほど、盤全体が狭くなる。


 けれど、何も言えない。言ってはいけない。


 そして。


 言えたとしても。


 今の小春には、何を言えばいいのか分からなかった。


 やがて、ひなたの手が止まった。


 盤を見る。碁笥を見る。もう一度、盤を見る。


 それから、小さく頭を下げた。


「……負けました」


 向かいの子も頭を下げる。


「ありがとうございました」

「ありがとうございました」


 対局が終わった。



◆◆◆



「負けちゃった」


 会場の端。人の少ない壁際で、ひなたはそう言った。


「はい」

「そこは『惜しかったね』とかじゃないの?」

「……惜しいところもありました」

「今考えたでしょ」

「少し」

「小春、正直すぎ」


 ひなたが笑った。いつもの笑い方だった。


 けれど、長くは続かなかった。


 視線が下がる。膝の上で、指が絡む。


「……ねえ、小春」

「はい」

「わたし、才能ないのかな」


 小春は答えなかった。


 ひなたの目に、涙が溜まっている。笑おうとしているのに、声が少し震えていた。


「小春みたいに全然見えないし。凛ちゃんみたいにすぐ分かんないし」

「ひなたさん」

「いっぱい打ってるのに、今日も途中から何していいか分かんなくなった」


 目元を袖で拭う。


「わたし、向いてないのかな」


 簡単だった。言うだけなら。


 大丈夫です。絶対に強くなれます。才能なんて関係ありません。


 十歳の友達が泣いているのだから、そう言えばいい。


 けれど、小春には言えなかった。


 才能の差がある世界を知っている。努力すれば、必ず同じ場所へ届くわけではない。何十年努力しても、届かない場所はある。人一倍勉強しても、勝てない相手はいる。


 前世の自分が、そうだった。タイトルには一度も届かなかった。


 だから。


「分かりません」


 ひなたが顔を上げた。


「そこは慰めてよ!」

「すみません」

「ひどい!」

「嘘をつくのも違うかと」

「今は嘘でもいいところ!」

「そういうものですか」

「そういうもの!」


 涙声のまま怒られた。


 小春は少し困る。それから、ひなたの隣の空いた椅子へ座った。

 膝の上で絡んでいたひなたの手へ、自分の手を重ねる。


 一瞬だけ迷って。


 ぎゅっと握った。


「強くなれるかは、私には分かりません」

「二回言わなくていいよ……」

「ですが」


 ひなたが、小春を見る。


「好きなら、打てばいいと思います」

「……好きなら?」

「はい」

「才能なくても?」


 小春は少し考えた。


「才能があるかどうかと、打っていいかどうかは別でしょう」


 ひなたが瞬きをする。


「勝てなかったら、悔しいですよ」

「うん」

「向いていないと思う日もあるかもしれません」

「うん……」

「それでも打ちたいなら、打てばいいと思います」


 それ以上は、小春にも分からなかった。


 強くなれる保証などできない。才能があるとも、ないとも言えない。


 ただ。


 七十年近く打って。


 死ぬ時に、もう一局打ちたいと思った人間として。


 打ちたいのなら打てばいい。


 それだけは、言えた。


 ひなたはしばらく黙っていた。それから鼻をすすり、少しだけ笑った。


「小春って、慰めるの下手だね」

「申し訳ありません」

「でも、まあいいや」

「いいんですか」

「うん」


 ひなたは袖で目元を拭う。


「だって、囲碁は好きだもん」

「……そうですか」

「うん」


 今度の笑顔は、さっきより少しだけいつものひなたに近かった。


 小春も小さく息を吐く。


 けれど。


 胸の奥には、まだ残っている。


(捨てろ)


 ひなたの石を見て、自分がそう思ったこと。


 自分では何十年もできなかったことを、ひなたには簡単に求めかけたこと。


 答えは、まだ出なかった。



◆◆◆



 決勝の組み合わせが呼ばれたのは、それから少ししてだった。


 小春は対局表の前に立つ。


 自分の名前。その隣にある名前を見る。


 黒川凛。


(やはり、黒川さんか)


 驚きはなかった。


 教室で聞いた話では、凛は全国規模の大会でも何度も上位に入っているらしい。


 プロを目指す子供たちが集まる院生。その院生入りを強く勧められている、とも。


 小学生としては、明らかに別格。


 あの日、初めて打った時から分かっていた。


 強い。ここまで大会で打ってきた相手とは違う。


「小春」


 呼ばれて振り返る。


 凛がいた。


「行くよ」

「はい」

「疲れた?」

「少し」

「そう」


 凛はそれ以上聞かなかった。


 先に歩き出す。小春も隣へ並んだ。


 決勝の盤は、会場の少し奥に用意されていた。


 さっきまでと同じ十九路盤。同じ黒石と白石。同じ時計。


 特別なものなど、何もない。


 なのに。


 椅子へ座り、盤を挟んで凛と向かい合った瞬間。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 盤を挟んだだけで、相手の最初の一手が楽しみになる。


 どこへ打つ。どう返す。どこまで読んでいる。こちらの手に、どう食いついてくる。


 知りたい。


 そして。


 それだけではなかった。


 凛がこちらを見る。鋭い目。静かな顔。


 小春は、少しだけ可笑しくなった。


 七十年近く碁を打って。


 一度死んで。


 十歳の少女になって。


 それでも、強い相手を前にすると。


(……勝ちたいのう)

次回いよいよ凛戦です

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