第1話 死んでも碁は打ちたい
新連載、始めます!
囲碁を題材にした物語ですが、囲碁のルールを知らない方でも楽しんでいただけるように書いていくつもりです。
難しいことはひとまず置いといて、少女と碁盤をめぐる物語を楽しんでいただければ嬉しいです。
盤上には、死にかけた石があった。
黒石の一団。右辺に追い詰められ、白に囲われ、息をする場所を失いかけている。
助けようと思えば、まだ助けられる。ただし――助けてはいけない。
それが、この碁の答えだった。
対局室は静かだった。記録係は膝の上に置いた手を動かさない。対面に座る若い棋士も、表情こそ崩していなかったが、すでに終局を意識しているのが宗一には分かった。誰も口には出さない。出す必要がない。それくらい、はっきりした局面だった。
黒が悪い。少し、ではない。かなり悪い。盤面のあちこちに白の勢力が広がり、黒は細い糸をつないで、どうにか勝負の形を保っている。その糸さえ、もう切れかけていた。
岩城宗一九段は碁笥へ手を入れた。指先に触れた黒石を、一つ摘まむ。
七十年近く使ってきた手だった。節が太い。皺が深い。最近では長い対局になると、少し震える。若い頃は、こんな手になるとは思ってもいなかった。だが、石を摘まむ感触だけは変わらない。つるりと冷たい黒石が、人差し指と中指の間に収まる。
宗一は盤を見る。
右辺。死にかけた黒石。
中央。まだ手を入れるべき場所。
左辺。白の、まだ弱いところ。
盤全体。
そしてまた、右辺。
助かる。
宗一の目には、それが見えていた。あと一手。いや、二手。白の応じ方次第では、もっと手がかかる。だが、読み切れば生きる。
生きるのだ。
同時に、もう一つ見えていた。右辺を放って、中央へ回る道。おそらく、そちらが正しい。
迷わなかった。というより、迷う前に指が動いていた。
ならば。
パチン。
黒石が盤を打った。
記録係が、ほんのわずかに顔を上げる。若手棋士の眉が動いた。驚いたのではない。たぶん、こう思ったのだ。
――やっぱり、そこへ打つのか。
宗一は口元だけで笑った。長い棋士人生だった。似た顔なら、何度も見てきた。呆れた顔。困った顔。感心した顔。そして時には、怒った顔。
岩城先生は石を捨てなさすぎる。
その石はもう役目を終えています。
そこへ手をかけるから全体が遅れるんです。
何度言われたか分からない。何十年も前から分かっていた。分かっていて、直らなかった。
白が応じる。宗一はすぐに次の石を持った。
もう一手。
白。
黒。
白。
黒。
盤の右辺だけを見れば、見事なものだった。一度は死にかけていた黒石が、狭い隙間から身体をねじ込むように逃げ出していく。白の包囲網に穴を開ける。追われる。かわす。また追われる。それでもつながる。
記録係の視線が、いつしか宗一の指先を追っていた。若手棋士の顔から、余裕が消えている。
それでいい。碁は最後まで分からん。最後の最後にひっくり返ることだってある。取られるはずだった石が生きれば、それだけで相手の計算は狂う。狂えば、隙が生まれる。
隙があれば――。
そこで宗一は、盤全体を見た。
笑みが消えた。
右辺の黒は、生きた。生かした。その代わり、中央が遅れた。左辺では、白が大きな場所を占めている。黒石を救うために何手も費やしている間に、盤全体の差はさらに広がっていた。
分かっていたことだった。最初から。右辺を見切り、もっと大きな場所へ向かうべきだった。死にかけた石を諦めれば、勝負そのものはまだ細く残っていた。
だが、その道を自分で閉ざした。
宗一は小さく息を吐く。
対面の若手棋士が長考する。そして白石を置いた。
いい手だった。
逃げ道が、一つ消える。
勝負の逃げ道が。
宗一は盤を睨んだ。悪い。さっきより、ずっと悪い。それでも碁笥へ手を伸ばす。
記録係が息を呑んだ気配がした。
宗一は黒石を摘まんだ。
「まだじゃ」
誰に聞かせるでもなく呟く。若手棋士が顔を上げた。宗一は盤から目を離さなかった。
「この程度で、わしが投げると思うたか」
黒石を打つ。
パチン。
そこから、宗一は粘った。
一手。また一手。
白が安全に勝とうとすれば、その隙を突く。黒が取られそうになれば、逃げ道を探す。地が足りなければ、相手の陣地へ踏み込む。無理だと思われた石を生かし、生きない石でさえ、最後まで使い切る。
盤面が悪くなってからの岩城宗一は、嫌な棋士だった。勝っている側からすれば、たまったものではない。普通なら終わっている。目算では、とっくに大差。それなのに、少し気を抜けばどこからか黒石が顔を出す。一つのミスを十倍にして返してくる。終わるはずの碁が終わらない。
若手棋士の額に、薄く汗が浮かんだ。宗一はそれを見て、少しだけ嬉しくなった。
そうじゃ。もっと嫌がれ。
まだ終わっとらん。
まだ――。
だが、終わっていないことと、勝てることは同じではない。
最後まで、相手は間違えなかった。
宗一の指が碁笥の中へ入る。石に触れる。そのまま止まった。
読む。
一手。
二手。
三手。
どの道を選んでも、足りない。左へ行っても。中央へ出ても。相手の地へ踏み込んでも。
もう届かない。
目の前にある十九路の盤が、妙に広く見えた。長いこと見続けてきた景色だった。
子供の頃、初めて碁石を持った。院生になった。負けた。勝った。プロになった。また負けた。何度も勝った。もっと負けた。若い連中に追い抜かれた。同世代が一人、また一人と引退した。
それでも盤の前に座り続けた。
タイトルには、一度も届かなかった。あと少しというところまで行ったことはある。ひどく遠かったこともある。歴史に名前が残るような棋士ではない。岩城宗一という棋士を知らない囲碁ファンだって、いくらでもいるだろう。
それでも宗一にとって、そんなことは大した問題ではなかった。
目の前に盤があって、向かいに誰かが座っていて、黒と白の石を交互に置く。たったそれだけのことが、七十年近く経っても、まだ面白かった。
宗一は碁笥から手を出した。石は持っていない。両手を膝へ置く。少しだけ頭を下げた。
「ありません」
若手棋士も、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
終わった。
その瞬間、対局室の空気がほどけた。記録係が時計を止める。張り詰めていた若手棋士が、ようやく大きく息を吐いた。
宗一は腰を伸ばそうとして、顔をしかめた。
「いてて……」
身体まで終局を待っていたらしい。向かいの若手棋士が苦笑した。
「先生、大丈夫ですか?」
「七十近い爺さんを何時間座らせとると思っとる」
「僕のせいですか?」
「勝負じゃからな。お互いさまじゃ」
宗一も笑った。盤を挟めば敵だ。終われば棋士同士。昔から、それでいいと思っている。
若手棋士はしばらく盤を見ていた。やがて、右辺を指差す。
「あの石なんですけど」
「うむ」
「もっと早く捨てていたら……まだ分からなかったと思います」
宗一は黙った。
右辺。
宗一が何手も費やし、最後には生き延びさせた黒石が並んでいる。見事に生きている。その黒石だけを見れば、宗一の勝ちだ。
だが、碁には負けた。
「……そうじゃなあ」
若手棋士が慌てる。
「あ、すみません。偉そうなことを」
「いやいや」
宗一は手を振った。
「おぬしの言うとおりじゃ」
そこに怒りはなかった。悔しさなら、ある。もちろんある。負けて悔しくない棋士など、少なくとも宗一は信用しない。だが、若手の指摘は正しい。正しいからこそ、何十年も耳が痛かった。
「分かっとるんじゃがなあ」
宗一は笑った。
本当に、分かっている。石を捨てればいい。その一団に費やす一手を、盤全体へ回せばいい。一つを諦めて、もっと大きなものを守る。理屈は簡単だった。
なのに盤の上で、「まだ助かる」と見えてしまうと、指がそちらへ動く。
見捨てることが、どうしてもできなかった。生きる手があるのに。助ける手があるのに。それを知りながら別の場所へ打つことが、宗一にはどうしても苦手だった。
たぶん碁だけではない。昔から、そういう性分だった。頼まれれば断れない。面倒を見るつもりなどなかった後輩の研究会に、いつの間にか毎週顔を出している。弟子でもない若手の相談に夜中まで付き合う。もう放っておけと言われても、困っている顔を見れば首を突っ込む。
馬鹿なのだろう。宗一自身、何度もそう思った。
それでも右辺の黒石を見る。
生きている。
負けた盤の上で、それだけはしぶとく生き残っている。
宗一は、ほんの少し目を細めた。
――それでも助けたかった。
その気持ちだけは、最後まで消えなかった。
そして、それが岩城宗一九段の最後の公式対局になった。
◆◆◆
岩城宗一九段が亡くなったのは、それからしばらく後のことだった。
大棋士の死として世間がひっくり返るようなことはなかった。号外が出るわけでもない。特集番組が何本も組まれるわけでもない。
ただ棋界の片隅で、
あのしぶとい爺さんが逝ったらしい。
また一人、古い棋士がいなくなった。
そんなふうに惜しまれた。
宗一自身は、それで十分だった。タイトルは取れなかった。一番にはなれなかった。自分より強い棋士など、いくらでもいた。悔しい敗北もある。今でも思い出せる悪手もある。もしあそこで別の手を打っていれば、と考えた夜など数え切れない。
けれど、囲碁を嫌いになった日は、一日もなかった。
最後に見えたのは、白い天井だった。
盤はない。碁笥もない。指先に石の感触もない。もう対局相手も座っていない。
それが、少し寂しかった。
宗一は目を閉じた。
暗闇の中に、碁盤が浮かぶ。十九本と十九本の線。黒石。白石。無数の勝ち。それ以上の負け。投了した碁。投了しなかった碁。救った石。救えなかった石。
七十年分の盤面が、ゆっくりと遠ざかっていく。
ああ。
できることなら。
もう一度だけ。
(もう一局、打ちたかったのう)
それが、岩城宗一という棋士の、最後の思いだった。
◆◆◆
十年後。
――パチン。
石の音がした。
黒。白。黒。白。
盤の上に、次々と石が増えていく。
知らない盤面だった。
なのに、知っている。
次にどこへ打つのかも。なぜそこなのかも。この手を打ったあと、どれほど後悔するのかさえ知っている。
手が見えた。老人の手。節くれだった指。そこに黒石が挟まっている。
盤へ下ろす。
景色が変わる。
別の盤。別の相手。
勝った。
また変わる。
負けた。
変わる。
若い自分がいる。
変わる。
髪に白いものが混じる。
変わる。
誰かが笑っている。
誰かが泣いている。
変わる。
何千局。何万手。
覚えているはずのない人生が、洪水のように押し寄せてくる。
違う。
覚えている。
知っている。
そして最後に、景色が止まった。
あの最後の対局。
右辺。
白に囲われた、死にかけの黒石。
老人の指が、黒石を一つ摘まむ。
助かる。
そう見えてしまった瞬間、迷うより先に手が動く。
パチン。
これは――。
「……っ」
桜井小春は目を開けた。
息が苦しい。喉が乾いている。全身が重い。視界がぼやけて、白い天井が揺れていた。
何度か瞬きをする。
見慣れた天井だった。自分の部屋。カーテン。本棚。机。ランドセル。壁に掛かった、小学校の時間割。
全部知っている。当たり前だ。ここは桜井小春の部屋なのだから。
小春は十歳。小学五年生。数日前から熱を出して、今日は学校を休んでいる。昨日、お母さんが病院へ連れていってくれた。薬も飲んだ。夕方には少し熱が下がったのに、夜になってまた上がった。
そこまで、全部覚えている。
「……夢……?」
声が掠れた。自分の声。もちろん知っている。
枕元の時計を見る。深夜。家の中は静かだった。お母さんは隣の部屋で眠っているはずだ。起こしたら心配させる。
水が欲しい。
身体を起こそうとして――小春は止まった。
右手が見えた。
小さい。白くて、指も細い。
十歳の、自分の手。
その手を見た瞬間、別の感触が重なった。
皺だらけの手。太くなった指の関節。冬になると痛んだ古傷。長い対局のあと、石を摘まむ指先がわずかに震えた感覚。
「……え?」
小春は自分の右手を左手で掴んだ。
柔らかい。
小さい。
違う。
何が。
何と違う。
答えを考えた瞬間、また記憶が押し寄せた。
碁会所の匂い。古い畳。煙草の煙が当たり前だった時代。師匠の声。プロになった日のこと。初勝利。連敗。結婚した棋士仲間を冷やかした夜。酒。研究会。朝まで並べた棋譜。若い棋士に負けて、一人で帰った駅のホーム。自分より先に亡くなった仲間の顔。
そして、若い声。
『もっと早く捨てていたら……まだ分からなかったと思います』
「……っ」
頭が痛い。熱のせいだけではない。
小春は布団から出た。足元がふらつく。壁に手をつく。
自分の部屋なのに、妙に低い。
いや、部屋が低いのではない。
自分が小さい。
そんなことは知っている。十歳なのだから。分かっている。ずっとこの身体で生きてきた。
なのに同時に、七十年ぶんの背丈と、七十年ぶんの目線を、身体のどこかが当然のように覚えている。
小春はゆっくりと机の横を通り、壁に掛かった鏡の前まで行った。
そこに、一人の少女がいた。
肩にかかる黒髪は、寝汗で頬へ貼りついている。熱のせいで顔は赤い。眠っていたせいで髪も乱れていた。
見慣れた顔だった。
桜井小春。
毎朝、歯を磨く時に見る。母に髪を結んでもらう時にも見る。写真にも映っている。知らない少女ではない。間違いなく自分だ。
小春は鏡へ手を伸ばした。鏡の少女も、小さな手を伸ばす。指先が冷たいガラスへ触れた。
その瞬間、また老人の手が重なった。
黒石を持つ手。投了するため膝へ置いた手。最後には、もう石に触れられなかった手。
岩城宗一。
名前が浮かぶ。
知っている。
プロ棋士。九段。七十歳前後で死んだ男。タイトルは取れなかった。しぶとい棋士と呼ばれていた。石を捨てるのが下手だった。最後まで碁が好きだった。
死ぬ時に――。
『もう一局、打ちたかったのう』
小春の喉が鳴った。
知らない人ではない。夢で見ただけの老人でもない。検索して知った誰かでもない。
好きだった食べ物を知っている。苦手だった相手を知っている。どの棋士に勝つと嬉しかったか。誰に負けると三日くらい機嫌が悪くなったか。若い頃、どんな手で勝ったか。晩年、どんな負け方をしたか。
全部。
記憶ではなく。
思い出として、知っている。
小春は鏡を見た。
十歳の自分。
その奥に、七十年近く生きた男の人生がある。
八十年。
そんな数字が頭をよぎった。
違う。単純に足せばいい話なのかさえ分からない。
桜井小春として過ごした十年は消えていない。お母さんのことも覚えている。学校の友達も。去年の誕生日も。苦手な算数の先生も。お気に入りの服も。
全部、自分のものだ。
なのに、岩城宗一の七十年も、同じくらい――いや、それ以上に生々しく、自分の中にある。
誰かが入り込んできた。そんな感じではない。それなら、まだ分かりやすかった。
そうではない。
どちらも自分だと、身体の奥のどこかが当然のように知っている。
小春は鏡の前で立ち尽くした。
熱でぼんやりした頭の中を、無数の盤面が流れていく。
黒。白。勝ち。負け。
老いた手。小さな手。
七十年。十年。
男。少女。
過去。今。
何一つ整理できない。
整理できないのに。
言葉だけが、勝手に口から零れた。
「……なんじゃこれは」




