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前世の記憶を取り戻した少女、碁盤へ戻る  作者: P. Lum
第1章(完)

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2/13

第2話 十歳の手

 朝になっても、桜井小春は桜井小春だった。


 目を開ければ見慣れた天井があり、枕元には昨夜飲んだ水のコップがある。机の上には学校の教科書。椅子の背には、脱いだままにして母に叱られたカーディガン。


 何も変わっていない。変わったのは、小春の中に昨日までなかった七十年があることだけだった。


「小春?」


 扉が少し開き、母が顔を覗かせた。


「起きてる?」

「はい」

「熱、どう?」


 母が入ってくる。ベッドの脇へ腰を下ろし、小春の額へ手を当てた。


 その手を、小春は知っている。熱を出した時に触れてくれた手。眠れない夜に背中を撫でてくれた手。小学校へ上がった朝、曲がった襟を直してくれた手。同時に、七十歳近くまで生きた男の記憶から見れば、自分よりずっと若い女性の手でもある。


 一瞬だけ、妙な感じがした。けれど。


「昨日より下がってるね。よかった」


 ほっとしたように笑う母を見て、その違和感はすぐに小さくなった。


 母だ。自分の母親だ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「心配かけてすみません」

「……小春」

「はい?」

「なんか急にかしこまってない?」

「そうでしょうか」

「ほら、それ」


 母が笑う。


「昨日まで、そんなに『そうでしょうか』って言う子じゃなかったでしょ」


 言われてみれば、確かにそうだった。小春としての記憶を探れば、母とはもう少しくだけて話していた気がする。少なくとも、いちいち背筋を伸ばして受け答えなどしていない。


「……癖になったみたいです」

「一晩で?」

「一晩で」

「熱ってすごいねえ」


 納得したのかしていないのか、母はそう言って立ち上がった。


「今日はまだ学校休もうね。おかゆ食べられそう?」

「食べます」

「梅干しは?」

「お願いします」

「はいはい」


 扉へ向かいかけた母が、ふと振り返る。


「あと、夜中に歩き回るの禁止」


 小春は固まった。


「……起きていたんですか」

「トイレに起きたら、鏡の前で自分の顔じーっと見てる娘がいたら、そりゃ気づくよ」

「声をかけてください」

「なんか真剣だったから」

「そこは声をかけてください」


 母はくすくす笑いながら部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 小春は布団の上でしばらく黙っていた。昨夜、自分は何と言ったのだったか。


『……なんじゃこれは』


 思い出した瞬間、小春は両手で顔を覆った。


「……聞かれてませんよね」


 返事はない。当然だった。


 十歳の自室で、七十年分の恥ずかしさだけがじわじわと込み上げてきた。



◆◆◆



 熱が下がり、学校へ戻ってからも、世界そのものは何も変わらなかった。


 朝になれば起きる。顔を洗う。朝ごはんを食べる。ランドセルを背負って学校へ行く。授業を受ける。給食を食べる。友達と話す。帰れば宿題がある。


 桜井小春として十年間積み重ねてきた生活は、前世を思い出したくらいでは消えてくれない。消えてほしいとも思わなかった。


 何も失ってはいない。


 ただ、見えるものが増えた。


「小春、それ何描いてるの?」


 休み時間、隣の席の女子が覗き込んできた。


 算数のノート。方眼の升目の上に、黒く塗った丸と、輪郭だけの丸が交互に並んでいる。


「……落書きです」

「線からはみ出さないんだ」

「そういう決まりなので」

「決まりあるの?」


 答えに困った。あるといえば、ある。碁石は升目の中ではなく、線の交わるところへ置く。七十年、一度も間違えたことのない決まりだ。しかしそれを十歳の口で説明する方法が、うまく見つからなかった。


「……なんとなくです」

「ふうん」


 友達は納得したのかしていないのか、そのまま自分の席へ戻っていった。


 小春はノートを閉じる。こういうことが、最近よくある。窓の外を眺めていても、校庭の隅にある木と木の間隔を見て、なぜか石の配置を思い出す。給食の白い豆を見て碁石を思い出した時は、さすがに自分でもどうかと思った。


(重症じゃな)


 何の病気かは分からない。少なくとも熱はもうない。



◆◆◆



 その日の夜。


 宿題を終えたあと、小春はノートを新しく開いた。定規で線を引く。縦に十九本。横に十九本。目が疲れる作業だった。線は少し曲がった。それでも、十九路盤の形にはなった。


 小春は鉛筆を持ち直す。


 黒。白。黒。白。


 塗りつぶした丸と、輪郭だけの丸を、交互に置いていく。手順は覚えていた。忘れるはずがない。昔、大きな棋戦で勝った一局だ。相手の顔も、その日の対局室の暑さも、終局後に飲んだ茶の味も覚えている。


 鉛筆が進む。十手。三十手。五十手。


 途中で一度、指が止まりかけた。右下の白が、いい手を打っている。あの時は気づかなかった。今なら分かる。ここで受けていれば、もっと楽な碁だった。


 小春は少し笑って、そのまま当時の手を書き込んだ。


 百手を過ぎる。二百手を過ぎる。


 最後まで並べ終えた。


 ノートの上に、あの日の盤面がある。小春はしばらく、それを見ていた。


 何も起きなかった。当たり前だった。


 紙の上の丸は、こちらが書かなければ次の一手を返してこない。考えてもくれない。長考もしない。間違えもしない。読み違えて青くなることも、いい手を打たれて背筋が寒くなることもない。


 向かいに、誰も座っていない。


 小春は鉛筆を置いた。


(……足りんな)


 ただ碁が打ちたい、では足りなかった。誰かと、盤を挟みたい。


 相手が考え、迷い、こちらの予想を外してくる。その時間ごと、もう一度ほしかった。


 七十年近く打って、それでも足りなかったらしい。我ながら、業が深い。



◆◆◆



「小春、それ持たなくていいよ」

「これくらい平気です」

「平気じゃないでしょ。重いって」


 数日後の夕方。


 母が仕事から帰ってきたあと、小春は買ってきたものを台所へ運ぶのを手伝っていた。両手に抱えた買い物袋には、牛乳と調味料と野菜が入っている。


 前なら、もっと重いものも普通に持っていた。――前、というのが少々ややこしい。昨日までの十歳の自分ではなく、さらにその前。岩城宗一だった頃の話だ。


 小春は袋を持ち上げ直した。


「問題ありません」

「腕ぷるぷるしてるけど」

「これは……」


 ぷるぷるしていた。認めたくないが、していた。


「持つよ」

「いえ、あと少しなので」

「頑固」


 母に言われ、小春は黙る。その言葉には、妙に覚えがあった。


 結局、牛乳だけ母に持ってもらった。


 七十年、世話を焼く側に回ることの方が多かった。その自分が、牛乳一本を持たせてもらえない。少々、慣れない。


 家へ帰ると、小春は食器を片づけ、洗濯物を畳んだ。覚醒前から手伝いはしていたが、今は手が空いていると何かしたくなる。


 畳んだタオルを棚へ戻そうとして、手を伸ばす。


 届かない。背伸びをする。


 まだ届かない。


「…………」


 もう少しだった。あと数センチ。


 小春は爪先に力を入れる。それでも、届かない。


 台所からは水の音がしている。呼べば母が来るだろう。


 小春は呼ばなかった。


 椅子を運んでくる。上へ乗る。ようやくタオルを棚へ戻す。


 七十年分の生活経験があっても、棚の高さは低くならない。


 降りたところで、自分の手が目に入った。


 小さい手。細い指。まだ節も目立たない。記憶を取り戻すまでは、それはただ自分の手だった。今は、その向こうに別の手の感触がある。


 黒石を摘まんできた指。何十年も碁盤の上を行き来した、皺の深い手。


 小春は右手を開き、ゆっくり閉じた。


 同じようには動かない。当然だ。身体が違う。力も、指の長さも、目線の高さも違う。それでも、この手も自分の手だった。


「何してるの?」


 母に聞かれ、小春は顔を上げた。


「いえ。少し」

「少し?」

「手が小さいなと思いまして」

「十歳だからね」

「そうでした」

「大丈夫? また熱ある?」

「ありません」


 母は怪しそうに小春の額へ手を伸ばした。


「本当に?」

「本当です」


 額へ触れられながら、小春は少しだけ笑った。


 母の手。自分の手。どちらも、今の生活にある。それでいいのだと思った。


 少なくとも今は。



◆◆◆



 五月も半ばを過ぎた、日曜日。日差しに、少しずつ初夏の気配が混じり始めていた。小春は母と駅前へ出ていた。


「小春、これどう?」


 衣料品店で母が持ち上げたのは、淡い色のブラウスだった。襟元に小さな飾りがついている。小春は一度見て、隣に掛かっている無地のものへ視線を移した。


「こちらのほうが合わせやすいと思います」

「また地味なの選ぶ」

「汚れも目立ちにくいです」

「十歳の服選びで最初にそこ見る?」

「実用的です」

「最近ほんとに妙なところで大人っぽいよね」


 母は言いながらも楽しそうだった。結局、小春が選んだものとは別に、母が気に入った髪飾りまで買うことになった。


「これは必要でしょうか」

「必要です」

「断言しましたね」

「小春に似合うから」

「それは必要性とは別の話では」

「似合うから必要なの」


 理屈が強かった。いや、理屈ではない。


 断ればいい。それだけのことが、昔からできなかった。


 小春は何も言わず、髪飾りを受け取った。


(まあ、あの顔を見せられてはのう)


 店を出る。母が紙袋を一つ小春へ渡した。先ほどの買い物袋より明らかに軽い。どうやら、重いものを持つ件については信用を失っている。


「持てます」

「知ってます」

「なら、もう少し重いものでも」

「だめです」

「……はい」


 二人で駅前の通りを歩く。人通りは多すぎず、少なすぎない。飲食店や小さな店が並び、その間に古い建物がいくつか残っている。そのうちの一軒の入口が、風を通すために開け放してあった。


 小春は母の半歩後ろを歩いていた。


 その時だった。


 パチン。


 足が止まった。考えるより先だった。耳が、その音だけを拾った。


 車の音。人の話し声。店先から流れる音楽。


 その全部の中から、たった一つ。


 石が盤へ落ちる音。


 小春はゆっくりと横を向いた。開いた扉の脇に、小さな看板が立っている。


『こども囲碁教室』


 その下に、手書きで『見学できます』と書かれていた。


「小春?」


 母が二、三歩先で振り返る。


「どうしたの?」


 小春は答えなかった。いや、答えられなかった。


 扉の奥が見える。いくつかの碁盤。向かい合って座る子供たち。黒と白の石。盤の横に置かれた碁笥。


 見慣れている。何十年も見てきた。なのに、今の小春にとっては初めて見る場所だった。


「囲碁?」


 母が看板を覗き込む。


「興味あるの?」


 小春は唇を開いた。


「……あります」


 自分でも驚くほど、声が小さかった。


 母は教室の中と小春を交互に見る。


「見てみる?」

「……はい!」


 今度は、はっきり答えた。



◆◆◆



「こんにちは。見学ですか?」


 声をかけてきたのは、五十代半ばくらいの男性だった。教室の先生らしい。


「すみません、外を通ったらこの子が急に立ち止まって」


 母が言う。


「囲碁に興味があるみたいで」

「それはそれは。どうぞ、入ってください」


 促され、小春は靴を脱いで中へ入った。


 畳ではない。古い碁会所とも違う。明るい部屋に机が並び、その上には薄い木の卓上盤が置かれている。子供向けらしく、壁には簡単なルールを書いた紙も貼られていた。


 それでも、盤と碁笥の木の匂い。碁笥の蓋を外す音。考えている人間だけが作る、あの少し不思議な沈黙。


 胸の奥がざわついた。


(碁だ)


 当たり前のことを、わざわざ思う。碁だった。本物の。盤を挟んで、人と打つための碁。


「小学生?」

「五年生です」

「囲碁はやったことある?」


 先生に聞かれ、小春は少しだけ詰まった。


 ある。七十年ほど。そんな答えが許されるはずもない。


「……少し、知っています」


 嘘ではない。かなり控えめなだけだ。


「じゃあ、石の持ち方も分かるかな」


 先生は近くの空いている盤へ小春を案内した。


「よかったら一個、置いてみる?」


 碁笥の蓋が外される。黒石が並んでいる。


 小春は動けなかった。


 目の前にある。ずっと欲しかったものが。ほんの少し前まで、死ぬ時にもう一度触れたいと思っていたものが、今は十歳の自分の手の届くところにある。


「小春?」


 母の声で我に返った。


「大丈夫?」

「……はい」


 小春は右手を伸ばした。石を一つ摘まむ。


 人差し指と中指。考えるまでもなく、指がその形になった。


 先生が、少しだけ黙った。それから何も言わず、碁笥の蓋を盤の横へ置いた。


 小春は気づかなかった。気づく余裕がなかった。指先に、違うものがあったからだ。


 石が違うのではない。手が違う。


 前世の指が覚えている幅で挟もうとすると、少し収まりが悪い。人差し指と中指の長さも、関節の位置も、力の入り方も違う。


 黒石が指先でわずかに滑った。落とすほどではない。けれど、その小さなずれが妙に大きく感じられた。


 小春は持ち直す。盤を見る。


 空っぽの十九路盤。どこへ置いてもいい。対局ではない。ただ一つ、石を置くだけだ。


 それなのに、胸が少し苦しい。


 小春は右手を下ろした。


 パチ。


 黒石が盤へ乗った。


 先生が小さく何かを言った。母も隣にいる。けれど、小春はすぐには顔を上げられなかった。


 音が違った。


 悪い音ではない。石はきちんと盤を叩いた。ただ、自分が何十年も聞いてきた音とは違って聞こえた。


 あの老いた手で、迷いなく石を放していた頃の音。今の手から生まれた音は、それより少し頼りない。


(……昔のわしの音とは、違う)


 小春は自分の右手を見る。小さい。十歳の手。


 この手も間違いなく自分のものだ。前世で何十年も聞いた音も、自分のものだった。


 なら、今の自分の音は、どんな音なのだろう。


 まだ分からない。分からないからこそ、もう一度、打ちたいと思った。


 一度では足りない。


 盤を挟みたい。考えたい。迷いたい。負けたくない。


 そして終わったら、また次の一局を打ちたい。


 七十年分の記憶が、そう言わせているだけではない。今ここで黒石を置いた桜井小春自身が、もう一度打ちたいと思っている。


 小春は顔を上げた。


 母が、少し不思議そうにこちらを見ていた。


「小春?」

「お母さん」

「うん?」


 小春はもう一度、盤を見た。


 黒石が一つだけ置かれている。


 十歳の手で置いた、最初の一手。


「ここに通いたいです」

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