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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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5/13

第5話 夏の大会

 七月。


 教室の窓から入る日差しが、すっかり夏の色になっていた。


「小春、一緒に出よう!」


 ひなたが、机の上へ一枚の紙を広げた。


 色のついた文字で、『夏休み少年少女囲碁大会』と書かれている。


 小春は紙を覗き込んだ。


「大会ですか」

「うん! 先生が出てみたらって」

「そうですか」

「小春も出るよね?」

「……私もですか」

「一緒に出るの!」


 ひなたが当たり前のように言う。


 小春はもう一度、案内を見る。


 小学生の部。


 十九路盤。


 大会会場は市内の文化会館。


 参加資格にも、特に問題はない。


 問題があるとすれば、一つだけだった。


「子供相手では、大人げないと思います」


 ひなたが目を丸くした。


「小春も子供だよ?」

「…………」

「五年生だよ?」

「……そうでした」


 ひなたが吹き出した。


「忘れることある?」

「たまに」

「ないよ普通」


 笑われた。


 反論できない。


 小春は案内へ視線を戻した。


 大会。


 その二文字を見ていると、胸の奥に昔の感覚が少しだけ戻ってくる。


 対局表。


 名前の札。


 決められた時間。


 勝てば次があり、負ければそこで何かを失う。


 もちろん、子供の大会と前世の棋戦はまったく別物だ。


 背負っているものも、注目される重さも違う。


 分かっている。


 それでも。


(大会、か)


 少しだけ、指先が落ち着かなかった。


「出ないの?」


 ひなたが顔を覗き込んでくる。


 近い。


 今ではもう、いちいち身体を引くほどではない。


「……出ます」

「ほんと?」

「はい」

「やった!」


 ひなたが両手を上げる。


 その向こうで、先生が小さく笑っていた。



◆◆◆



 それから夏休みに入るまで、小春は日曜日ごとに教室へ通った。


 ひなたと打つ。


 詰碁を解く。


 凛が来れば、三人で同じ盤を覗き込むこともあった。


 ひなたは相変わらず距離が近い。


 凛は相変わらず言うことが短い。


 小春は相変わらず、危なくなった自分の石を放っておけない。


 一度気づいたからといって、七十年近く続いた癖が消えるわけではなかった。


 そして、大会当日の朝。


「小春、ちょっとこっち向いて」

「もう十分では?」

「十分じゃない」


 母に椅子へ座らされ、小春は鏡の中の自分を見ていた。


 五月に自分で選んだ、無地の白いブラウス。


 紺色のスカート。


 髪には、母が押し切って買ったあの髪飾り。


「これ、やっぱり似合う」

「そうですか」

「そうです」


 母は満足そうに、小春の髪を整える。


「大会なんだから、ちゃんとして行かないと」

「囲碁は服で打つものではありませんが」

「気分の問題なの」

「前にも似た理屈を聞いた気がします」

「正しい理屈は何回聞いてもいいの」


 強かった。


 小春は鏡を見る。


 そこにいるのは、十歳の少女だった。


 当たり前だ。


 こういう服が嫌なわけではない。


 桜井小春としてなら、これまでだって普通に着てきた。


 ただ、対局へ向かう朝の記憶には、別の自分もいる。


 鏡の前でネクタイを直していた男。


 白髪を気にしながら、対局場へ向かった老人。


 その記憶と、今の鏡の中の自分を並べると。


(……どうにも慣れぬな)


「なに、その顔」

「いえ」

「かわいいよ?」

「聞いていません」

「照れてる?」

「違います」

「はいはい」


 母は笑いながら、小春の髪飾りを最後に少しだけ直した。



◆◆◆



 会場は、いつもの囲碁教室よりずっと広かった。


 長机が何列も並び、その上に碁盤が置かれている。


 子供たちの声。


 保護者の話し声。


 受付で名前を確認する係の人。


 壁に貼られた対局表。


 見慣れたものと、見慣れないものが混ざっている。


 保護者の席に、母がいた。


 目が合うと手を振られたので、小春は小さく頭を下げた。


「小春!」


 聞き慣れた声がして、ひなたが走ってきた。


 そして。


「かわいい!」

「言わないでください」

「なんで?」

「なんでもです」

「髪もかわいい!」


 ひなたが当然のように、小春の髪飾りへ手を伸ばした。


「……近いです」

「またそれ?」

「近いものは近いです」

「前より逃げなくなったよね」

「…………」

「また黙った」

「受付へ行きますよ」

「ごまかした!」


 ひなたが笑いながら隣を歩く。


 その少し先に、凛もいた。


「黒川さん。おはようございます」

「おはよう」


 凛の視線が、小春の服へ落ちる。


「……何か」

「別に。似合ってると思っただけ」

「……ありがとうございます」

「顔赤いよ?」


 ひなたが横から覗き込んでくる。


「暑いので」

「まだ朝だけど」

「夏ですから」


 ひなたが声を上げて笑う。


 小春は聞こえないふりをした。


 受付を済ませ、名前を書き、対局表を確認する。


 その瞬間だった。


 さっきまで聞こえていた周囲の声が、遠くなる。


 教室の碁とは違う。


 名前と結果が、紙に残る。


 一局が終われば、次の相手が決まる。


 たったそれだけのことなのに。


 身体が、昔の空気を思い出していた。


「小春?」


 ひなたが隣から覗く。


「緊張してる?」

「少し」

「小春でもするんだ」

「しますよ」

「なんか安心した」

「なぜです」

「いつも落ち着きすぎだから」


 ひなたはそう言って笑った。


 その顔を見て、小春も少しだけ肩の力を抜いた。



◆◆◆



 一局目。


 相手の男の子が白石を握り、盤へ伏せた。


 教室ではじゃんけんだった。ここは違う。


 小春は迷わず、黒石を二つ摘まんだ。


 偶数、という意味だ。


 開かれた白石は、六つ。


 小春の黒番になった。


 持ち時間は一人三十分。使い切れば、その時点で負けになる。


 小春は、特に危なげなく勝った。


 二局目も。


 三局目も。


 相手はみな、小学生としては十分に打てる子たちだった。


 それでも、小春には積み重ねてきたものが違いすぎる。


 相手が打ちたい場所が見える。


 嫌がる場所も分かる。


 形を見れば、その先で起こることがおおよそ読める。


 派手に石を取らなくても、気づけば盤全体で少しずつ差がついている。


 前世で何度もやってきたことだった。


 途中ですれ違ったひなたが、両手でピースを作ってきた。


 どうやら、あちらも勝っているらしい。


 ただし、身体だけは昔のままではない。


 対局の合間には水を飲み、椅子へ深く座り、少し目を閉じる。


 教室で疲れを自覚してから、小春は休むことも覚え始めていた。


 それでも午後になると、頭の奥には薄い重さが残る。


 なくなるわけではない。


 付き合い方を覚えただけだ。


 そして、四局目。


 小春は、また同じことをした。



◆◆◆



 盤の右下。


 黒石が三つ、白から追われている。


 この局も、小春は黒だった。


 助ける手はある。


 逃げ道も見える。


 手を入れれば、まだ十分に使える。


 ただし、左辺にもっと大きな場所が残っていた。


 そこへ回る方がいい。


 分かっている。


 教室で凛に言われたことも、まだ覚えている。


 凛なら、たぶん右下を見ない。


 迷わず左へ行く。


 小春も、それが正しいと思う。


 なのに。


 黒石を摘まんだ。


 右下へ置く。


 相手が応じる。


 もう一手。


 追われた黒石がつながる。


 助かった。


 そして。


 小春は盤全体を見た。


(……またか)


 左辺を白に先回りされていた。


 差が広がる。


 自分で分かっていた。


 その手を打てば遅れると。


 分かっていて、また助けた。


 小春は少し強く、碁笥へ手を入れた。


(何をやっとる)


(大人げない、などとよく言えたものじゃ)


 前世でも。


 今でも。


 同じだ。


 助けられると見えた瞬間、そちらへ手が向く。


 一度気づいた。黒川さんにも指摘された。


 それでも直らない。


 小春は小さく息を吐いた。


 向かいの少年は、盤だけを見ている。


 当然だ。


 こちらが何十年同じことで悩んできたかなど、知るはずもない。


 碁は続く。


 白が広げる。


 黒が追う。


 白が先へ回る。


 気づけば、黒はかなり苦しくなっていた。


(悪いのう)


 目算する。


 足りない。


 少しではない。


 このまま普通に打てば、そのまま負ける。


 こういう盤面は、昔から何度も見てきた。


 そして、苦しくなってからの方が、なぜか手が見えることも多かった。


 小春は盤へ顔を近づける。


 中央。


 白の石が少し離れている。


 上辺。


 まだ入り込める余地がある。


 右下。


 先ほど助けた黒石も、完全に役目を終えたわけではない。


(まだある)


 黒石を置く。


 白が受ける。


 黒が出る。


 取られそうな石をぎりぎりでつなぐ。


 相手の地の奥へ入り、捕まりそうになれば逃げ道を作る。


 捨ててもよかった石を助けたせいで苦しくなった。


 そのくせ。


 苦しくなった碁を、しぶとく続けることだけは嫌というほど覚えている。


 自分で苦しくして。


 自分でしのぐ。


(まったく、情けない得意分野じゃな)


 それでも手は止めない。


 一つ。


 また一つ。


 白の地を削る。


 黒の弱い石をつなぐ。


 最後まで残っている小さな場所を拾う。


 終盤になるほど、盤の上から大きな場所が消えていく。


 残るのは、一目。


 また一目。


 ほんの小さな差。


 そういうところを拾うのは、昔から嫌いではなかった。


 相手の少年の手が、少しずつ遅くなる。時計の残りも減っていく。


 互いに、あと十分もない。


 さっきまで余裕があったはずの盤面が、いつの間にか細くなっている。


 小春は目算する。


(……届いたか)


 まだ断言はしない。


 一手でも間違えれば消える差だ。


 だから最後まで打つ。


 最後の一手まで。


 やがて、互いに打つべき場所がなくなった。


 終局を確認する。


 石を整える。


 数える。


 ほんのわずかに、小春の方が多かった。


 向かいの少年が、小さく息を吐いて頭を下げた。


「ありがとうございました」

「ありがとうございました」


 小春も頭を下げた。


 勝った。


 そのはずなのに。


 胸の奥に、すっきりしたものはなかった。



◆◆◆



「やっぱり変」


 顔を上げると、凛が立っていた。


「黒川さん」

「途中から見てた」

「対局は?」

「終わった」


 短い。


 その顔を見れば、負けたわけではなさそうだった。


 凛は小春の盤を見る。


「最初にあれ助けて、あんなに悪くしたのに」

「……はい」

「それでも最後は勝つんだ」

「たまたまです」

「たまたまじゃないでしょ」


 凛は納得していない顔だった。


 小春も、自分の言葉を信じてはいなかった。


 視線を盤へ戻す。


 右下。


 あの黒石は、まだ盤上に残っている。


 助けなくてもよかった石。


 助けたせいで、苦しくなった石。


 それでも最後まで生き残った石。


「桜井さん」


 先生の声がした。


 いつの間にか、先生も盤のそばに立っていた。


 小春は顔を上げる。


 先生はすぐには何も言わなかった。


 盤全体を見る。


 右下の黒石を見る。


 それから、終盤に削った場所へ視線を移す。


 しばらくして。


「……昔、こういう碁を打つ棋士がいたな」


 小春は何も言わなかった。


 聞こえなかったふりをした。


 盤上には、助けなくてもよかった黒石が残っている。


 勝ったはずなのに。


 その石だけが、妙に目についた。

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