第4話 変な碁
六月も半ばを過ぎた、日曜日。
昼を過ぎて、ひなたとは朝から何局も打っていた。
桜井小春は、いつものように盤の前に座っていた。
「そこ!」
向かいに座るひなたが、勢いよく黒石を置く。
小春は盤を見る。
右上。黒が少し厚い。
左辺。白が先に回れる。
下辺は、まだ急がなくていい。
次の手はすぐに見えた。
白石を摘まむ。
置く。
「うーん……」
ひなたが唸る。
「小春、そこ嫌」
「嫌なところへ打つのが囲碁ですから」
「やっぱり先生みたい」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないよ?」
「では聞かなかったことにします」
「ずるい」
ひなたが頬を膨らませる。
教室へ通い始めてから、こういうやり取りにも少し慣れた。
最初の頃は、ひなたが顔を寄せるたびに近いと思った。手を引かれるたびに、どう反応すればいいのか困った。
今でも近いとは思う。
ただ、前ほど身体が固まらなくなった。
「小春?」
「はい」
「考えてる?」
「考えていますよ」
「今ちょっとぼーっとしてた」
「……そう見えましたか」
「うん」
小春は盤へ視線を戻した。
ぼんやりしていたつもりはない。
次の手も読めている。
黒がこちらなら白はここ。黒が切れば白は受ける。その先も見える。
見えているのに。
ほんの一瞬だけ、読みの糸が切れた。
(妙じゃな)
小春は白石を置いた。
悪い手ではない。
ただ、いつもなら考える必要もない程度の手に、わずかに時間がかかった。
ひなたは、その隙に少しだけ得をした。
勝負に影響するほどではない。
それでも、普段ならしない損だった。
対局は小春が勝った。
「負けましたー!」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
ひなたはもう碁笥へ手を伸ばしている。
「もう一局!」
「ひなたさん。そろそろ置き碁にしませんか」
棋力に大きな差がある時は、弱い側があらかじめ黒石をいくつか置いてから始める。いわゆる置き碁だ。
「置かない」
「今日はまだ、一度も勝てていませんが」
「置かない!」
即答だった。
「先生も置きなさいって言うんだけど、置かない」
「なぜです」
「だって置いて勝っても、小春に勝ったことにならないもん」
小春は少し黙った。
「……なるほど」
なるほど、としか言えなかった。
「じゃあ、もう一局!」
「少し待ってください」
「え?」
ひなたの手が止まった。
小春も、自分の言葉に少し驚いた。
前なら――岩城宗一だった頃なら、一局終わった程度で休みたいと思うことはほとんどなかった。長い公式戦なら一日がかりになることもある。研究会では、朝から晩まで盤に向かうことも珍しくなかった。
なのに今は、肩が重い。首の後ろにも、うっすらと疲れが溜まっている。
何より、頭の奥が少し熱い。
「小春、疲れた?」
「……少しだけ」
「じゃあ休も」
「いえ、もう一局くらいなら」
「休も」
「しかし」
「休むの!」
妙に強かった。
ひなたは立ち上がると、教室の隅に置かれた紙コップを一つ取ってきた。給水器から水を入れ、小春の前へ置く。
「はい」
「……ありがとうございます」
「先生がね、疲れたら休みなさいっていつも言ってる」
「正論ですね」
「小春、そういうの聞かなそうだから」
「聞きますよ」
「ほんと?」
「…………」
「今黙った」
小春は紙コップを持ち上げた。
冷たい水を一口飲む。
少しだけ、頭の重さが引いた気がした。
盤を見ると、先ほどまでの一局がそのまま残っている。
どこが悪かったか。どこでひなたが損をしたか。どこでもっと簡単に勝てたか。
盤面を見れば、いくらでも考えられる。知識が消えたわけでも、読み方を忘れたわけでもない。
七十年近く積み重ねたものは、確かに頭の中にある。
ただ、それを何時間も引き出し続ける身体は、まだ十歳だ。
前世なら続けられた読みを、今の身体は同じようには支えてくれない。
知っていることと、できることは同じではなかった。
(なるほどのう)
小春は紙コップの縁へ口をつける。
(そう簡単にはいかんか)
少し可笑しくなった。
生まれ変わっても碁が打てる。記憶も残っている。
なら、前と同じように打てる――どこかで、そんなふうに思っていたのかもしれない。
どうやら十歳というのは、思っていた以上に十歳らしい。
◆◆◆
「ひなた。その子?」
声がした。
小春が顔を上げる。
少し離れたところに、一人の少女が立っていた。
小春やひなたより、わずかに背が高い。
黒い髪を長く伸ばし、まっすぐ背中へ落としている。整った顔立ちに、少し鋭い目元。黙って立っているだけなら、ひなたとは正反対に近寄りがたい印象を受ける。
「あ、凛ちゃん!」
ひなたが手を振った。
「今日来たんだ!」
「うん」
少女――凛は短く答えてから、小春を見る。
遠慮はない。ただし、ひなたのように顔を近づけてくるわけではない。
視線だけが、まっすぐだった。
「この子が小春?」
「そう! すっごく強いよ!」
「ひなたさん」
「なに?」
「紹介の仕方に問題がある気がします」
「でも強いよ?」
「否定はしませんが」
「しないんだ」
凛が初めて少しだけ表情を動かした。
「黒川凛」
「桜井小春です」
「六年生。ひなたより一つ上」
「よろしくお願いします、黒川さん」
「……丁寧だね」
「よく言われます」
最近、本当によく言われる。
凛の目が、盤へ落ちた。
ひなたと小春が打ち終えたばかりの盤面だ。
「これ、白が小春?」
「そうだよ」
「ふうん」
凛が空いている椅子に手をついて、盤を覗き込んだ。
数秒。
それだけだった。
「ここ、なんで助けたの?」
指差したのは、盤の左側だった。
白石が三つ。
少し前に黒から追われ、小春が手を戻してつないだ石だった。
「助かるからです」
「それは見れば分かる」
凛は即答した。
「そうじゃなくて、なんで助けたの?」
小春は盤を見る。
なぜ、と聞かれると少し困る。
助かる石だったから。取られる必要がなかったから。だから助けた。
それ以上の理由を求めたことがない。
「放っておいたら取られます」
「取らせればいいじゃん」
さらりと言われた。
小春は凛を見る。
凛はもう別の場所を指している。
「その一手で、こっちに打てたでしょ。そのほうが大きい」
「……」
「三つ取られても、別に困らないし」
ひなたが盤を覗き込んだ。
「えー。三つも取られるの嫌じゃない?」
「嫌とかじゃなくて、そっちの方が得だから」
「でも助けられるよ?」
「だから?」
「だから助ける」
「ひなたはそうだよね」
凛が小さく息を吐く。
それから、もう一度小春を見た。
「小春も?」
「……どうでしょう」
本当は、考えるまでもない。
助ける。
助かるなら。
あの最後の対局でもそうした。そのせいで碁を悪くし、若い棋士にもっと早く捨てていたらと言われた。
何十年も、その前から言われ続けてきた。
分かっている。分かっているのに。
「打ってみる?」
凛が言った。
「あたしと」
ひなたの顔がぱっと明るくなる。
「やるの!?」
「ひなたがなんで喜ぶの」
「だって見たい」
小春は凛を見る。
先ほどまでの疲れは、まだ少し残っている。本当なら、もう少し休んだ方がいい。
けれど、目の前の少女がどのくらい打つのか、少し興味があった。
「お願いします」
ひなたが横から口を尖らせる。
「小春、休むんじゃなかったの?」
「……一局だけです」
「ぜったい嘘だ」
凛が口元をわずかに上げた。
「じゃあ、やろ」
◆◆◆
打ち始めて、すぐに分かった。
(強い)
小春が記憶を取り戻してから初めて、はっきりそう思った相手だった。
もちろん、前世で戦ったプロ棋士たちとは比べられない。
だが、小学生として見るなら、明らかに抜けている。
打つ手に迷いが少ない。
ひなたのように、目の前の石ばかり追わない。
一つの場所へ執着しない。
盤全体を見ている。
そして何より。
捨てるのが早い。
凛の黒石が二つ、白に追われた。
小春なら、まだ逃げる手を読む。
一手。
二手。
うまくすれば、十分助かる。
だが凛は、その石を見なかった。
別の場所へ打った。
あっさりと。
「……そこですか」
「うん」
「こちらは?」
「いらない」
短い。迷いもない。
小春が二つの石を取りに行く。
その間に、凛は盤の反対側へ回った。
二つの石と引き換えに、黒はもっと大きな場所を先に占めた。
(なるほど)
小春は少しだけ目を細める。
嫌いな打ち方ではない。むしろ、理屈としてはよく分かる。
分かりすぎるくらい分かる。昔から、自分に足りないと言われ続けたものだった。
小春は白石を置く。
凛がすぐ返す。
速い。
返ってくる石の音にも、ためらいがない。硬く、短い音だった。
ただ速いだけではない。
小春が打つと、凛はほとんど間を置かずに返してくる。こちらの手番の間にも、先を読んでいるのだろう。
この年齢で、ここまで打つ。
(大したものじゃ)
盤の向こうにいる相手の次の手が、少し楽しみになる。
そんな感覚は久しぶりだった。
ひなたと打つ碁とは違う。あれはあれで楽しい。
だが、凛との碁には別のものがある。
一手でも甘く打てば、すぐに咎められる。
盤面の空気が、少しだけ張っている。
小春は自然と読みを深くした。
一手。
二手。
三手。
黒が切る。
白が受ける。
その先――。
ふっと。
読んでいた変化が途切れた。
「……」
小春は瞬きをした。
頭の奥が、また重い。さっきよりもはっきりしている。
読み直す。
黒。
白。
黒。
今度は見える。
(いかんな)
疲れている。
理解した直後なのに、もう忘れたように集中していた。
昔の癖というものは、身体よりよほどしぶといらしい。
「小春」
凛の声がした。
「はい?」
「手、止まってる」
「考えています」
「そう」
凛はそれ以上言わなかった。
急かしもしない。
ただ、小春の指先を見ていた。
小春は白石を摘まむ。
盤の中央。
白石が四つ、黒に迫られている。
まだ助け出せる。ただ、そのためには手をかける必要がある。
別の場所には、もっと大きな手がある。盤全体で見れば、そちらへ回る方がいい。
分かっている。
小春の指が、ほんのわずかに止まった。
『取らせればいいじゃん』
さっき聞いた声が、勝手に混ざる。
昔なら、そんな言葉が浮かんでも指は止まらなかった。
正しい手が見えていても、助かる石が目に入れば、その瞬間には手が動いていた。
白石を置く。
中央へ。
四つの石を助けるために。
凛が盤を見た。
次に、小春を見る。
「あなた、変な碁を打つね」
「何がですか」
「石を捨てない」
小春は一瞬、言葉を失った。
「いらない石まで、全部助けようとする」
声が重なる。
『岩城先生は石を捨てなさすぎる』
『もっと早く捨てていたら……まだ分からなかったと思います』
何十年も聞いた。
何十年も分かっていた。
そして今。
同じことを、六年生の少女に言われている。
小春は少しだけ息を吐いた。
「そうかもしれませんね」
なるべく平静に答えた。
凛は納得した様子もなく、盤へ黒石を置いた。
その一手で、黒は大きな場所へ先回りした。
中央の白は助かった。
その代わりに、盤全体では少し遅れた。
ひどく見覚えのある形だった。
凛が顔を上げる。
「そんな打ち方じゃ、強い人には勝てないよ」




