第2話 十歳の手
朝になっても、桜井小春は桜井小春だった。
目を開ければ見慣れた天井があり、枕元には昨夜飲んだ水のコップがある。机の上には学校の教科書。椅子の背には、脱いだままにして母に叱られたカーディガン。
何も変わっていない。変わったのは、小春の中に昨日までなかった七十年があることだけだった。
「小春?」
扉が少し開き、母が顔を覗かせた。
「起きてる?」
「はい」
「熱、どう?」
母が入ってくる。ベッドの脇へ腰を下ろし、小春の額へ手を当てた。
その手を、小春は知っている。熱を出した時に触れてくれた手。眠れない夜に背中を撫でてくれた手。小学校へ上がった朝、曲がった襟を直してくれた手。同時に、七十歳近くまで生きた男の記憶から見れば、自分よりずっと若い女性の手でもある。
一瞬だけ、妙な感じがした。けれど。
「昨日より下がってるね。よかった」
ほっとしたように笑う母を見て、その違和感はすぐに小さくなった。
母だ。自分の母親だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「心配かけてすみません」
「……小春」
「はい?」
「なんか急にかしこまってない?」
「そうでしょうか」
「ほら、それ」
母が笑う。
「昨日まで、そんなに『そうでしょうか』って言う子じゃなかったでしょ」
言われてみれば、確かにそうだった。小春としての記憶を探れば、母とはもう少しくだけて話していた気がする。少なくとも、いちいち背筋を伸ばして受け答えなどしていない。
「……癖になったみたいです」
「一晩で?」
「一晩で」
「熱ってすごいねえ」
納得したのかしていないのか、母はそう言って立ち上がった。
「今日はまだ学校休もうね。おかゆ食べられそう?」
「食べます」
「梅干しは?」
「お願いします」
「はいはい」
扉へ向かいかけた母が、ふと振り返る。
「あと、夜中に歩き回るの禁止」
小春は固まった。
「……起きていたんですか」
「トイレに起きたら、鏡の前で自分の顔じーっと見てる娘がいたら、そりゃ気づくよ」
「声をかけてください」
「なんか真剣だったから」
「そこは声をかけてください」
母はくすくす笑いながら部屋を出ていった。
扉が閉まる。
小春は布団の上でしばらく黙っていた。昨夜、自分は何と言ったのだったか。
『……なんじゃこれは』
思い出した瞬間、小春は両手で顔を覆った。
「……聞かれてませんよね」
返事はない。当然だった。
十歳の自室で、七十年分の恥ずかしさだけがじわじわと込み上げてきた。
◆◆◆
熱が下がり、学校へ戻ってからも、世界そのものは何も変わらなかった。
朝になれば起きる。顔を洗う。朝ごはんを食べる。ランドセルを背負って学校へ行く。授業を受ける。給食を食べる。友達と話す。帰れば宿題がある。
桜井小春として十年間積み重ねてきた生活は、前世を思い出したくらいでは消えてくれない。消えてほしいとも思わなかった。
何も失ってはいない。
ただ、見えるものが増えた。
「小春、それ何描いてるの?」
休み時間、隣の席の女子が覗き込んできた。
算数のノート。方眼の升目の上に、黒く塗った丸と、輪郭だけの丸が交互に並んでいる。
「……落書きです」
「線からはみ出さないんだ」
「そういう決まりなので」
「決まりあるの?」
答えに困った。あるといえば、ある。碁石は升目の中ではなく、線の交わるところへ置く。七十年、一度も間違えたことのない決まりだ。しかしそれを十歳の口で説明する方法が、うまく見つからなかった。
「……なんとなくです」
「ふうん」
友達は納得したのかしていないのか、そのまま自分の席へ戻っていった。
小春はノートを閉じる。こういうことが、最近よくある。窓の外を眺めていても、校庭の隅にある木と木の間隔を見て、なぜか石の配置を思い出す。給食の白い豆を見て碁石を思い出した時は、さすがに自分でもどうかと思った。
(重症じゃな)
何の病気かは分からない。少なくとも熱はもうない。
◆◆◆
その日の夜。
宿題を終えたあと、小春はノートを新しく開いた。定規で線を引く。縦に十九本。横に十九本。目が疲れる作業だった。線は少し曲がった。それでも、十九路盤の形にはなった。
小春は鉛筆を持ち直す。
黒。白。黒。白。
塗りつぶした丸と、輪郭だけの丸を、交互に置いていく。手順は覚えていた。忘れるはずがない。昔、大きな棋戦で勝った一局だ。相手の顔も、その日の対局室の暑さも、終局後に飲んだ茶の味も覚えている。
鉛筆が進む。十手。三十手。五十手。
途中で一度、指が止まりかけた。右下の白が、いい手を打っている。あの時は気づかなかった。今なら分かる。ここで受けていれば、もっと楽な碁だった。
小春は少し笑って、そのまま当時の手を書き込んだ。
百手を過ぎる。二百手を過ぎる。
最後まで並べ終えた。
ノートの上に、あの日の盤面がある。小春はしばらく、それを見ていた。
何も起きなかった。当たり前だった。
紙の上の丸は、こちらが書かなければ次の一手を返してこない。考えてもくれない。長考もしない。間違えもしない。読み違えて青くなることも、いい手を打たれて背筋が寒くなることもない。
向かいに、誰も座っていない。
小春は鉛筆を置いた。
(……足りんな)
ただ碁が打ちたい、では足りなかった。誰かと、盤を挟みたい。
相手が考え、迷い、こちらの予想を外してくる。その時間ごと、もう一度ほしかった。
七十年近く打って、それでも足りなかったらしい。我ながら、業が深い。
◆◆◆
「小春、それ持たなくていいよ」
「これくらい平気です」
「平気じゃないでしょ。重いって」
数日後の夕方。
母が仕事から帰ってきたあと、小春は買ってきたものを台所へ運ぶのを手伝っていた。両手に抱えた買い物袋には、牛乳と調味料と野菜が入っている。
前なら、もっと重いものも普通に持っていた。――前、というのが少々ややこしい。昨日までの十歳の自分ではなく、さらにその前。岩城宗一だった頃の話だ。
小春は袋を持ち上げ直した。
「問題ありません」
「腕ぷるぷるしてるけど」
「これは……」
ぷるぷるしていた。認めたくないが、していた。
「持つよ」
「いえ、あと少しなので」
「頑固」
母に言われ、小春は黙る。その言葉には、妙に覚えがあった。
結局、牛乳だけ母に持ってもらった。
七十年、世話を焼く側に回ることの方が多かった。その自分が、牛乳一本を持たせてもらえない。少々、慣れない。
家へ帰ると、小春は食器を片づけ、洗濯物を畳んだ。覚醒前から手伝いはしていたが、今は手が空いていると何かしたくなる。
畳んだタオルを棚へ戻そうとして、手を伸ばす。
届かない。背伸びをする。
まだ届かない。
「…………」
もう少しだった。あと数センチ。
小春は爪先に力を入れる。それでも、届かない。
台所からは水の音がしている。呼べば母が来るだろう。
小春は呼ばなかった。
椅子を運んでくる。上へ乗る。ようやくタオルを棚へ戻す。
七十年分の生活経験があっても、棚の高さは低くならない。
降りたところで、自分の手が目に入った。
小さい手。細い指。まだ節も目立たない。記憶を取り戻すまでは、それはただ自分の手だった。今は、その向こうに別の手の感触がある。
黒石を摘まんできた指。何十年も碁盤の上を行き来した、皺の深い手。
小春は右手を開き、ゆっくり閉じた。
同じようには動かない。当然だ。身体が違う。力も、指の長さも、目線の高さも違う。それでも、この手も自分の手だった。
「何してるの?」
母に聞かれ、小春は顔を上げた。
「いえ。少し」
「少し?」
「手が小さいなと思いまして」
「十歳だからね」
「そうでした」
「大丈夫? また熱ある?」
「ありません」
母は怪しそうに小春の額へ手を伸ばした。
「本当に?」
「本当です」
額へ触れられながら、小春は少しだけ笑った。
母の手。自分の手。どちらも、今の生活にある。それでいいのだと思った。
少なくとも今は。
◆◆◆
五月も半ばを過ぎた、日曜日。日差しに、少しずつ初夏の気配が混じり始めていた。小春は母と駅前へ出ていた。
「小春、これどう?」
衣料品店で母が持ち上げたのは、淡い色のブラウスだった。襟元に小さな飾りがついている。小春は一度見て、隣に掛かっている無地のものへ視線を移した。
「こちらのほうが合わせやすいと思います」
「また地味なの選ぶ」
「汚れも目立ちにくいです」
「十歳の服選びで最初にそこ見る?」
「実用的です」
「最近ほんとに妙なところで大人っぽいよね」
母は言いながらも楽しそうだった。結局、小春が選んだものとは別に、母が気に入った髪飾りまで買うことになった。
「これは必要でしょうか」
「必要です」
「断言しましたね」
「小春に似合うから」
「それは必要性とは別の話では」
「似合うから必要なの」
理屈が強かった。いや、理屈ではない。
断ればいい。それだけのことが、昔からできなかった。
小春は何も言わず、髪飾りを受け取った。
(まあ、あの顔を見せられてはのう)
店を出る。母が紙袋を一つ小春へ渡した。先ほどの買い物袋より明らかに軽い。どうやら、重いものを持つ件については信用を失っている。
「持てます」
「知ってます」
「なら、もう少し重いものでも」
「だめです」
「……はい」
二人で駅前の通りを歩く。人通りは多すぎず、少なすぎない。飲食店や小さな店が並び、その間に古い建物がいくつか残っている。そのうちの一軒の入口が、風を通すために開け放してあった。
小春は母の半歩後ろを歩いていた。
その時だった。
パチン。
足が止まった。考えるより先だった。耳が、その音だけを拾った。
車の音。人の話し声。店先から流れる音楽。
その全部の中から、たった一つ。
石が盤へ落ちる音。
小春はゆっくりと横を向いた。開いた扉の脇に、小さな看板が立っている。
『こども囲碁教室』
その下に、手書きで『見学できます』と書かれていた。
「小春?」
母が二、三歩先で振り返る。
「どうしたの?」
小春は答えなかった。いや、答えられなかった。
扉の奥が見える。いくつかの碁盤。向かい合って座る子供たち。黒と白の石。盤の横に置かれた碁笥。
見慣れている。何十年も見てきた。なのに、今の小春にとっては初めて見る場所だった。
「囲碁?」
母が看板を覗き込む。
「興味あるの?」
小春は唇を開いた。
「……あります」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
母は教室の中と小春を交互に見る。
「見てみる?」
「……はい!」
今度は、はっきり答えた。
◆◆◆
「こんにちは。見学ですか?」
声をかけてきたのは、五十代半ばくらいの男性だった。教室の先生らしい。
「すみません、外を通ったらこの子が急に立ち止まって」
母が言う。
「囲碁に興味があるみたいで」
「それはそれは。どうぞ、入ってください」
促され、小春は靴を脱いで中へ入った。
畳ではない。古い碁会所とも違う。明るい部屋に机が並び、その上には薄い木の卓上盤が置かれている。子供向けらしく、壁には簡単なルールを書いた紙も貼られていた。
それでも、盤と碁笥の木の匂い。碁笥の蓋を外す音。考えている人間だけが作る、あの少し不思議な沈黙。
胸の奥がざわついた。
(碁だ)
当たり前のことを、わざわざ思う。碁だった。本物の。盤を挟んで、人と打つための碁。
「小学生?」
「五年生です」
「囲碁はやったことある?」
先生に聞かれ、小春は少しだけ詰まった。
ある。七十年ほど。そんな答えが許されるはずもない。
「……少し、知っています」
嘘ではない。かなり控えめなだけだ。
「じゃあ、石の持ち方も分かるかな」
先生は近くの空いている盤へ小春を案内した。
「よかったら一個、置いてみる?」
碁笥の蓋が外される。黒石が並んでいる。
小春は動けなかった。
目の前にある。ずっと欲しかったものが。ほんの少し前まで、死ぬ時にもう一度触れたいと思っていたものが、今は十歳の自分の手の届くところにある。
「小春?」
母の声で我に返った。
「大丈夫?」
「……はい」
小春は右手を伸ばした。石を一つ摘まむ。
人差し指と中指。考えるまでもなく、指がその形になった。
先生が、少しだけ黙った。それから何も言わず、碁笥の蓋を盤の横へ置いた。
小春は気づかなかった。気づく余裕がなかった。指先に、違うものがあったからだ。
石が違うのではない。手が違う。
前世の指が覚えている幅で挟もうとすると、少し収まりが悪い。人差し指と中指の長さも、関節の位置も、力の入り方も違う。
黒石が指先でわずかに滑った。落とすほどではない。けれど、その小さなずれが妙に大きく感じられた。
小春は持ち直す。盤を見る。
空っぽの十九路盤。どこへ置いてもいい。対局ではない。ただ一つ、石を置くだけだ。
それなのに、胸が少し苦しい。
小春は右手を下ろした。
パチ。
黒石が盤へ乗った。
先生が小さく何かを言った。母も隣にいる。けれど、小春はすぐには顔を上げられなかった。
音が違った。
悪い音ではない。石はきちんと盤を叩いた。ただ、自分が何十年も聞いてきた音とは違って聞こえた。
あの老いた手で、迷いなく石を放していた頃の音。今の手から生まれた音は、それより少し頼りない。
(……昔のわしの音とは、違う)
小春は自分の右手を見る。小さい。十歳の手。
この手も間違いなく自分のものだ。前世で何十年も聞いた音も、自分のものだった。
なら、今の自分の音は、どんな音なのだろう。
まだ分からない。分からないからこそ、もう一度、打ちたいと思った。
一度では足りない。
盤を挟みたい。考えたい。迷いたい。負けたくない。
そして終わったら、また次の一局を打ちたい。
七十年分の記憶が、そう言わせているだけではない。今ここで黒石を置いた桜井小春自身が、もう一度打ちたいと思っている。
小春は顔を上げた。
母が、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「小春?」
「お母さん」
「うん?」
小春はもう一度、盤を見た。
黒石が一つだけ置かれている。
十歳の手で置いた、最初の一手。
「ここに通いたいです」




