第3話 もう一局!
次の日曜日。
桜井小春は、母と一緒にもう一度『こども囲碁教室』の扉をくぐった。
「それじゃ、終わる頃に迎えに来るからね」
「はい」
「無理しないこと。疲れたらちゃんと先生に言うこと」
「分かっています」
「あと――」
「お母さん」
「なに?」
「囲碁を打つだけです」
母は少し考え、それから笑った。
「そうだった」
入会の手続きを終えた母が帰っていく。扉が閉まるまで見送ってから、小春は教室の中へ向き直った。
前に見学へ来た時と同じ場所だ。机の上には碁盤。黒と白の石。壁には子供向けに書かれた簡単なルールと、手書きで『つめごコーナー』と書かれた紙が貼ってある。部屋のあちこちから、石が盤へ触れる乾いた音が聞こえてくる。
違うのは、今日は見ているだけではないことだった。
「桜井さん」
先生が手招きする。
「こっちへどうぞ。ちょうど同じ五年生の子がいるから――」
「新しい子?」
先生の言葉を最後まで待たず、一人の少女が顔を出した。
小春と同じくらいの背丈。明るめの髪がふわりと肩のあたりで揺れている。目元も口元も柔らかく、笑うと顔全体が一緒に笑っているように見えた。少女は小春の前まで来ると、遠慮なく顔を覗き込んだ。
「名前なんていうの?」
「桜井小春です」
「わたし、水瀬ひなた。ひなたでいいよ」
「では、ひなたさん」
「さん付けなんだ」
「はい」
「同い年なのに?」
「同い年でも、初対面なので」
「そっかあ」
初対面の相手をいきなり呼び捨てにする習慣は、七十年近く生きても身につかなかった。
ひなたは納得したのかしていないのか、ふにゃりと笑った。そして次の瞬間には、もう別のことを聞いていた。
「囲碁できる?」
小春は一拍だけ黙った。
できる。七十年ほど。とは、当然言えない。
「……少しだけ」
「じゃあやろ!」
早い。返事をする前に話が決まった。
先生が苦笑する。
「水瀬さん。桜井さんは今日が初日だからね」
「うん。だからわたしが教える!」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
ひなたはすでに空いている盤の前へ座っている。
「小春、こっち!」
小春は先生を見る。先生は肩をすくめた。
「まあ、打ってみようか」
「……はい」
小春はひなたの向かいへ座った。
望んでいたはずだった。誰かと、盤を挟みたい。そう思って、この教室へ来た。なのに実際に人が向かいへ座ると、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
目の前にいるのは、タイトルを争う棋士でもなければ、研究会で何度も盤を挟んだ相手でもない。同い年の少女だ。しかも、ものすごく楽しそうに碁笥を開けている。
「小春、黒と白どっちがいい?」
「どちらでも」
「じゃんけんする?」
小春の手が、一瞬だけ白石のほうへ動いた。
――ここは教室だ。
「それでお願いします」
「じゃーんけーん――」
小春は負けた。
「わたし黒!」
「では、私は白ですね」
「うん!」
ひなたが黒石を摘まむ。小春も白石へ手を伸ばした。
指に収まる石の感覚には、まだわずかな違和感がある。人差し指と中指。前世と同じ形。けれど、指の長さが違う。関節の位置も、力の入り方も違う。盤までの距離も近く、座った時の目線も低い。盤全体を見るために、昔より少しだけ顎を引かなければならない。
(……まだ慣れんな)
それでも。
向かいには相手がいる。ひなたが盤を見て、こちらがどこへ打つのかを待っている。
それだけで、紙の上へ一人で丸を書いていた時とは何もかも違った。
◆◆◆
ひなたの一手目に迷いはなかった。黒石が盤へ置かれる。
「ここ!」
元気のいい手だった。
小春は白石を置く。
今の手が鳴らす音には、まだ耳が慣れない。
けれど今日は、その後に音が返ってくる。ひなたの黒石が盤を叩いた。元気がよくて、少し雑な音だった。紙の上へ一人で丸を書いていた夜には、なかったものだ。
白。
黒。
白。
最初の十数手で、小春には相手の棋力がおおよそ分かった。
弱い。
少なくとも、前世で相手をしていた棋士たちとは比べようもない。当たり前だ。ひなたは小学五年生で、子供向けの囲碁教室へ通っている少女なのだから。比べる方がどうかしている。
(さて)
小春は少し困った。どの程度で打つべきだろう。
全力で打てば、まず負けない。というより、まともな勝負にならない。しかし、わざと間違えるのも違う気がする。昔、指導碁は何度も打った。相手に合わせて石を置かせることはあっても、盤の上でわざと悪い手を選ぶのは好きではなかった。
(手を抜く方が失礼か)
結局、小春は普通に打つことにした。
そこから盤面は、少しずつ白へ傾いた。ひなたが右へ出れば、小春は先にその先を塞ぐ。左で石をつなごうとすれば、もっと大きな場所へ回る。黒がこちらを追いかけているつもりの間に、いつの間にか白の方が広く盤を使っている。
難しいことはしていない。相手が何をしたいのかを見て、その一歩先へ打つ。
それだけだった。
「うーん……」
さっきまで迷いなく石を置いていたひなたの手が、初めて止まった。
盤の右側で、黒石がいくつか白に囲われかけている。ひなたはそこをじっと見る。
小春には、次の手が分かった。
(助けるな)
案の定。
ひなたは黒石を一つ、その一団のそばへ置いた。
(やはり)
助けに行った。まだ生きられそうだから。取られるのが嫌だから。別の場所にもっと大きな手があるのに、目の前の石を放っておけない。
あまりにも分かりやすくて、小春は少しだけ口元を緩めた。
「なに?」
「いえ」
「今、笑った?」
「気のせいです」
「絶対笑ったー」
「打ちますよ」
「あっ、待って!」
待たない。
対局中なのだから。
小春が別の場所へ白石を置くと、ひなたは「あーっ」と声を上げた。盤全体の差は、さらに広がった。
少し離れたところで別の子を見ていた先生が、いつの間にか小春たちの盤の横へ来ていた。何も言わない。ただ、盤を見ている。
小春は白石を摘まむ。
その時、左辺の白石が一つだけ追われた。放っておいても、大勢に影響はない。別の場所へ回った方が大きい。
分かっている。
小春は白石を置いた。
追われた石の近くへ。
石を置いてから、ふと視線を感じた。先生が、こちらの盤を見ていた。目が合うと、先生は何も言わず別の盤へ視線を戻した。
助かる石を助けただけだった。
◆◆◆
「負けましたー!」
ひなたが両手を上げた。
先生に数え方を手伝ってもらうまでもなく、大きな差だった。黒より白の方が、明らかに広い。
「ありがとうございました」
小春が頭を下げる。
「ありがとうございました!」
ひなたも真似をして頭を下げた。そして顔を上げる。
「小春、すごいね!」
「そうでしょうか」
「強い! 全然勝てなかった!」
「……そうですね」
否定する方が不自然なので、そこは認めた。
ひなたは盤を見下ろした。
負けた。一方的に。
前世なら、負けた直後というのはもっと重かった。一局で順位が変わる。昇段が決まることもある。リーグから落ちることもある。あと一勝で届いたものが、遠ざかることもある。若い頃は、負けた棋譜を頭の中で何度も並べ直しながら、ほとんど口をきかず帰った夜もあった。
ひなたも、悔しいだろう。
そう思って小春は待った。何か声をかけた方がいいだろうか。どこが悪かったのか聞かれたら、どう説明するか。十歳の相手に七十年分の反省会を始めるわけにもいかない。
小春がそんなことを考えているうちに、ひなたは顔を上げた。
笑っていた。
「すごい! もう一回!」
「……え?」
「もう一局!」
小春は瞬きをした。
「負けたばかりですよ」
「うん」
「かなり差がありました」
「うん!」
「……悔しくないんですか?」
「悔しいよ?」
ひなたは不思議そうに首を傾げた。
「だから、もう一回やるの」
小春は黙った。
簡単な言葉だった。
負けた。悔しい。だから、もう一局。
何も難しくない。
昔は自分だって、そうだったのかもしれない。勝てば嬉しくて、負ければ悔しい。それでも次の碁が打ちたくて。
いつからだろう。
一局の向こう側に、順位や成績や生活が、いくつもくっつくようになったのは。
「小春?」
ひなたが碁笥を持ち上げる。
「もう一回しよ?」
小春は、自分でも気づかないうちに笑っていた。
「……はい」
「やった!」
二局目が始まった。
◆◆◆
二局目も、小春が勝った。三局目も勝った。
四局目に入る頃には、小春は自分が何をしに来たのか少し分からなくなっていた。
打ちに来たはずが、教えている。
どうやら、その性分は十歳になっても変わらないらしい。
「ひなたさん」
「なに?」
「そこは――」
ひなたが、また取られそうな石へ手を伸ばしている。盤の別の場所には、もっと急ぐべきところがある。
「そこは急ぐでな……」
言いかけて、小春は止まった。
ひなたが目を丸くする。
「でな?」
「……急がないほうがいいですよ」
「急に言い直した」
「気のせいです」
「今日それ二回目だよ」
「盤を見てください」
「はーい」
ひなたは素直に盤へ視線を戻した。
「じゃあ、どこがいい?」
「まず、自分の石を見てください」
「自分の?」
「はい。助けたい石だけではなくて、盤全体を」
「全部?」
「全部です」
「いっぱいあるよ?」
「囲碁なので」
「小春、先生みたい」
「…………」
「ねえ、なんでそんなに落ち着いてるの?」
「生まれつきです」
即答した。
(七十年分じゃ)
ひなたは「ふうん」と言いながら、盤へ顔を近づける。近い。石を見るためとはいえ、顔が盤へくっつきそうだ。
「そこまで近づかなくても見えますよ」
「この方が考えやすいの」
「姿勢が悪くなります」
「やっぱり先生みたい」
小春はため息をついた。
先生を見る。助けを求めたわけではない。たまたま視線が合っただけだ。
先生は少し離れたところで、笑いをこらえていた。そのあと、先生の目が盤へ落ちる。笑みがほんの少し消えた。小春の打った石を見ている。
序盤から派手なことはしていない。ひなたの石を必要以上に取りに行ってもいない。相手が嫌がるところへ先に回り、危なくなった自分の石は丁寧につなぎ、少しずつ差を広げている。
子供が覚えたての定石を並べている碁ではない。
――と、自分でも思う。
そう思われても、仕方のない打ち方だった。
「桜井さん」
「はい」
「本当に、少しだけ?」
やはり来た。
小春は一瞬だけ考える。
「……はい」
嘘ではない。
――「少し」の幅には、個人差がある。たぶん。
「誰かに教わったことは?」
「あります」
これは事実だ。師匠にも教わった。先輩にも。負けた相手にも、勝手に教わった。
「誰に?」
小春は黙った。
ひなたが横から口を挟む。
「先生、小春困ってるよ」
「ああ、ごめんごめん。初日に質問攻めはよくないな」
先生は引いた。
助かった。
「ありがとうございます、ひなたさん」
「いいよ!」
本人はなぜ礼を言われたのか、たぶん分かっていない。それでも、小春は少しだけ肩の力を抜いた。
◆◆◆
「小春、こっち!」
何局目かが終わったあと、ひなたが突然立ち上がった。
「今度あっちの問題やろ。石取るやつ!」
「詰碁ですか?」
「たぶんそれ!」
「たぶん……」
「ほら!」
ひなたが小春の手を取った。
「……っ」
小春の身体が止まった。
小さな手。温かい。指が、そのまま小春の指へ絡む。
ひなたは何のためらいもなく、小春を引っ張った。
「行こ!」
「ひなたさん」
「なに?」
「……近いです」
ひなたが振り返る。
「え? 普通だよ?」
「普通……」
「うん」
そう言って、また歩き出す。小春も引かれるまま一歩進んだ。
七十年近く生きてきた。棋士仲間と肩を並べることはあった。酔った後輩を支えて歩いたこともある。
だが。
同い年の少女に当然のように手を握られ、そのまま教室の中を連れていかれた記憶は、当然ながら一つもない。
(これは……どうしたものか)
居心地が悪い。どこに手を置けばいいのかも分からない。
すでに手は握られているのだが。
「小春、早く」
「そんなに引っ張らなくても逃げません」
「ほんと?」
「逃げません」
「じゃあ行こ!」
「結局引っ張るんですね」
ひなたが笑う。
小春は、その手を振りほどかなかった。
居心地は悪い。
けれど。
不快ではなかった。




