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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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3/13

第3話 もう一局!

 次の日曜日。


 桜井小春は、母と一緒にもう一度『こども囲碁教室』の扉をくぐった。


「それじゃ、終わる頃に迎えに来るからね」

「はい」

「無理しないこと。疲れたらちゃんと先生に言うこと」

「分かっています」

「あと――」

「お母さん」

「なに?」

「囲碁を打つだけです」


 母は少し考え、それから笑った。


「そうだった」


 入会の手続きを終えた母が帰っていく。扉が閉まるまで見送ってから、小春は教室の中へ向き直った。


 前に見学へ来た時と同じ場所だ。机の上には碁盤。黒と白の石。壁には子供向けに書かれた簡単なルールと、手書きで『つめごコーナー』と書かれた紙が貼ってある。部屋のあちこちから、石が盤へ触れる乾いた音が聞こえてくる。


 違うのは、今日は見ているだけではないことだった。


「桜井さん」


 先生が手招きする。


「こっちへどうぞ。ちょうど同じ五年生の子がいるから――」

「新しい子?」


 先生の言葉を最後まで待たず、一人の少女が顔を出した。


 小春と同じくらいの背丈。明るめの髪がふわりと肩のあたりで揺れている。目元も口元も柔らかく、笑うと顔全体が一緒に笑っているように見えた。少女は小春の前まで来ると、遠慮なく顔を覗き込んだ。


「名前なんていうの?」

「桜井小春です」

「わたし、水瀬ひなた。ひなたでいいよ」

「では、ひなたさん」

「さん付けなんだ」

「はい」

「同い年なのに?」

「同い年でも、初対面なので」

「そっかあ」


 初対面の相手をいきなり呼び捨てにする習慣は、七十年近く生きても身につかなかった。


 ひなたは納得したのかしていないのか、ふにゃりと笑った。そして次の瞬間には、もう別のことを聞いていた。


「囲碁できる?」


 小春は一拍だけ黙った。


 できる。七十年ほど。とは、当然言えない。


「……少しだけ」

「じゃあやろ!」


 早い。返事をする前に話が決まった。


 先生が苦笑する。


「水瀬さん。桜井さんは今日が初日だからね」

「うん。だからわたしが教える!」

「そういうことじゃないんだけどなあ」


 ひなたはすでに空いている盤の前へ座っている。


「小春、こっち!」


 小春は先生を見る。先生は肩をすくめた。


「まあ、打ってみようか」

「……はい」


 小春はひなたの向かいへ座った。


 望んでいたはずだった。誰かと、盤を挟みたい。そう思って、この教室へ来た。なのに実際に人が向かいへ座ると、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 目の前にいるのは、タイトルを争う棋士でもなければ、研究会で何度も盤を挟んだ相手でもない。同い年の少女だ。しかも、ものすごく楽しそうに碁笥を開けている。


「小春、黒と白どっちがいい?」

「どちらでも」

「じゃんけんする?」


 小春の手が、一瞬だけ白石のほうへ動いた。


 ――ここは教室だ。


「それでお願いします」

「じゃーんけーん――」


 小春は負けた。


「わたし黒!」

「では、私は白ですね」

「うん!」


 ひなたが黒石を摘まむ。小春も白石へ手を伸ばした。


 指に収まる石の感覚には、まだわずかな違和感がある。人差し指と中指。前世と同じ形。けれど、指の長さが違う。関節の位置も、力の入り方も違う。盤までの距離も近く、座った時の目線も低い。盤全体を見るために、昔より少しだけ顎を引かなければならない。


(……まだ慣れんな)


 それでも。


 向かいには相手がいる。ひなたが盤を見て、こちらがどこへ打つのかを待っている。


 それだけで、紙の上へ一人で丸を書いていた時とは何もかも違った。



◆◆◆



 ひなたの一手目に迷いはなかった。黒石が盤へ置かれる。


「ここ!」


 元気のいい手だった。


 小春は白石を置く。


 今の手が鳴らす音には、まだ耳が慣れない。


 けれど今日は、その後に音が返ってくる。ひなたの黒石が盤を叩いた。元気がよくて、少し雑な音だった。紙の上へ一人で丸を書いていた夜には、なかったものだ。


 白。


 黒。


 白。


 最初の十数手で、小春には相手の棋力がおおよそ分かった。


 弱い。


 少なくとも、前世で相手をしていた棋士たちとは比べようもない。当たり前だ。ひなたは小学五年生で、子供向けの囲碁教室へ通っている少女なのだから。比べる方がどうかしている。


(さて)


 小春は少し困った。どの程度で打つべきだろう。


 全力で打てば、まず負けない。というより、まともな勝負にならない。しかし、わざと間違えるのも違う気がする。昔、指導碁は何度も打った。相手に合わせて石を置かせることはあっても、盤の上でわざと悪い手を選ぶのは好きではなかった。


(手を抜く方が失礼か)


 結局、小春は普通に打つことにした。


 そこから盤面は、少しずつ白へ傾いた。ひなたが右へ出れば、小春は先にその先を塞ぐ。左で石をつなごうとすれば、もっと大きな場所へ回る。黒がこちらを追いかけているつもりの間に、いつの間にか白の方が広く盤を使っている。


 難しいことはしていない。相手が何をしたいのかを見て、その一歩先へ打つ。


 それだけだった。


「うーん……」


 さっきまで迷いなく石を置いていたひなたの手が、初めて止まった。


 盤の右側で、黒石がいくつか白に囲われかけている。ひなたはそこをじっと見る。


 小春には、次の手が分かった。


(助けるな)


 案の定。


 ひなたは黒石を一つ、その一団のそばへ置いた。


(やはり)


 助けに行った。まだ生きられそうだから。取られるのが嫌だから。別の場所にもっと大きな手があるのに、目の前の石を放っておけない。


 あまりにも分かりやすくて、小春は少しだけ口元を緩めた。


「なに?」

「いえ」

「今、笑った?」

「気のせいです」

「絶対笑ったー」

「打ちますよ」

「あっ、待って!」


 待たない。


 対局中なのだから。


 小春が別の場所へ白石を置くと、ひなたは「あーっ」と声を上げた。盤全体の差は、さらに広がった。


 少し離れたところで別の子を見ていた先生が、いつの間にか小春たちの盤の横へ来ていた。何も言わない。ただ、盤を見ている。


 小春は白石を摘まむ。


 その時、左辺の白石が一つだけ追われた。放っておいても、大勢に影響はない。別の場所へ回った方が大きい。


 分かっている。


 小春は白石を置いた。


 追われた石の近くへ。


 石を置いてから、ふと視線を感じた。先生が、こちらの盤を見ていた。目が合うと、先生は何も言わず別の盤へ視線を戻した。


 助かる石を助けただけだった。



◆◆◆



「負けましたー!」


 ひなたが両手を上げた。


 先生に数え方を手伝ってもらうまでもなく、大きな差だった。黒より白の方が、明らかに広い。


「ありがとうございました」


 小春が頭を下げる。


「ありがとうございました!」


 ひなたも真似をして頭を下げた。そして顔を上げる。


「小春、すごいね!」

「そうでしょうか」

「強い! 全然勝てなかった!」

「……そうですね」


 否定する方が不自然なので、そこは認めた。


 ひなたは盤を見下ろした。


 負けた。一方的に。


 前世なら、負けた直後というのはもっと重かった。一局で順位が変わる。昇段が決まることもある。リーグから落ちることもある。あと一勝で届いたものが、遠ざかることもある。若い頃は、負けた棋譜を頭の中で何度も並べ直しながら、ほとんど口をきかず帰った夜もあった。


 ひなたも、悔しいだろう。


 そう思って小春は待った。何か声をかけた方がいいだろうか。どこが悪かったのか聞かれたら、どう説明するか。十歳の相手に七十年分の反省会を始めるわけにもいかない。


 小春がそんなことを考えているうちに、ひなたは顔を上げた。


 笑っていた。


「すごい! もう一回!」

「……え?」

「もう一局!」


 小春は瞬きをした。


「負けたばかりですよ」

「うん」

「かなり差がありました」

「うん!」

「……悔しくないんですか?」

「悔しいよ?」


 ひなたは不思議そうに首を傾げた。


「だから、もう一回やるの」


 小春は黙った。


 簡単な言葉だった。


 負けた。悔しい。だから、もう一局。


 何も難しくない。


 昔は自分だって、そうだったのかもしれない。勝てば嬉しくて、負ければ悔しい。それでも次の碁が打ちたくて。


 いつからだろう。


 一局の向こう側に、順位や成績や生活が、いくつもくっつくようになったのは。


「小春?」


 ひなたが碁笥を持ち上げる。


「もう一回しよ?」


 小春は、自分でも気づかないうちに笑っていた。


「……はい」

「やった!」


 二局目が始まった。



◆◆◆



 二局目も、小春が勝った。三局目も勝った。


 四局目に入る頃には、小春は自分が何をしに来たのか少し分からなくなっていた。


 打ちに来たはずが、教えている。


 どうやら、その性分は十歳になっても変わらないらしい。


「ひなたさん」

「なに?」

「そこは――」


 ひなたが、また取られそうな石へ手を伸ばしている。盤の別の場所には、もっと急ぐべきところがある。


「そこは急ぐでな……」


 言いかけて、小春は止まった。


 ひなたが目を丸くする。


「でな?」

「……急がないほうがいいですよ」

「急に言い直した」

「気のせいです」

「今日それ二回目だよ」

「盤を見てください」

「はーい」


 ひなたは素直に盤へ視線を戻した。


「じゃあ、どこがいい?」

「まず、自分の石を見てください」

「自分の?」

「はい。助けたい石だけではなくて、盤全体を」

「全部?」

「全部です」

「いっぱいあるよ?」

「囲碁なので」

「小春、先生みたい」

「…………」

「ねえ、なんでそんなに落ち着いてるの?」

「生まれつきです」


 即答した。


(七十年分じゃ)


 ひなたは「ふうん」と言いながら、盤へ顔を近づける。近い。石を見るためとはいえ、顔が盤へくっつきそうだ。


「そこまで近づかなくても見えますよ」

「この方が考えやすいの」

「姿勢が悪くなります」

「やっぱり先生みたい」


 小春はため息をついた。


 先生を見る。助けを求めたわけではない。たまたま視線が合っただけだ。


 先生は少し離れたところで、笑いをこらえていた。そのあと、先生の目が盤へ落ちる。笑みがほんの少し消えた。小春の打った石を見ている。


 序盤から派手なことはしていない。ひなたの石を必要以上に取りに行ってもいない。相手が嫌がるところへ先に回り、危なくなった自分の石は丁寧につなぎ、少しずつ差を広げている。


 子供が覚えたての定石を並べている碁ではない。


 ――と、自分でも思う。


 そう思われても、仕方のない打ち方だった。


「桜井さん」

「はい」

「本当に、少しだけ?」


 やはり来た。


 小春は一瞬だけ考える。


「……はい」


 嘘ではない。


 ――「少し」の幅には、個人差がある。たぶん。


「誰かに教わったことは?」

「あります」


 これは事実だ。師匠にも教わった。先輩にも。負けた相手にも、勝手に教わった。


「誰に?」


 小春は黙った。


 ひなたが横から口を挟む。


「先生、小春困ってるよ」

「ああ、ごめんごめん。初日に質問攻めはよくないな」


 先生は引いた。


 助かった。


「ありがとうございます、ひなたさん」

「いいよ!」


 本人はなぜ礼を言われたのか、たぶん分かっていない。それでも、小春は少しだけ肩の力を抜いた。



◆◆◆



「小春、こっち!」


 何局目かが終わったあと、ひなたが突然立ち上がった。


「今度あっちの問題やろ。石取るやつ!」

「詰碁ですか?」

「たぶんそれ!」

「たぶん……」

「ほら!」


 ひなたが小春の手を取った。


「……っ」


 小春の身体が止まった。


 小さな手。温かい。指が、そのまま小春の指へ絡む。


 ひなたは何のためらいもなく、小春を引っ張った。


「行こ!」

「ひなたさん」

「なに?」

「……近いです」


 ひなたが振り返る。


「え? 普通だよ?」

「普通……」

「うん」


 そう言って、また歩き出す。小春も引かれるまま一歩進んだ。


 七十年近く生きてきた。棋士仲間と肩を並べることはあった。酔った後輩を支えて歩いたこともある。


 だが。


 同い年の少女に当然のように手を握られ、そのまま教室の中を連れていかれた記憶は、当然ながら一つもない。


(これは……どうしたものか)


 居心地が悪い。どこに手を置けばいいのかも分からない。


 すでに手は握られているのだが。


「小春、早く」

「そんなに引っ張らなくても逃げません」

「ほんと?」

「逃げません」

「じゃあ行こ!」

「結局引っ張るんですね」


 ひなたが笑う。


 小春は、その手を振りほどかなかった。


 居心地は悪い。


 けれど。


 不快ではなかった。

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